執筆者プロフィール

結城 大佑(ゆうき だいすけ)
一貫教育校 ニューヨーク学院教諭
結城 大佑(ゆうき だいすけ)
一貫教育校 ニューヨーク学院教諭
2018/06/26
画像:森村市太郎(慶應義塾福澤研究センター蔵)
貿易は国のため
森村市太郎は天保10(1839)年、江戸京橋の武具商・森村家の6代目として生まれた(明治27(1894)年に名跡・市左衛門を襲名)。安政2(1855)年に起きた安政の大地震で森村家が被害を受けて破産すると、当時16歳の市太郎が土方や露天商をしながら借金を返済し、21歳で家業を再建した。
時代は幕末、変革の波が日本に押し寄せていた。市太郎が家業を再建した安政6年は、安政の5カ国条約に基づく欧米諸国との貿易が始まった年である。新しいもの好きの市太郎はある日、欧米人を見ようとして横浜を訪ね、試みに舶来品を買って帰った。すると得意先の旗本や諸藩主によく売れたので、市太郎は横浜で仕入れた舶来品を売る、唐物屋に転身する。
市太郎の商売は誠実なもので、暴利を貪るということもなかった。信用を得た市太郎は次第に商売を広げ、例えば中津藩奥平家は呉服など舶来品以外のものも市太郎に注文するようになる。そこで出会ったのが、福澤諭吉である。福澤は市太郎に西洋の様子を話し、国の独立のためには貿易を盛んにして国を富まさねばならぬと説いたという。
また市太郎はあるとき横浜で、アメリカ領事館の書記が日本の小判を箱に詰めているのを目撃する。その理由を書記に尋ねると、日本では買うものがないから金貨を持って帰るのだという。幕末に横行した金貨流出の現場を目の当たりにした市太郎は、日本が貿易上で不利にあることを直感し、福澤に解決策を尋ねた。福澤が日本製品の輸出を通じて外国人が持っていく金を取り返すことを提案すると、市太郎は発奮し、国のためにいつか貿易事業に乗り出すことを決意したという。
維新期に入ると、市太郎は騎兵用洋式馬具の製造を習得し、新政府の御用商人を務めるまでになった。この事業はかなり成功したようだが、新政府がこの製造を直営にする方針に転ずると、もともと納入の際に賄賂を要求する役人に嫌気がさしていたこともあって、無償で事業から手を引くことにした。福澤の影響を強く受けていた市太郎は、政府に頼らない経営、「独立自営」を志し、生涯貫くことになる。
市太郎と豊
明治4(1871)年に入ると、市太郎はいよいよ貿易事業に乗り出そうとする。ただ、貿易に必要な語学力・知識が自身になかったので、市太郎は異母弟・豊を義塾に入学させ、英語や簿記を学ばせることにした。維新期という時節柄、義塾に入学する者の多くは政治を志していたが、富国のためには実業家の育成も不可欠と考えていた福澤は、貿易を志す豊の入塾を喜んだという。
豊は明治7年に義塾を卒業した。その後義塾の助教を1年ほど務めていたところに、渡米の話が舞い込んできた。福澤はこの時、佐藤百太郎という、幕末に渡米し、ニューヨークに「日本・亜米利加両国組合会社」という貿易会社を立ち上げた人物に協力していた。佐藤が一時帰国してこの会社で働く「商業実習生」を募集していることを知った福澤は、豊を実習生に推薦したのである。この話を受けた市太郎は身の回りの物まで売り払って豊の渡米資金を調達し、明治9年に豊は渡米する。出発の直前には市太郎と豊の両名で森村組を設立し、陶磁器などの日本製雑貨をアメリカに輸出できる体制を整えた。
ニューヨークに到着した豊は、まず同州ポーキプシーにあったイーストマン商業学校を3カ月で卒業し、日本製雑貨を扱う「日の出商会」を佐藤百太郎らと共に設立する。ただ、多額の借金などをする佐藤との共同経営に不満を抱いた豊は、明治11年に共同経営を解消し、森村組ニューヨーク支店としてモリムラ・ブラザーズを設立した。これにより、市太郎が日本で仕入れた物を豊がニューヨークで販売する、兄弟二人三脚の貿易事業が本格的に始まることとなった。
モリムラ・ブラザーズの主力商品は、日本製雑貨であった。アメリカ人にとっても「日本のモノ」が珍しい時代である。日本では二束三文の品がアメリカでは重宝がられて高く売れたという。市太郎は日本各地だけでなく、明治13(1880)年には実際にアメリカを訪れるなどして、アメリカ市場のニーズに応える仕入れにこだわった。豊は、義塾の卒業生である村井保固(やすかた)や、アメリカの商習慣に対応するために雇用した現地スタッフと共に良品を誠実に取引して、アメリカ市場からの信用を少しずつ獲得していった。
1880年代はニューヨークに進出していた日系商社にとって冬の時代で、政府からの補助金を受け取る競合他社もあった。市太郎や豊にも補助金の話があったが、市太郎は、これを受け取ってしまえば自分の独立自尊主義が承知しないし、福澤先生にも申し訳ないと考えて断ったらしい。しかし、そうは言っても状況は変わらないので、市太郎は福澤に相談した。すると、そんな意気地のないことでどうするかと叱責を受け、一層奮起したという。市太郎と豊は福澤の教えを支えにしながら、自分たちの工夫と努力で難局を乗り切ることに成功する。
