「仏蘭西の都をパリスといふ。其奇麗なること欧羅巴州中の第一にて、即ち世界第一の都といふべし。市中の家は六階七階に立並び、夜分は往来に万燈を照らして昼夜の差別なく、其繁昌華美なること 譬んかたなし。但し人の数は百万人余にて、都の広さも英吉利のロンドンよりは狭し。日本にていへばパリスは大坂に似て、ロンドンは江戸に似たり」(『条約十一国記 』より)。
使節団一行は4月7日から4月29日までパリに滞在。ちょうどナポレオン3世による大規模な都市整備が行われた直後で、有名なオペラ座の建物は折しも建設中。福澤らが訪れた場所の多くは現在でも建物がそのまま残されている。使節団が宿泊した「ホテル・デュ・ルーブル(Hotel du Louvre)もその一つ。また、福澤が「西航手帳」を購入した「フォルタン文具店(Fortin Papeterie)」の建物も現存する。ヨーロッパ滞在時の見聞を書き記した「西航手帳」は、その後『西洋事情 』といった著書執筆のベースとなる重要な記録といえる。なお、フォルタン文具店は、パリ郊外北西のクリシーに移転しており、総合事務機器メー力一として現在も営業している。
さて、このパリ滞在中に、使節団の竹内下野守らは、開港・開市延期交渉に当たるためナポレオン3世に謁見した。随員だった福澤はその準備作業などに追われていたが、その合間を縫ってのパリ見聞を行っている。その際、良きガイド役となったのが、東洋語学者レオン・ド・ロニである。フランス政府から通訳兼接伴委員として派遣されたロニは、福澤より2歳年下の当時25歳。お互いの文化に関する知識を交換していくうちに、同世代の2人は次第に親交を深めていく。東洋語学校で中国語を習得し、独学で日本語も学んでいたロニだが、2人の会話は筆談も交えて行われていたようだ。ロニの案内によって訪れた場所の一つがパリ南東部にある「植物園(Le Jardin des plantes)」。1635年に高名な博物学者ギ・ド・ラブロスによって開かれ、1732年にビュフォンがここに博物学のコレクションを作り上げた。
ロニは遣欧使節団一行がフランスの地を離れた後も、福潭らを訪ねてオランダやロシア・ペテルスブルクまで訪ねてきたという。この好奇心旺盛なフランス人に関して、福澤は「『欧羅巴の一 奇士 』といふべし」と『西航記』に親愛の情を込めて書き残している。
使節団は帰路にプロシア、ベルギーを経て、9月22日、再びパリに入り、今度は「グランド・ホテル(Grand Hotel)」に宿泊。10月5日までパリに滞在した。この間、福澤はマドレーヌ寺院のほか、ロニと共にフランス学士院、国立図書館なども訪れている。
ロニという格好の案内者を得た福澤のヨーロッパ巡歴。この体験は、その後、近代日本縦横に活躍する大きな糧になったといえるだろう。