『福翁自伝』をひもといてみると、福澤先生が「食」に強い関心を持った人物であったことがわかる。
「上等の酒をウント飲んで、肴も良い肴を沢山食い、満腹飲食したあとで飯もドッサリ食べて残すところなし」という記述からも、若い頃の豪放磊落ともいえる食道楽ぶりがうかがえる。後年になると食と健康の関係にも十分配慮されており、30代半ばより節酒を心がけられていたようである。また9人の子どもたちの養育に関しては次のように述べている。
「養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服は着せても滋養物はきっと与えるようにして、九人とも幼少のときから体養に不足はない」
明治期には、肉食や乳製品の普及に尽力され、慶應義塾の食堂にも早くから西洋食(パン食)を導入した。先生自身も朝食でのパン食を好み、滋養豊かなパンの耳を食べずに捨てた塾生を叱責するというエピソードも残している。こうした西洋の食事に対する積極的な姿勢は、単に嗜好の問題だけでなく、近代化に欠かせない西洋文明の積極的な導入という使命感があったことは間違いないだろう。文明開化という大事業を担う国民一人ひとりの健康のためにも、新しい食文化は必要不可欠だった。
福澤先生は幕末期に『西洋事情』をはじめ文明の先進国である西洋文明を紹介する多くの著書を出版したが、その中の一冊として1867(慶応3)年、『西洋衣食住』という絵入りの小冊子を著し、西洋のテーブルマナーや食事につきものの酒類をわかりやすく紹介している。
「西洋人は箸を用ひず。肉類其外の品々、大切に切りて平皿に盛り、銘々の前に竝べたるを右の手に庖丁を以てこれを小さく切り、左の手の肉刺に突掛て食するなり。庖丁の先に物を載せて直に口へ入るゝは、甚不行儀のことゝせり」(『西洋衣食住』食の部・冒頭部分)
咸臨丸で渡ったアメリカで初めて飲んだビールについては「是は麦酒にて、その味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し」とその効用と味わいについてコメント。ちなみに、若い頃は大酒飲みであった福澤先生は、晩年、節酒を実行されていたが、晩酌時にはビールが欠かせなかったといわれている。
文久遣欧使節団の傭通詞(=通訳)として約1年間ヨーロッパ諸国を巡った際、宿泊するホテルの食堂で、一行が西洋料理を味わった時のことを福澤先生は「いかなる西洋ぎらいも口腹に攘夷の念はない」(『福翁自伝』)とユーモアを交えて述懐しているが、あるいはこの時に、言語の違いを超えて近代文明の有り様を多くの人に実感させる「食」の効用に気付かれたのではないだろうか。