慶應義塾

早矢仕有的

執筆者プロフィール

  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    一貫教育校 高等学校教諭

    末木 孝典(すえき たかのり)

    一貫教育校 高等学校教諭

2019/04/26

画像:早矢仕有的(丸善雄松堂株式会社所蔵)

今年(2019年)は丸善創業150周年にあたる。創業者の早矢仕有的(はやしゆうてき)は福澤諭吉に学んだ草創期の門下生であるが、福澤と年齢も近く、様々な事業をともに手がけた仲間でもあった。今では「ハヤシライス」考案者として知られる有的はどのような人物であったのだろうか。

生い立ちと福澤との出会い

早矢仕有的は、天保8(1837)年8月9日、美濃国武儀郡笹賀村(現岐阜県山県市笹賀、岩村藩の飛び地)に生まれた。幼名は左京。医師である父・山田柳長と、母・ための子として生まれるが、父は有的の出生を見ることなく、26歳にして死去した。そのため、母は義理の祖父にあたる庄屋・早矢仕才兵衛に引き取られ、有的は才兵衛の養子として育てられた。才兵衛は利発な有的をかわいがったという。早矢仕氏の本姓は国枝氏といったが、射術に長けていたため土岐頼藝に早矢仕という姓を与えられたという由来をもつ。

有的は大垣、名古屋で医学を学んだ後、安政元(1854)年、笹賀村に戻り実家で医師として開業する。すぐに評判の良い青年医師として知られるようになった。その才能を評価した中洞村の庄屋・高折善六から江戸に出ることを勧められると、有的はそれに従い安政6(1859)年に上京し、按摩の仕事で稼ぎつつ医学の修業を続けた。万延元(1860)年6月、橘町で開業し、文久2(1862)年には薬研堀に移転した。その間、坪井信道に師事し、主に蘭学を学んだ。

その後、慶応3(1867)年3月17日(旧暦2月12日)、有的は英学を本格的に学ぼうと考え、築地鉄砲洲にあった福澤塾に入塾した。塾では同じく医師を志す松山棟庵と切磋琢磨して英学と医学を学ぶ。塾で学んだ期間は短いが、ここで福澤諭吉と出会ったことで、早矢仕は福澤との多くの共同事業に乗り出すことになる。医師としては、明治元(1868)年8月には横浜黴毒病院に院長として赴任し、4年9月からは松山と一緒に横浜の共立病院(後の十全病院)に勤務した。

丸善創業から隠居まで

明治元年12月、早矢仕は横浜で小さな書店を開業した。福澤の著書や慶應関係の本を委託販売するとともに、洋書などの取次販売をしていた。翌2年2月11日、「丸屋商社之記」を発表する。この日は旧暦1月1日にあたり、丸善ではこれをもって開業としている。起草者をめぐっては、早矢仕という説と福澤という説があるが、おそらく合作というのが事実に近い。内容は近代的な会社組織を提唱しているのが特徴で、「元金(もときん)社中」(出資者)と「働(はたらき)社中」(少額出資の従業員)により構成される新しい会社を目指した。福澤自身も元金社中として丸善に多額の出資をしており、丸善は福澤と早矢仕の共同事業であった。

書店名については、早矢仕と福澤で相談した際、世界を相手に商売をするという意味で「球屋」として「たまや」と読ませることを福澤が提案し、早矢仕も同意して決定した。しかし、世間では「まりや」と呼ぶ人が多かったので「丸屋」と改めた。屋号は、横浜で開業した際に「丸屋善八」とつけた。「善八」は恩人高折善六にちなみ命名したといい、東京の店は「丸屋善七」、大阪は「丸屋善蔵」、京都は「丸屋善吉」と名付けている。その後、丸屋商社は13年から丸善商社と名を変える。

昔から「洋書の丸善」と言われるが、当時は総合商社らしく、輸入取扱品目は多岐にわたっていた。洋書以外に、薬品、医療器具、雑貨、衣服仕立、家具など西洋の物品全般を扱っていた。あるとき、旧三田藩主九鬼隆義から学校の備品として「エレキトル」、「ガルハニ」、「星鏡」を輸入する注文が福澤経由で入り(『書簡集』1)、早矢仕はそれに応えている。エレキトルとガルハニは発電機器、星鏡は天体望遠鏡のことである。

また、早矢仕は福澤やその門下生たちとともに、丸善以外にも西洋にあって日本にない組織や事業を多く手掛けていた。保険や積立預金を扱う「細流会社」(4年12月)、民事・商事に関する法律業務を行う共済組織「自力社会」(9年)、丸家銀行(12年10月)などである。

