-中島さんは幼い頃、海外で暮らしていたそうですね。
中島:父の仕事の関係で2〜7歳、さらに14〜16歳を米国で過ごしました。14歳で米国の学校に入ったときは英語のコミュニケーションでかなり苦労しましたね。当時の私は本が好きでおそらく年に200〜300冊ぐらい読んでいたと思います。本を読みながら「自分は何をしたいのか」「何をするべきなのか」についてぼんやりと考え続けていました。一つ自分の中で確かだったのは「一度きりの人生だから、より良い世界をつくるために生きたい」という思いでした。その頃はファンタジーSFが好きで、情報テクノロジーの知識はほとんどありませんでしたが、ある日ついに運命の一冊に出会いました。ネット小説(後に紙の書籍として出版)だったサイバーSF小説『Project SEVEN』です。
-どのようなストーリーの小説なのですか。
中島:当時の私と同年代の女子高生ハッカーが天才プログラマーの力を借りて世界同時サイバーテロを阻止するという物語です。作者の七瀬晶(ひかる)さんはその時システムエンジニアでもあったそうでサイバー空間のリアルな描写が素晴らしく、「パソコンで世界を救うことができるなんてスゴイ!」と強く心を動かされました。「世界を良くしたい」という私の夢の実現に近づけると感じ、以来、自分も「ハッカー」になり、セキュリティ技術を通じて社会を良くしたいと思うようになったんです。「ハッカー」と聞くとコンピュータやネットワークに不正侵入する犯罪者を思い浮かべる人が多いですが、それは間違いです。「ハッカー」は本来、深い技術力を持つ人を指し良い意味で使われる言葉でしたが、メディア等でサイバー犯罪者と同義に扱われ悪い印象がついてしまいました。そのため日本では現在、良い目的でセキュリティ技術を行使する技術者のことを「ホワイトハッカー」と呼び、私が目指しているのも、もちろんこちらになります。
-その後、大学受験を控えた17歳直前で帰国されました。
中島:高2の夏に日本の高校に編入学しました。ハッカーを目指して本格的に勉強に取り組み始めたのはその頃からですね。とは言え、どうすれば「ホワイトハッカー」になれるのか全くわかりませんでした。そこで最初は初級システムアドミニストレータ(現ITパスポート試験)の資格取得の勉強から始めました。完全に独学です。しかも翌年は大学受験だったので、そちらの対策も考えなくてはなりません。プログラミングの勉強や情報セキュリティの研究ができる大学を探しているうちに慶應義塾大学環境情報学部を見つけました。英語と小論文だけで受験できたことは、米国での生活が長かった私にとってありがたかったですし、カリキュラムの自由度や、1年生から研究室に所属できることも大きな魅力でしたね。入学4日目に早速、侵入検知システムの第一人者である武田圭史教授にメールで「ゼミに参加させてください」とお願いして、快諾いただきました。武田先生の研究室には、面白くてレベルの高い学生がたくさん集まっていて、まずは先輩の技術を見て学ぶことから始め、4年間を通して刺激的な環境で学ぶことができました。また、当時の環境情報学部長は「日本のインターネットの父」と称される村井純先生でした。村井先生は「どんな学生にも可能性がある」という信念で学生に接してくださる方で、私もそのお話を直接伺い大きな影響を受けました。後に私が初めての著書を出すときに村井先生から推薦の言葉を寄せていただき、とてもうれしかったです。