慶應義塾に文学・理財・法律の3科を擁する大学部が設置されたのは明治23年。各科の主任教授はいずれもハーバード大学から招かれた外国人教師で、しかも教授陣の大半を塾外の日本人・外国人教師が占め、義塾出身の教師は極めて少ないのが実情だった。明治31年の組織改編によって一貫教育の体制が整うと、慶應アカデミズムの確立のためには教授陣に義塾出身者を採用すべきとの意見が高まり、それには大学部での教員養成を急がなければならなかった。
このような要請に応えるため、慶應義塾評議員会は明治32年、教員養成を目的とする卒業生6名の派遣留学を決定した。神戸寅次郎・川合貞一・気賀勘重・青木徹二の4名はドイツヘ、堀江帰一・名取和作の2名は米国へ派遣され、それぞれ数年間の学究生活を送った。これは義塾で初めての試みだったぱかりでなく、日本の私学に留学生派遣の先鞭をつけるものとなった。当時、義塾は財政的に苦しい時期で、その中で留学生6名を派遣したことは、義塾の研究・教育の発展を期しての一大英断だった。
正式な留学生の派遣以前にも、福沢諭吉の門下生らが義塾から派遣されたことはあった。海外の文物にふれることの必要性を感じていた福沢は、門下生たちの留学のために積極的な援助を行ったのである。正式な留学生派遣を他の私学に先駆けて実現できたのも、そうした背景があってのことだった。
32年の第1回以後、大正8年までは2~3年に一度、大正9年以降は毎年、数名ずつの留学生が派遣された。彼らは帰国後、大学部の教員となって研究・教育にあたった。また、義塾の発展のためには学事の刷新が必要であるとして、出版事業の重要性、奨学金制度の採用、大学院の設立、公開講義の必要などを説き、それらの意見は塾当局や学生の間で採用された。後に、彼らの多くが塾長・理事や学部長など義塾の要職に就き、以後の慶應義塾は彼らを中心として動いていった。
その後、海外留学生の派遣は昭和12年までほぼ毎年行われたが、同13年以降は戦乱のため中断を余儀なくされた。戦後、昭和28年になって15年ぶりに派遣が再開され、今日に至っている。現在、この留学制度のほか、外国政府・大学・公私団体による留学生の引受・交換や個人留学が盛んに行われ、義塾の学事振興に大きく貢献している。