-ニクヨさんは金融・証券、保険業界での勤務経験があり、YouTuberやコラムニストとしても幅広く活躍しています。子どもの頃から、多才で活動的だったのですか?
ニクヨ:とんでもない! 今の私しか知らない方は意外かもしれませんが、10代までの私は本当に内気で、ひどい「コミュ障」でした。姉二人がいる末っ子の私は、年上に囲まれていたせいか、学校の同級生とはあまり話が合わなかったのです。そんなわけで友達も少なく、家でテレビばかり見ていました。運動も苦手でしたが、なぜかプロ野球は好きで、それが数少ない同年代男子との接点でした。何が面白いかというと打率や打点、本塁打、投手の勝ち数や防御率、あるいは球場の観客数など、データ数字の推移を見るのが楽しかったのです。小学生の頃から新聞をよく読んでいて、野球の試合結果が掲載されているスポーツ面以外では株式面も熟読していました。テレビCMで社名を知っている会社の価値が、日々株価という数字で評価されていることに小学生だった私はワクワクしていました。後年、金融・証券などの仕事をするようになったのも、この生来の数字好きに関係しているかもしれません。
その後、中学受験を失敗して、高校は地元の進学校に進みました。実は慶應高校、志木高校も受験していましたが、どちらも不合格でした。そのことが本当にショックで、高校入学後はしばらく誰とも口を利かなかったぐらいです(笑)。今は誰も信じてくれないかもしれませんが、私、そんな暗い10代を過ごしていたのです。
-ニクヨさんは読書好きだそうですが、中高生時代から本はよく読まれていましたか?
ニクヨ:はい。中学生の頃は堺屋太一さん、高校時代は落合信彦さんが大好きでした。官僚出身で経済企画庁(現・内閣府)長官としても活躍された堺屋さんからは高付加価値を生み出す人間の知恵の重要性を学んだと思います。落合さんが描く米国政治や石油ビジネスの世界に登場する、情報とインテリジェンスを活用してグローバル社会で活躍する人々にとても憧れました。自分も米国の大学に留学して国際ビジネスの世界に飛び出したい……でも、コミュ障の私にはそんなことはとてもムリ。そこで日本の大学で米国のリベラルアーツに最も近い大学はどこだろう、と探し当てたのが湘南藤沢キャンパス(以下、SFC)でした。SFC設立に尽力され、初代総合政策学部長になった経済学者の加藤寛先生は私の憧れの人でした。「加藤先生に教わりたい!」。その一念でSFCにターゲットを定めて受験勉強に取り組み、今度こそ合格を果たすことができました。
-入学時は環境情報学部で、その後、総合政策学部に転学部されていますね?
ニクヨ:そうなんです。入学してから社会科学系を重点的に学びたいと思うようになり、総合政策学部に移りました。しかしそれ以前に、SFCに入学した私はコミュ障をこじらせてしまい、他の学生と親しく交流することができませんでした。裕福そうな学生が華やかなキャンパスライフを過ごしているのを横目で見ながら気後れしてしまって……。入学直後に当時、新入生が参加するフレッシュマンキャンプという宿泊行事があったのですが、そこでセクシュアリティを含めて「みんなとは違う自分」を改めて意識させられたことも引きずっていました。
さらに1年生の夏休み、父ががん宣告を受けました。私は当時湘南台で一人暮らしをしていましたが、千葉市の実家に戻り、そのまま大学には行かなくなりました。結局、1年間休学し、翌年の秋に父を看取りました。父には私のセクシュアリティのことを最後まで言えませんでした。その後悔もあったのでしょう、私は同性が好きな自分をホモフォビア(同性愛や同性愛者に対する嫌悪や恐怖)から守り、自分らしく生きるための「理論武装」として、同性愛にシンパシーのある作家の橋本治さんや新宿二丁目のゲイの人たちが書いた本を読みまくりました。特に橋本さんの著書からは自己肯定感を高めてくれる示唆をたくさんいただきました。「人間誰しもいつかは死んでしまう。後悔しないよう自分の生きたいように生きるべき」と背中を押されました。