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総合政策学部 水鳥寿思准教授、 陸上女子短距離選手 高桑早生君、競走部短距離ブロックコーチ 高野大樹君
2024/07/24
ご両親が体操クラブを運営されていて、3歳の頃から体操を始めたとか。
6人兄弟のうち私を含めた4人が体操の道に進みました。でも私は子どもの頃から体が硬くて、痛みに泣きながら柔軟体操をやっていたことを思い出します。8歳の頃にソウルオリンピックで西川大輔さんや池谷幸雄さんを擁する日本男子チームが、当時の強豪だったソ連や東ドイツなどと素晴らしい戦いを繰り広げたのをテレビで見て「自分もオリンピックに出たい!」と憧れの気持ちを持つようになりました。そこからはもうオリンピック代表選手になることが自分のアイデンティティとなりました。
体操の日本代表を目指すのは並大抵のことではなかったと思います。
日本体育大学入学後にようやくユニバーシアード日本代表になることができました。ところが4年生のとき、アテネオリンピックの代表選考を前に大けがをしてしまいます。しかし、幸運だったのは大学で指導を受けていた具志堅幸司監督(1984年ロサンゼルス大会金メダリスト)から国立スポーツ科学センターのスポーツ心理学の先生を紹介していただいたことでした。その先生とのやり取りの中で自分の目標や取り組むべきことが次第に頭の中で整理されていきました。「オリンピックの代表選手になる」という目標達成のためには何が必要かを逆算して戦略を立て、トレーニング、コンディショニングやメンタルを整えることに集中した1年を送り、満を持してアテネオリンピック代表選考会となるNHK杯に臨んだのです。
見事代表選手としてアテネオリンピックに出場。そして団体戦で金メダルを獲得されました。
オリンピック本番でも「金メダル獲得」という目標達成のため、現状把握をするとともに目標から逆算した戦略を立てていました。客観的な現状分析とどのようにすればそれが達成できるかロジカルな戦略を組み立て、より明確な「成功イメージ」を作り上げていくことで、夢が実現できる……この経験は私にとってその後の人生を歩む大きな自信となったように思います。
現役引退後、代表監督として2大会連続でオリンピックでの男子団体金メダル、銀メダルを獲得されました。
選手の立場と指導者の立場の違いに最初は戸惑いました。選手時代は自分の目標や戦略を考えていれば良かったのですが、監督は自分ではなくチーム全体を動かす仕事。高いレベルの技術とプライドを持つ代表選手たちを「金メダル」という目標に導くためには選手一人一人の「納得」が重要だと思い知りました。各選手の思いを汲み取りながら、どのようなタイミングで、どう指導していくか……今でも代表監督は難しい仕事だと思っています。
現在はSFCの教員として塾生たちも指導されていますね。
ずっと体育会系の道を歩んできた私は、自然に文武両道をこなすSFCの塾生から日々刺激をもらっています。体育の授業のほか、研究会で先ほどお話ししたスポーツ心理学の実践、トップスポーツにおけるコンディショニングなどのテーマを扱っています。私の研究会の塾生の8割は体育会に所属していますが、残りの2割はスポーツビジネスやスポーツの普及に関心がある塾生です。また今年度からはロンドンオリンピックのフェンシング男子フルーレ団体の銀メダリストである千田(ちだ)健太さん(総合政策学部専任講師)と一緒に、より多様なアプローチで研究会活動を展開していく予定です。
パリオリンピックでの見どころは。
まずは2022年、23年に世界体操競技選手権で男子個人総合金メダルを獲得した橋本大輝選手の活躍でしょう。そして橋本選手に続く若手の台頭も目覚ましく、日本チームは金メダルにかなり近い位置にいます。団体ではおそらくライバル中国との一騎打ちになるでしょう。代表チームに皆さまの熱い応援をよろしくお願いいたします。
(取材日2024年4月15日)
高桑さんはなぜ慶應義塾大学に入学されたのですか。
高桑 高校時代にSFCのプロダクトデザインを扱う研究室で「美しい義足」の研究をしていると知り、「そんな研究ができる大学にぜひ入学したい」と思いました。競走部の学生の個性を尊重する雰囲気や駅から近い日吉のグラウンドという恵まれた環境も魅力的でした。
大学在学中に初めてパラリンピックに出場されています。
高桑 はい、2年生のときでした。ロンドン大会は関係者の努力によってパラリンピックへの注目度が一気に高まった大会で、各競技場の客席が連日満員となり、選手へ熱い声援がありました。私もあれほど大勢の観客の前で走るのは初めてでしたが、緊張よりうれしさを感じました。あの大会がきっかけとなり、パラスポーツ全体への注目も高まっていったと思います。同時に従来は障害者スポーツの延長だったパラ選手が本格的に「アスリート」として技術を磨かなくては勝てない時代がやってきました。