さて、明治5年10月、福澤の推薦で豊橋出身の算盤の達人中村道太が丸屋商社に入社し、早矢仕の共同経営者となった。中村は丸善に西洋式簿記を導入し、社内でも簿記の講義を行った。その点でも丸善は最先端を行く会社であった。13年に福澤と大隈重信の間で横浜正金銀行設立の話が出た際、早矢仕はその実現に奔走し、中村を横浜正金銀行初代頭取に推薦した。中村はのちに同行の経営不振の責任をとり辞職するが、そのとき引き受けた株券を業績回復後に売却し、得た資金で鉱山経営に乗り出す。17年頃から丸屋銀行が松方デフレの影響と近藤孝行頭取の乱脈経営によって不良債権を抱え経営不振に陥ると、巨額の富を得ていた中村は丸屋銀行の負債返済に尽力した。早矢仕も丸善商社社長を退き、丸屋銀行頭取に就任して再建に努めるが、結局再建は叶わなかった。

以後、早矢仕は一線を退き、隠居生活に入った。ただし、丸善にふらっと顔を出しては茶を飲んだり、囲碁をしたりと神出鬼没だったらしく、そんな早矢仕を丸善社員も温かく見ていたという。

「丸屋善七」と記載のある書店票(丸善雄松堂株式会社所蔵)

「科学者」としての早矢仕

これまで多くの書物が早矢仕を奇人と扱ってきた。これは、彼の奇行を伝えるエピソードによるところが大きい。例えば、病院に刀を置き忘れたり、元旦から店の大掃除を始めたり、自分の筋肉にモルヒネを注射して反応をみたりといったものである。実際にはどのような人物であったのだろうか。

作家内田魯庵(ろあん)は、丸善の丁稚時代に隠居した早矢仕宅に使いで訪れた際の印象を書き残している(『内田魯庵全集』4)。内田が家に入ると、床の間や机の上は、本、新聞、紙屑、瓶、鉱石などであふれ、畳は薬のシミや穴だらけだった。早矢仕は火鉢の前で洋服のまま胡坐をかき、酒を呑んでいた。丁稚の内田に「お前はイツ奉公に来た、イクツになる、親父は何をしてる」とやさしく尋ねた。きわめて柔和で話し方も女性のようだったという。

また、別の日に物置小屋に呼ばれたので入ると、中央に大きな「カマ」があり、棚には薬壜が並んでいた。早矢仕は金の塊を掌に載せて、「これを見ろ。あの石からこれだけの金が取れる」と傍の鉱石を指してうれしそうに言った。これは書物にしたがって鉱石の分析を実地に行っていたときの様子らしいが、早矢仕が知的好奇心にあふれた人物であり、隠居してからも本に書かれていることを鵜呑みにせず、自ら実験して確かめる合理的実証精神をもった人物であったことがわかる。

福澤との関係

また、福澤がみるところ、早矢仕は「廉潔之人物」でありながら、ここぞというときには「屈強正直」であったという。例えば、医師である早矢仕が商社を営む理由として、外国商人が薬などの舶来品を高値で日本人に売りさばき暴利を得ていたことへの反発があった。そのため早矢仕は、「なるべく安く買い集め、買う人の喜びを願い、通用のあぶなき金で利益を得るよりも無形の利益を得たい」と、人の喜びを願う良心的な商売を志した。福澤は早矢仕の正直な商売を評価し、自ら出資するだけでなく、周囲にも出資を勧め、また有望な人物を丸善に紹介した。2人は師弟関係というよりも同志、仲間といった関係に近かったといえる。

その関係性は次のエピソードからもわかる。あるとき、福澤は日本で初めて輸入された人力車を見て大いに喜び、「早矢仕さん、あなたが一番乗試しをやって下さい、かような新規な作物はあなたの試験に限る」と、人力車初乗りの栄誉を譲った。逆にこうもり傘は、早矢仕が真っ先に福澤に進呈して、日本人第1号の傘の翳し試しをしてもらったという。

その一方、福澤は丸屋銀行が破綻の危機を迎えていたときに「早矢仕は大馬鹿、この大馬鹿に金を託して平気なのも大馬鹿だ」と、珍しく手紙で早矢仕への怒りをあらわにしている。これは福澤が自分以外に息子三八の名義でも銀行に出資しており、当時は無限責任でしか出資ができなかったため、このまま破綻すると息子が破産者となってしまう心配があったためである。中村や早矢仕の奔走で最悪の事態は回避できたが、子煩悩な福澤にとっては耐えがたい一件であった。

「次は俺かな」

早矢仕有的は医師であり、学んだ医学・科学を生かし、丸善を創業し、舶来物を自ら実地に試験して日本に輸入した実業家でもある。商売の目的は暴利をむさぼる外国商人の手によらずに自分たちの手で貿易を行うことにあった。同じ志をもった福澤にとって、早矢仕の丸善は自らの実業論の実践であり、共同事業であった。そのため自ら多額の出資を行い、多くの有益な人材を紹介し、それを支えたのである。

早矢仕は、明治34(1901)年2月18日、63歳で死去した。福澤の死から15日後のことであった。福澤の死を知った有的は、「次は俺かな」と周囲に漏らしていたという。墓は雑司ケ谷霊園にあり、今年の命日には丸善150周年の花が手向けられていた。

雑司ケ谷霊園内の早矢仕有的の墓

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

福澤諭吉をめぐる人々

全3枚中1枚目を表示中

福澤諭吉をめぐる人々

全3枚中1枚目を表示中