義塾における同窓会の始まりは、明治13年に湯島昌平館で行われたものと言われており、創立以来の新旧塾員およそ三百名の参加があったことが記録に残されている。その後も同窓会は不定期ながら開催され、同窓生の集まりを極めて大切にされた福澤先生は各地の同窓会に進んで出席された。
明治34(1901)年2月、福澤先生逝去。いわば大黒柱を失った慶應義塾だが、今こそ力を一つにしてその偉業を盛り立てていこうという社中一同の気概と連帯感はますます強固なものとなっていく。同年4月13日、広尾の福澤別邸で行われた同窓会で「慶應義塾同窓会規約」が協議され、満場一致でこれを可決。以来、規約にのっとり、毎年春秋2回の同窓会を定期的に開催することになった。
この同窓会とは別に、いわば塾員有志によって自然発生的に結成されたのが「三田会」である。「三田会」という呼称が使われたのは、翌明治35(1902)年1月、福澤先生ゆかりの「交詢社」で東京地域の有志が成したものが最初だとされている。同年3月には横浜三田会も発会。その後、国内はもちろん、海外各地に赴任する塾員同士でも活発に三田会が結成されるようになった。このことは、当時から塾員同士の結束・連帯がいかに強かったかを示している。
昭和5(1930)年には、各地で結成された三田会の総数は100団体を数えるほどになっていた。前述の同窓会も全国に散らばる塾員全員の参加が不可能となっており、各地三田会と義塾との連絡を密にし、かつ相互の意志疎通を図る組織が望まれるようになっていた。同年、さっそく塾員有志によって「連合三田会」結成が協議され、11月に東京・丸の内東京會舘で「第1回連合三田会大会」を開催。以来、東京會舘、帝国ホテル等を会場として、毎回、数百人の参加者を集めるなど隆盛を誇っていた。しかし、戦局の悪化により昭和19(1944)年にやむなく中断。戦後、昭和26(1951)年三田山上にて「連合三田会」が復活した。