慶應義塾

甲斐織衛

執筆者プロフィール

  • 結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    一貫教育校 女子高等学校教諭

    結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    一貫教育校 女子高等学校教諭

2022/02/26

画像:福澤研究センター蔵

福澤は海外移民を積極的に奨励し、明治20(1887)年には自らも支援した移民団がサンフランシスコに渡った。筆者が本連載の57回で紹介した田中鶴吉はその一員だった。この移民事業は結局失敗したが、移民団の派遣以前から計画に参加し、福澤から送金された支援金を現地で移民団に提供していたのが、今回取り上げる甲斐織衛(かいおりえ)であった。

英語に触れ、慶應義塾へ

甲斐は嘉永3(1850)年、中津藩士甲斐理兵衛の長男として江戸藩邸に生まれた。文久3(1863)年には藩命により中津に戻って二度の長州戦争に従軍し、戊辰戦争では大坂に出征後、新政府軍に参加して甲府や会津などを転戦した。甲府駐屯の際には、部下だった浜野定四郎(明治12年に塾長就任)から英語を教わったという。

明治元(1868)年9月に会津藩が降伏した後、中津帰藩の途中で東京に立ち寄った甲斐は、新銭座の福澤を訪ねた。甲斐の懐旧談によると、洋式兵学を学びたいが、原書を読んで勉強したいという甲斐に、福澤は喜んで文典を教えたという。甲斐はそのまま東京に留まることを望んだが藩に許されず、一度中津に戻ることになった。しかし学問の継続を望み、翌年12月に再び義塾の門を叩く。

演説会を創る

再入塾後の甲斐の学問は、兵学にはならなかった。義塾での足跡を辿ると、明治7(1874)年には共訳で『童蒙教(どうもうおしえ)のはじめ』という教育書を出版しており、教育分野に関心を持っていたことが推察される。

また目に付くのは、三田演説会での活躍である。福澤が演説や討論の重要性を盛んに説いたことは改めて言うまでもないが、三田演説会はその演説と討論の方法の開拓と実践のために明治7年に発足した組織である。甲斐は発足時の会員に名を連ねてその研究を重ね、自らも度々演壇に立った。残念ながら甲斐の演題は判明しないが、『三田演説会資料』に拠ると明治8年6月の第2回演説会から明治10年10月の第40回演説会までの間に20回登壇しており、その積極さが窺える。

なお「勤惰帳」によれば、甲斐は明治5年8月まで義塾に在籍していた。その後、大分の洋学校(府内学校)長ならびに中津市学校長に任じられ、明治9年まで隔年で勤務している。

商業教育を創る

ところで、福澤が各地の諸学校の設立に協力した事例は枚挙にいとまがない。明治8(1875)年には、日本初の商業学校、商法講習所(現在の一橋大学の前身)の設立に協力している。具体的には、同校の設立基金を集めるための趣意書「商学校を建るの主意」を執筆しているのだが、ここには外国貿易に対する福澤の憂慮が率直に示される。現在の日本の貿易は外国人に主導権を握られている。それは、外国貿易で必須の知識がないからだ。商売で外国と勝負するには、商業学校を拵えて外国に対抗できる人材を育てなければならない、というのである。実際に商法講習所にはアメリカ人のホイットニーが招かれ、英語で欧米の商法や会計が教授されるなど、そうした人材の育成が目指された。

そして、その福澤の憂慮は、当時の日本社会において、福澤だけのものではなかった。三菱の岩崎弥太郎も外交貿易に従事する中で同様の危機感を持ち、明治11年には、福澤に協力を依頼して三菱商業学校を設立している。

また兵庫県権令(のち県令)の森岡昌純も、貿易港神戸を県下に抱える中で、貿易振興とそれを担う人材の育成を望んでいた。森岡は同県勧業部長だった牛場卓蔵(のちに時事新報や山陽鉄道で活躍)を通じて福澤に協力を依頼し、その結果、福澤と森岡の間で商業学校の新設に関する「約束書」が取り交わされる運びとなった。「約束書」には、義塾が神戸商業講習所の運営に責任を持つこと、教員の人選は福澤が請け負うことが記された。こうして明治11年に開設されたのが神戸商業講習所(現在の兵庫県立神戸商業高校の前身)であり、その校長に任命されたのが甲斐だった。

では、甲斐はどのような学校を創ったのだろうか。甲斐が作成した同校の「規則書」には、「凡そ実地と学問と互に背馳隔絶する程稽古人の為に不利なる者はなし」とあり、学問の実践を事あるごとに訴えていた福澤の思想との一致が見られる。その実践重視の姿勢を代表したのが「実地演習」と名付けられた商業実践科目で、これは、生徒たちが校内に設置された架空の郵便局や運送問屋、銀行などに配置された後、与えられた模擬紙幣や株券を使って実社会の商取引を総合的に体験しながら学ぶというものであった。

また、東京の商法講習所が洋式を目指したのに対し、和洋折衷的だったのも神戸の特徴であった。例えば簿記の授業では、日本人に身近な和式簿記から教え、次に洋式簿記を教えたように、洋式を絶対視するものではなかった。東京の場合、英語で授業が行われていたので、そもそも英語ができなければ授業についていけない。しかし神戸の方法にすれば、より容易に入学できる学校になる。実際、開所時に12名だった生徒は2年後に100名に達し、福澤もその盛況ぶりを喜んでいる。

