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藤原工業大学から理工学部へ
2000/09/20
『塾』2000年 No.226 掲載
昭和14年に「藤原工業大学」として誕生した慶應義塾大学理工学部が、今年、創立60周年を迎えた。
新棟も完成し、新しい教育研究を展開する学部がこれまで辿ってきた道のりをあらためて検証してみたい。
新しい工学教育の扉を開けた小泉信三と藤原銀次郎
理工学部の前身である「藤原工業大学」の設立は、昭和8年に塾長に就任した小泉信三、そして王子製紙社長を務めていた藤原銀次郎(塾員)の二人の出会いから始まった。
昭和10年から11年にかけて、それぞれアメリカの工学教育の実態を視察した二人は、昭和13年に第一回の会談を行う。すでにこの時、藤原は私財を投じて新構想の工業大学を設立することを心に期していた。一方、前塾長より「きみの時代にやらなきゃいけない」と理工学部設立の悲願を託されていた小泉もまた、工学部設立の調査・計画立案を行い、その資金提供者を求めているところだった。
会談当日、藤原は自らの構想を明らかにしつつ、小泉に教育面について一任し、完成の暁には慶應義塾へ寄附することを伝えた。その後、十数度の会談を経て、両者は大学名称・学制・教職員問題・建設地など、多岐にわたって交渉。その結果、名称は「藤原工業大学」、合併を考慮して建設地は日吉の近くとする、制服や教員人事なども 慶應義塾大学と同等または共通とする……などの詳細が決定されていく。
新しく設立する藤原工業大学は、
・基礎に重点を置いた工学教育
・人間性の確立を目指す教養教育
・国際交流などに役立つ語学教育
以上、3点を教育方針として掲げることとした。これらは、当時の工学教育へ批判的な藤原のプランをベースに、後に就任する谷村豊太郎初代学部長の意見を加味したもの。現代にも通用する項目ばかりで、その先見性には驚かされる。
藤原工業大学から慶應義塾大学工学部へ
昭和14年、機械工学科・電気工学科・応用化学科の三学科よりなる「藤原工業大学」が誕生する。現在の日吉・塾生会館付近の校舎を中心とする予科教育に続き、太平洋戦争開戦の翌年である昭和17年に、学部教育がスタート。カリキュラムには、当初から藤原が強く主張した「実地で役立つ工学教育」という考え方が反映され、設計製図を企業の設計課長が担当し、夏期休暇に工場実習を行など、当時としては画期的な実践的教育が展開された。
戦局が緊迫し、大学統合の機運が高まってきた昭和18年、藤原工業大学の慶應義塾への寄附が合意され、翌年に晴れて「慶應義塾大学工学部」となる。しかし、第一期生が卒業した昭和19年秋より、工学部はますます悪化する戦局に翻弄されていく。昭和20年2月には本格的な疎開の準備に入るが、それから間もない同年4月15日夜半から未明に、日吉台はアメリカ軍の空襲にさらされた。その結果、予科校舎全焼、学部校舎(現在の日吉図書館、第4・5・6校舎付近)は約8割が灰燼と化してしまう。
工学部の"終戦処理"は困難を極めた。登戸、目黒、溝ノロの仮校舎を転々としながら、細々とではあるが義塾の工学教育の灯を守り続けていた。
昭和23年、東京都北多摩郡小金井町の横河電機製作所工場とその隣接地を取得あるいは借用し、翌24年3月に溝ノロ仮校舎から移転。4月から新制大学発足とともに新天地でスタートを切った。またその年は工学部創立十周年にあたり、記念行事・式典が開催された。当時の丹羽重光工学部長(元東京帝国大学工学部長)は、式典で「慶應工学部がこの後更に10年もこのままの状況で小金井に留まるならば、工学部は潰したほうがよい」と語った。その言葉は、小金井に落ち着いてほっとした教職員の脳裏に、さらなる発展への意志を焼き付けた。
<1> 第一回入学試験(三田)
<2> 藤原工業大学予科校舎
<3> 初期の小金井校舎
矢上キャンパスヘの移転そして理工学部の未来
藤原翁が学部用地として取得していた矢上台に新キャンパスの建築がスタートしたのは、昭和45年。昭和47年度からは、全学科の授業を矢上キャンパスで開始し、工学部の長い放浪時代が終わった…。しかし、発展への意志は、そこで終わらなかった。矢上への移転と並行して盛り上がってきた理工学部設立の機運である。学部内・塾内での綿密な設立準備の末、ついに昭和56年に、工学部は理工学部に生まれ変わった。
平成8年度、理工学部は大幅な組織改革を実施する。そして平成12年度、大学院理工学研究科(修士・博士課程)も分野横断型の三専攻に改組。同時に矢上キャンパスに待望の新棟が完成した。21世紀まであと数ヶ月、学部の礎を築いた小泉・藤原をはじめ多くの人々の情熱と意志を受け継いで、今、理工学部の新たな時代が築かれようとしている。
理工学部キャンパスの変遷
昭和14年6月
日吉に藤原工業大学開校
昭和19年8月
藤原工業大学を慶應義塾大学へ寄附、慶應義塾大学工学部となる
昭和20年5月
電気工学科・応用化学は福井市郊外へ、機械工学科は宮城県松島へ疎開
昭和20年10月
予科教育は登戸仮校舎(川崎市生田)へ移転。 目黒仮校舎にて一部授業再開
昭和21年6月
溝ノ口仮校舎(川崎市久本鴨居町)へ移転
昭和24年3月
小金井キャンパス(東京都北多摩郡)へ移転開始
昭和48年8月
矢上新校舎へ移転開始
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