1933(昭和8)年に塾長に就任した小泉信三は「理工系学部設立」を重要な懸案事項としていた。実は福澤諭吉の在世当時より、文学部・経済学部・法学部・医学部に続く理工系学部の設置が慶應義塾の課題となっていたが、学部設立のためには莫大な費用が必要となり、資金調達が高い壁になっていた。
同じ頃、王子製紙株式会社社長・会長を務め「製紙王」と呼ばれた塾員の藤原銀次郎は、日本の発展のためには私財を投じてでも本格的な工業大学を設立することが必要だと決意を固めていた。同じ志を抱いた塾員同士が会談の機会を持ったのは1938(昭和13)年のこと。6月に東京・銀座の交詢社で工業大学設立に関する初めての話し合いが行われ、その後二人は何度も協議を重ねる。その結果、小泉が学長として教育を、藤原が理事長として経営を担当することで合意し、藤原が私財800万円を投じて「藤原工業大学」を設立することが決定した。
1939(昭和14)年、日吉キャンパス内に理工学部の前身となる藤原工業大学(機械工学科、電気工学科、応用化学科、および予科)創設。小泉と藤原の協議の中で、将来の慶應義塾との合併を見据えて、制服や教員人事などは慶應義塾大学と同等または共通にするように配慮された。