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1902(明治35)年、普通部に入学した小泉信三は、たちまちテニスに熱中し早くも、大学生部員とともにプレーしていた。「庭球部では、日が暮れて最後にネットを片づける、冬の朝、霜よけのむしろを巻いて、どけるのが小泉だというようになった」(今村武雄著『小泉信三伝』)——朝早くから日暮れまでコートで練習に励むその姿は、日吉キャンパスのテニスコート脇にある石碑に刻まれた「練習ハ不可能ヲ可能ニス」という名言の原点を浮かび上がらせる。小泉がテニスを始めた当時、わが国のテニスはゴムボールを使った” 軟式“だった。そのパイオニアは東京高等師範学校(現筑波大学)で、東京高等商業学校(現一橋大学)がそれに次ぐ。やがて慶應義塾、早稲田が参画し、四強時代に突入。この頃が運動選手がスター扱いされた最初といわれるが、その一人が力強いフォアハンドストロークで鳴らし、普通部生にして義塾の大将をつとめていた小泉信三だった。そのフォームが新聞で紹介されたこともあったという。
大学部進学後も、スポーツへの熱情は失われなかった。当初、硬式への移行に反対していた小泉だが、英国留学中、地元クラブでのプレーやウィンブルドン観戦を経て硬式に開眼。1913(大正2)年、硬式テニス採用を決定した後輩たちに、留学先からワイルディング著『庭球術』を送った。その後、義塾庭球部は、熊谷一彌(後に日本初の五輪メダリストとなる)や山岸二郎、原田武一(共にデビス・カップ出場)を国際選手として輩出し、日本テニスの実力を世界に知らしめることになる。
1922(大正11)年から塾長就任の前年1932(昭和7)年までの期間、小泉信三は庭球部部長として部員たちと多くの時間を過ごした。
「私が選手を奨励したその方法は簡単で、ただ常に彼等と共に在るという一事に過ぎなかった」(『新文明』昭和26年10月号)と謙遜するが、小泉部長時代、慶應義塾は早稲田の黄金時代にピリオドを打ち、「庭球王国慶應」と称されるようになった。
小泉信三はテニス以外にも多くのスポーツを愛したが、特に熱狂的な野球ファンとして知られていた。もっとも好んだのは大学野球で「学生選手が、自分一人の個人的利害のためでなく、母校を代表してその栄辱のために戦うという、その理想主義が私に訴える」(昭和38年1月1日「報知新聞」)と述べている。また、「味方の旗色が好いと騒ぎ、悪くなると、ゾロゾロ帰りかけるものがある。いかにも頼もしくない仕業である」(小泉信三著『平生の心がけ』)というように観戦する態度やマナーに関してもスポーツマンシップを求めた。
亡くなる前年、1965(昭和40)年には、満77歳を目前にして東京六大学春のリーグ戦始球式のマウンドに立ち、見事にストライクを投じる。その瞬間、固唾をのんで見守っていたスタンドの観衆は拍手喝采し、新聞各紙はその雄姿を一斉に報じた。没後10年にあたる1976(昭和51)年、野球体育博物館の特別表彰委員会は、満場一致で小泉信三の野球殿堂入りを決定している。
小泉は“スポーツが与える三つの宝” を「練習によって不可能を可能にするという体験」「フェアプレーの精神」「友」としている(慶應義塾体育会創立七十周年式典記念講演(昭和37年)より)。それらの “ 宝” はスポーツに限ることなく、一人の人間の生き方をも示しているのではないだろうか。
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