-現在は教育支援のスペシャリストとして世界で活躍されていますが、子どもの頃はスイマーとして世界を目指されていました。
井本:小学6年生で50m自由形の日本学童新記録をマークしたこともあって、大阪の著名スイミングクラブから声がかかりました。両親は「自分のことは自分で決めなさい」と言ってくれ、迷いましたが中学生から東京の親元を離れ、寮生活を送りながら水泳に取り組むことを自分の意志で決めました。とはいえ、最初はホームシックが続き、毎晩ベッドで涙を流していました。
-強豪のスイミングクラブでの練習は、やはりハードだったのですか?
井本:もちろん!高いレベルを狙っていましたから練習は厳しくて、またライバル同士の戦いもあったりして、心身ともに鍛えられましたね。今につながる私の人間形成はこの時期のたまものだと思っています。そして大阪なので「人を笑わせることを言えないとダメ」という価値観の洗礼も浴びました(笑)。おかげでどちらかといえばおとなしかった私がすっかり前に出る性格になり、久しぶりに東京に戻って会った親や友達に「変わったねえ」と言われました。
-井本さんが国際貢献の仕事を初めて意識されたのは、中学生の頃とか。
井本:1990年の北京アジア大会の海外遠征で貧しい国から来た選手たちの姿を見て、自分たちが恵まれていることを痛感させられたのがきっかけです。厳しい国情の国の代表選手は、粗末なユニフォームや破れた水着で競技に出場しており、国には満足な練習用プールもないという話も聞きました。私たちが競技のために栄養バランスを考えた食事を取っている横で、彼女たちはデザートのプリンやアイスクリームを大喜びで食べている……そんな体験を通して、この世界には圧倒的な不公平が存在することに気づいたのです。
もともと私は英語の勉強が好きで海外で仕事をしてみたいと思っていたのですが、海外遠征でそんな不公平や世界の実情を知るようになり、やがて国際機関で働くことを考えるようになりました。高校3年生の頃、後に自分が赴任することになるルワンダで内戦によって多くの人々が虐殺されたというニュースを新聞で知り、「人間はなぜこんな残虐なことができるのか?」とショックを受けたことも、そんな気持ちを後押ししました。国際関係や国際貢献について学べる大学をいろいろと調べ、慶應義塾大学の総合政策学部を選びました。
-今度は大阪のスイミングクラブを辞めて、東京に戻ってオリンピック出場と国際支援への夢の両方を目指す、という決断をされたのですね。
井本:オリンピック出場のためには同じクラブで練習したほうが有利であることはわかっていましたし、そのためには関西の大学に進学するのが既定路線でした。しかし「国際機関で働きたい」という夢を抱いてしまった私はどうしても総合政策学部で学んでみたかったのです。思い切ってクラブのトップの方と直談判すると「人生をトータルに考えて、やりたいことをやりなさい」と励ましていただきました。中学・高校の6年間お世話になったクラブを離れるのは心苦しいものもありましたが、新たな気持ちでSFCでの大学生活をスタートさせました。