関東大震災(大正12年)、東京大空襲(昭和20年)と2度の大きな災害をくぐり抜けながら、建築当初の華麗な姿を現在に伝えている三田の図書館(旧館)。 慶應義塾創立50周年記念事業の一環として建設が計画され、約3年の歳月を費やし、明治45(1912)年に竣工した。設計・監督は曾禰達蔵と中條精一郎(曾禰・中條建築事務所)。曾禰は三菱合資会社に在籍中、現在の東京・丸の内のビジネス街の原型となった煉瓦街の建築設計を担当した煉瓦館建築のエキスパートだった。
完成した図書館(写真<1>)は、赤煉瓦と花崗岩による壮麗な外観を有するゴシック式洋風建築であり、本館(地階・地上3階)、書庫(地上6階)、東南隅にある八角塔(地上4階)を合わせて建坪200坪(660平方メートル)。蔵書数・閲覧席の規模も当時の大学図書館としては画期的なものであった。以後、昭和56(1981)年12月にオープンした図書館新館(三田メディアセンター)にその中心的役割を継承するまで、質量とも屈指の大学図書館として、長年にわたり慶應義塾の知のシンボルとして大きな役割を果たしてきたのである。
幕末に伝来した煉瓦建築は、地震国であるわが国では、明治・大正までの短い期間しか造られておらず、しかも災害などでその多くは現存していない。そのため、図書館(旧館)は、日本人によって設計された明治末年の代表的な西洋建築として極めて貴重な建造物であり、昭和44(1969)年に、国の重要文化財に指定された。
終戦直後、焼けただれた鉄骨をむき出しにした姿(写真<2>)は、義塾社中の誰しもに復興への強い思いを抱かせた。慶應義塾が何よりも先に図書館の復興に取りかかった(写真<3>)のは、福澤先生亡き後、それが義塾の象徴であり、義塾社中の精神的支柱であったからにほかならない。そして今もなお、かつての塾生たちに学生時代の記憶を呼び覚ます特別な存在であり続けている(写真<4>)。