貿易を創る

さて、甲斐は明治13(1880)年9月、ニューヨークへ旅立った。同年7月に開業したばかりの貿易商会の、ニューヨーク支店長としての赴任である。貿易商会は社長に早矢仕有的(丸善創業者)、元締役兼支配人に朝吹英二(三菱会社支配人)が就任し、福澤が「貿易商会開業の演説」を起草するなど、慶應色の濃い会社であった。

会社設立の目的は、福澤のその草稿で明らかになる。日本の貿易は外国人の言いなりで「商権」がなく、それを回復するには「唯だ我人民にして直に外国に往来し、自ら我物品を輸出し自ら彼の物品を輸入するの一策あるのみ」と主張する。前出の「商学校を建るの主意」との合致は一目瞭然であるが、事業の開始にあたり、同じ問題意識のもとで神戸商法講習所をリードしてきた甲斐に白羽の矢が立ったのだろう。

貿易商会の主な取扱商品は生糸で、甲斐もその販売に奮闘する。ただ、生糸価格の低落等で業績は伸び悩み、明治18年10月にニューヨーク支店の廃止が決まった。甲斐は貿易商会を離れ、自ら貿易業を興すことにする。

甲斐商店の開業

東京に戻った甲斐は、福澤や朝吹、中上川彦次郎(福澤の甥で時事新報初代社長)からの出資を受け、交詢社の一室を借り、甲斐商店を開業した。明治19(1886)年にはサンフランシスコに支店を開設し、日本雑貨・美術品の直輸出を開始する。なぜ、サンフランシスコだったのか。

甲斐が知ったのは、サンフランシスコでは中国人が日本の雑貨・美術品を持ち込んで利益を上げている、ということだった。サンフランシスコは、太平洋航路の玄関口ということもあって日本人移民が増えているのに、どうして日本人が日本の品々を売っていないのか。それまで直輸出の実現に携わってきた甲斐にとって、それは当然生まれる疑問であり、解決したい課題だったのである。さらに、アメリカ製品の直輸入も合わせて始めたらしい。

明治20年元日に中上川が本山彦一(山陽鉄道で中上川と協力)に送った書簡によると、中上川は甲斐商店の経営に参加する希望を持っており、甲斐商店の支店を増やして経営規模を拡大させる計画もしていたようだ。福澤に更なる出資を仰いでいたともいう。

ただ、同書簡にあるように、当初の甲斐商店の経営は厳しかった。銀貨下落により輸入で大きな損失が出たのが原因だった。福澤は出資を取り止め、中上川も甲斐商店への参加を結局断念した。支店はサンフランシスコのみとなった。

それでも甲斐は挫けなかったのだろう。その後セントルイスとサンディエゴに支店を開いて販路を拡大し、日本では輸入したアメリカの巻煙草が評判となった。明治39年のサンフランシスコ地震で大打撃を受けても立ち直った。明治末年には、「北米に於ける甲斐商店の名は日本雑貨を代表するが如き趣あり」(『慶應義塾出身名流列伝』)と評されるまでになった。

他方、甲斐商店は渡米する義塾出身者にとっても大きな存在となった。筆者は本連載の25回49回でニューヨークの貿易商、モリムラ・ブラザーズに触れ、アメリカ東海岸を訪れた義塾出身者が同社を頼っていた様子を紹介したが、西海岸で同様の役割を果たしたのが甲斐商店だった。甲斐商店を頼って渡米し、同店で勤務もした人物として、のちに財界人として飛躍する和田豊治や武藤山治、福澤の妻の甥である今泉秀太郎がいる。実現はしなかったが、福澤がアメリカ留学中の娘婿・福澤桃介に、甲斐商店で実業の経験を積むよう助言したこともある。そして、本稿の冒頭で再び紹介したように、田中ら移民団を支えたのも甲斐商店だった。

その後の甲斐商店

ところで『福澤諭吉事典』の「甲斐商店」の項では、その営業の詳細や明治以降の推移は不明としている。本稿を準備するにあたっても、管見の限り、まとまった情報を得ることはできなかった。

ただ、『和田豊治伝』によると、大正7(1918)年7月、和田は68歳となった甲斐を訪ね、事業の縮小と、在庫品を売却して借金の返済に充てることを勧めている。甲斐商店は大正期に入ると、理由は不明だが、難しい状況にあったのではないか。大正10年に甲斐が甲斐商店の増資を相談した時も、和田は反対している。そして大正11年3月に甲斐が亡くなると、甲斐商店は閉業することになり、和田がその整理を担当したという。

なお和田は甲斐の葬儀を斡旋し、さらには家族が生活に困らないよう、2万円を贈ってもいる。和田が親身になってその家族を支えたのは、若き日の和田がサンフランシスコで甲斐から受けた恩を生涯忘れなかったからだという。生前の甲斐の、後進たちに対する温かな支援の様子が目に浮かぶエピソードであろう。

サンフランシスコ甲斐商店陳列場の和田豊治(福澤研究センター蔵)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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