このように、『三田文学』は文学科刷新の動きの中で、明治43年5月1日に発刊された。創刊号には、森鷗外、野口米次郎、木下杢太郎、三木露風、馬場孤蝶、山崎紫紅、永井荷風、黒田湖山、深川夜烏らの作品が並び、藤島武二の斬新なデザインが表紙を飾った (「田」の字形に図案化した四つ葉のクローバーを3つ描いて「三田」を表した)。また、裏表紙には福澤諭吉自筆の「修身要領」第21条「文芸の嗜は人の品性を高くし精神を娯ましめ…」が掲げられていた。
当時の文壇では、『早稲田文学』に代表される自然主義文学の一派に対抗して、反自然主義の文学が生まれつつあった。文学科顧問の森・上田は共に反自然主義文学のリーダー格であり、小山内薫、与謝野寛、和辻哲郎、北原白秋、谷崎潤一郎らが筆を執る『三田文学』は、反自然主義的な文学活動としての色彩を帯びていた。
創刊の翌年からは、作家・詩人ばかりでなく義塾の学生たち(後に「三田派」と呼ばれる)も続々と『三田文学』に作品を発表していった。「朝顔」の久保田万太郎、「山の手の子」の水上滝太郎を筆頭に、堀口大學、佐藤春夫、松本泰、小島政二郎、南部修太郎など、『三田文学』は多くの才能を文壇へと送リ出した。