注目度とともに選手の技術も向上したということでしょうか。
高桑 前回の優勝記録と同じタイムを出しても、予選落ちしてしまうことがあるぐらい選手の進化スピードが速くなっています。私がロンドン大会に出場できたのは、ある意味「若さ」と「勢い」に乗ったからで、次のリオデジャネイロ大会は「勢い」だけでは通用せず、「アスリートとしてトップレベルを目指す」という明確な目的意識を持ってチャレンジしました。パラリンピックへの出場は私にとってずっとチャレンジで、世界のレベルについていくのは本当に大変なことなのです。
高野 コーチの立場から見てもパラスポーツのレベルはロンドン大会以降、圧倒的に向上しており、出場すること自体が「チャレンジ」という彼女の言葉はまったくその通りです。実は選手だけではなく、私たちコーチもチャレンジが続いています。私が高桑選手の指導を始めた頃は、「もっと上」を目指すパラ選手の育成法はほぼ未開発でした。私も指導法を試行錯誤しながら編み出してきました。ようやくその輪郭は見えてきましたが、まだまだ課題が多く残っています。
高桑 高校時代に「もっと速くなりたい。もっと上を目指したい」と思っていた私に初めて共感し、正面から向き合ってくれた指導者が高野さんでした。
高野 私は高桑選手と同級生の山縣亮太選手も指導しています。健常者の選手でも、パラスポーツの選手でも、一人一人としっかり向き合うことが指導の出発点であることは同じです。スポーツの指導はともすれば多数に当てはまる「フォーマット」に頼りがちです。それではより高みを目指す選手の希望をかなえることは難しいです。パラ選手の場合はその度合いが健常者より大きいと言えるかもしれません。
高野さんから見て高桑選手のアスリートとしての特色とは。
高野 一言で言えば真面目。やるべきことを突き詰めて、一つ一つ愚直に取り組む選手です。実はそういうことがきちんとできるアスリートは決して多くありません。ただ真面目になりすぎて袋小路にハマることもあるので、そこは注意して指導しています。
パリパラリンピックに向けて塾生へのメッセージをお願いします。
高桑 まず今は、4大会連続出場できるよう頑張っています。晴れて出場できたらもちろん結果にこだわりたいですし、多くの皆さんがパラスポーツを知り、楽しむことができるきっかけづくりとなるパフォーマンスを見せたいと思っています。応援をよろしくお願いします。
高野 先ほどスポーツ指導のお話で「一人一人としっかり向き合う」と申し上げました。応援でも同じだと思います。「この選手はどんな努力をしてきたのか?」など、選手個々のストーリーを考えながら応援すると、よりパラスポーツを楽しんでいただけると思います。
日吉キャンパスの陸上競技場が3月21日にリニューアルした。
この陸上競技場は、2008年11月に挙行された慶應義塾創立150年記念式典の会場として使われ、多くの人が集った。それから現在に至るまで、体育実技の授業、高等学校や中等部の運動会などをはじめ、体育会競走部やラクロス部などの日常練習や試合会場として、連合三田会大会の会場として、さまざまな目的で使われてきた。その間、当然ながらトラックの表面は摩耗し、人工芝の劣化は進み、いよいよ日本陸上競技連盟(日本陸連)が定める公認陸上競技場としての認定が取れなくなる危険性があったため、昨年度に初の大規模な改修工事を行った。
全面改修するのであれば、単に公認を取得するという目的だけでなく、すべての利用者にとって使いやすい陸上競技場とすべく、設計にあたっては、体育研究所など関係部門の教職員や体育会各部の関係者で議論を重ねた。レーン上のマーク表記は、海外でも活躍できる選手を輩出できるよう国際水準を導入した。フィールドは、投てき対応型の人工芝を敷き、利用頻度の高いラクロス用にゴールラインの追加などを行った。最も大きな改修ポイントは、トラック全面が赤色から青色に変わった点だろう。青色トラックは近年のトレンドで、競技者のメンタルを落ち着ける効果があるといわれている。また照明器具をすべてLEDに更新し、環境にもやさしいものとなった。3月17日に丸1日かけて日本陸連の検定員による検定が厳密に行われ、無事公認が継続された。
この競技場の最大の魅力は、観客席と競技者の距離が近いことである。こけら落としとなった4月6日の東京六大学対校陸上競技大会では、各校の応援合戦などもあり、大いに盛り上がった。
これからも多くの塾生・塾員・教職員・地元住民などすべての利用者にとって思い出深い陸上競技場であり続けることが期待される。
この記事は、『塾』SUMMER 2024(No.323)の「特集」に掲載したものです。
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