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福澤諭吉の「志」
と継承

天は人の上に人を造らず、
人の下に人を造らずと云えり”

明治初期、『学問のすゝめ』で人間の自由・平等・権利の尊さを説き、新しい時代の先導者となった福澤諭吉。その教育理念は、福澤が創立した慶應義塾に今も脈々と受け継がれています。ひとりの人間としての福澤は、儀礼的な慣習や常識などにとらわれることを嫌い、飾らず気さくで、また「独立自尊」を身をもって体現する行動的な人物でした。

「慶應義塾」と命名し
教育の理念を確立

幕末の大阪、蘭学者の緒方洪庵の適塾に学んだ福澤諭吉は故郷である中津藩の命を受け、江戸に下り1858(安政5)年、蘭学塾を創始。敢為な精神をもって欧米諸国を見聞した福澤は、帰国後、古いしきたりや慣習にとらわれない教育を実践しました。「独立」や「実学」など、現在も義塾が大切にしている理念は、このときすでに福澤教育の基礎となっています。

福澤は、1868(慶応4)年、塾舎を芝に移転するとともに学塾の礎を構築。あわせて時の年号にちなみ、学塾に「慶應義塾」という名称を冠したのです。

福澤が標した道を、その理念を受け継ぐ塾生たちが、新たな時代へ繋ごうとしています。

慶應義塾の目的

気品の泉源、智徳の模範
・・・以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり”

福澤諭吉は学問を修める過程で、「智徳」とともに「気品」を重視し、社会の先導者にふさわしい人格形成を志しました。福澤が門下生たちにその志を託した「慶應義塾の目的」と呼ばれる一文があります。

「慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず。其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみにあらず、躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」

これは慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明に言い表した一文として知られています。

福澤諭吉と慶應義塾の精神

ぎじゅく
【義塾】

義塾

ぎじゅく

もともと漢籍に義塾の用例はありますが福澤は英語の“パブリック・スクール”を参考に、この言葉に新しい知識のための学塾という意味を込めました。

どくりつじそん
【独立自尊】

独立自尊

どくりつじそん

「心身の独立を全うし、自らのその身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」。自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味する、慶應義塾の基本精神です。

じつがく
【実学】

実学

じつがく

福澤がいう実学はすぐに役立つ学問ではなく、「科学(サイヤンス)」を指します。実証的に真理を解明し問題を解決していく科学的な姿勢が義塾伝統の「実学の精神」です。

きひんのせんげん
【気品の泉源】

気品の泉源

きひんのせんげん

福澤は学問を修得していく過程で、「智徳」とともに「気品」を重視していました。人格を備えた社会の先導者となることが、義塾における教育の目標の一つです。

はんがくはんきょう
【半学半教】

半学半教

はんがくはんきょう

教える者と学ぶ者との師弟の分を定めず、先に学んだ者が後で学ぼうとする者を教える。教員と学生も半分は教えて、半分は学び続ける存在という、草創期からの精神です。

じがさっこ
【自我作古】

自我作古

じがさっこ

「我より古を作す(われよりいにしえをなす)」と訓み、前人未踏の新しい分野に挑戦し、たとえ困難や試練が待ち受けていても、それに耐えて開拓に当たるという、勇気と使命感を表した言葉で、義塾の信条となっています。

しゃちゅうきょうりょく
【社中協力】

社中協力

しゃちゅうきょうりょく

社中は、学生・卒業生・教職員など、すべての義塾関係者の総称。塾の運営を経済的に支えている「慶應義塾維持会」など、社中の協力は義塾の誇るべき伝統です。

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