慶應義塾医学所が開設された当時、各地に官公立医学校も開設されていた。しかし、大半の医学校がドイツ医学を主流としていたのに対し、慶應義塾医学所は英米医学を教授するユニークな存在だった。医学所は創立以来300余名の卒業生を送り出し近代医学界の発展に確かな足跡を残したが、財政上の困難その他の事情で明治13年に廃校とせざるを得なくなった。
これに続く時代、慶應義塾ではなかなか自然科学教育・研究の実現には至らなかったものの、福澤の情熱は、細菌学者・北里柴三郎への援助という形で実を結んでいった。北里は明治16年に内務省衛生局に入り、細菌学を専攻した。このときの局長が、 福澤の適塾時代の同門・長与専斎。北里は長与の推薦で7年間ドイツに留学し、破傷風菌の純粋培養成功など数々の成果を挙げ、世界的な名声を得て明治25年に帰国した。しかし当時の日本政府には、北里ほどの人物を活かせる場がなかった。
長与から北里の不遇を聞いた福澤は即座に援助を約束し、北里のための伝染病研究所建設に力を注ぐ。研究所は明治32年に内務省管轄となり、北里の指揮監督下で年々隆盛した。しかし、その後、政府の無理な政策による研究所の文部省移管に反対し職を辞した北里は、心置きなく自らの研究を行うために北里研究所を開設。ここでも、 福澤からの援助は北里にとって大きなものがあった。こうした福澤と北里の親密な関係が、やがて慶應医学の創始へとつながっていくのである。
大正6年、慶應義塾は創立60周年を記念し、念願の自然科学教育の第一歩として医学科予科を開設した。その初代学部長として迎えられたのが、ほかならぬ北里である。 福澤はすでにこの世になかったが、北里は福澤の志に報いるべく大いに発奮し、草創期の慶應義塾医学教育の発展に心血を注ぐ。
大正9年、大学令により大学医学部に昇格し、同時に現・信濃町キャンパスの地に専用校舎と病院が完成。病院は11科の外来診療室と7つの病棟を持ち、当時にあっては最新設備の整った堂々たる大病院であった。同年11月6日、医学部構内で開校・開院式が挙行され、現在の医学部および大学病院の礎ができあがった。