明治10年代前半は、憲法制定や国会開設を訴える自由民権運動の高まりによって、全国で演説会活動が活発化していた。当時の演説者や演説結社の記録を見ると、塾員が多く、この「演説の時代」において三田演説会が大きな役割を果たしていたことがわかる。初期の帝国議会においても、尾崎行雄、犬養毅、井上角五郎など、塾員が論戦のハイライトとなっていた。
とはいえ、三田演説会は決して政治的な言論に偏ることなく、むしろ学術的な演説会であることを目指していた。細菌学の野口英世、チベット語学の河口慧海、地震学の大森房吉など、国際的にも活躍する当時の各界第一人者を招いている。
大正デモクラシーの時代、尾崎行雄を中心とする憲政擁護運動が桂太郎内閣を総辞職に追い込むなど、自由民権運動と同様に言論の力が社会を動かす時代となった。第一次世界大戦への参戦もあって日本が国際社会において地位を高めていくと、三田演説会の演題もヨーロッパやアジアなど国際情勢に関するものが多く取り上げられるようになった。
しかし昭和初期、五・一五事件や二・二六事件などのクーデター事件を経て軍部の独走が進むと、今度は言論の力への警戒感が高まった。五・一五事件で首相官邸に押し入って銃を向ける青年将校たちに「話せばわかる」と言い放った犬養毅は言論=演説の力を最後まで信じていたと言えるだろう。その後、次第に演説結社にはさまざまな圧力が加えられ、三田演説会も日中戦争中の1939(昭和14)年の開催を最後に中断されることになった。