実用陶磁器への挑戦
モリムラ・ブラザーズに転機が訪れたのは、明治27(1894)年のことであった。このとき取引先であるニューヨークの百貨店ヒギンサイダーの店主から、趣味で購入される日本製雑貨だけでは頭打ちである、売上を伸ばすにはテーブルウェアなどの実用陶磁器を扱うべきとの忠告を受けたのである。アメリカ市場を実際に見ていた市太郎と豊はこの忠告に納得し、実用陶磁器を商品に加えることにする。
ただ、当時の日本にはテーブルウェアにふさわしい白色磁器をつくる技術がなく、森村組自身でその製造を進めていく必要があった。まず森村組は以前から関係のあった瀬戸の職人集団と白色磁器の製造に取り組むが、なかなかうまくいかない。海外に範を求めて、市太郎と豊がパリ万博を訪ねたこともあった。明治37年には日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)を愛知県の則武に設立して、研究開発を加速させる。
しかし成果はなかなか上がらず、明治32(1899)年には、市太郎の長男・明六と弟・豊が亡くなっている。明六は明治16年に幼稚舎に入り、25年に義塾の正科を卒業した。その後豊と同じようにニューヨークに渡ってイーストマン商業学校に学び、モリムラ・ブラザーズで貿易実務を習得していた。豊は在米23年、その間、42回も太平洋を横断したという。明六も豊も、早すぎる死であった。
悲嘆に暮れた市太郎は、「もしできる身分になったら国家のために金を投じたい」と言っていた豊の精神を引き継いで、社会貢献事業を行うための団体を立ち上げる。団体は「豊」と明六の「明」をとって森村豊明会と名付けられ、女子教育の振興や国際社会で活躍できる人材の育成を目標に、日本女子大学や早稲田大学など、教育機関への援助を行った。早稲田大学野球部が明治38年に学生野球初の海外遠征(アメリカ遠征)をした際にも寄付をしている。明治43年には市太郎自ら学校経営に乗り出し、高輪の自邸の庭に幼稚園と小学校を開校している。
また、義塾関連の事業への支援も惜しまなかった。福澤が北里柴三郎を助けたときには、伝染病研究所や土筆ヶ丘養生園の設立に際して大きな貢献をしている。大正4(1915)年に建設された義塾大講堂の建設費7万円のうち5万円を寄付したのも、豊明会である。
ところで市太郎は経営者として、家族主義的な、個人の信頼関係に根ざした組織づくりを目指していた。従業員に対しては、使う人も使われる人も、お互いに親子のごとく、あるいは兄弟のごとく、情をもって相手に接するよう、促している。加えて市太郎は、献身的努力の必要性も強調し続けた。良品を誠実に取引することによって信用が生まれ、その信用が長期的な経営の発展につながる──市太郎と豊が実践してきたことを森村組の根幹に据えたのである。なお市太郎は、明治42年にこうした経営哲学を「我社ノ精神」としてまとめ、社員に示している。
市太郎から開作へ
「我社ノ精神」が作成された頃、すでに70歳を超えていた市太郎は、経営を二男・開作など若い世代に任せていく。開作も豊や明六と同様、義塾卒業後にニューヨークへ渡り、イーストマン商業学校を出てモリムラ・ブラザーズに勤務した。明六の死後は、将来の後継者として森村組諸部門の仕事を担っていた。
大正3(1914)年には日本陶器合名会社が念願の白色磁器製造に成功し、テーブルウェアの対米輸出が始まった。これは、第1次世界大戦下の好景気に湧くアメリカ市場に受け入れられ、順調に業績を伸ばしていく。若い執行部は新たな事業への投資に踏み切り、例えば衛生陶器を扱う東洋陶器株式会社(現:TOTO)や日本碍子株式会社(現:日本ガイシ)といった新会社を設立している。そういう積極的な経営方針は、市太郎の座右の銘「世の中は日進月歩。進まざるものは退く。退くものは滅亡」を継承したものかもしれない。
大正8年に市太郎が死去すると、森村組関連企業(森村グループ)を束ねる総長には開作が就任した(昭和3(1928)年に名跡・市左衛門を襲名)。開作は就任早々戦後恐慌に直面し、以後、昭和恐慌や戦争など、苦しい状況の中で経営の舵取りを担うことになる。太平洋戦争が始まって駐米日系企業の資産が凍結されると、モリムラ・ブラザーズも撤退の憂き目にあってしまう。森村組関連工場は軍需工場として稼働することになる。
戦後、開作は戦争協力者と見なされて公職追放の対象となり、追放が解除されても経営現場に戻ることはなかった。その一方で、市太郎の遺志をついで教育社会事業に貢献し、父が創設した幼稚園・小学校を森村学園に発展させた。義塾では評議員や理事を歴任し、日吉キャンパス開設のために尽力するなど、各種の事業を支援した。開作は昭和37年に亡くなるが、森村商事(森村組から社名変更)や関連企業は現在も第一線で活躍する企業となっている。
※所属・職名等は当時のものです。