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卒業生 宮脇花綸君(経済学部卒)
2025/05/13
宮脇花綸(みやわき かりん)/フェンシング(フルーレ)選手
2019年経済学部卒業。5歳のときにフェンシングを始め、小学校4年生で全国大会優勝、中学生以降はさまざまな国際大会で実績を積む。慶應義塾女子高等学校時代よりオリンピック大会出場を目指す。リオデジャネイロ大会(2016年)、東京大会(2021年)では代表を逃すが、2024年パリ大会では個人・団体代表に選出され、日本に女子フェンシング初のオリンピックメダルをもたらした。現在は三菱電機株式会社所属(社員)として、2028年のロサンゼルス大会への出場と個人・団体金メダル獲得を目標に、世界を転戦しながら研鑽を積んでいる。
-オリンピックパリ大会での女子フルーレ団体銅メダル獲得おめでとうございます。大会後はどのように過ごされていたのですか。
宮脇:ありがとうございます。メダルを頂いた後、私はすぐに帰国し、8月いっぱいは完全オフを満喫しました。ただ9月中旬には静岡県での全日本選手権が控えていたので、9月1日には練習を再開していました。毎日午前と午後それぞれ2時間半のトレーニング・レッスンを重ねています。7月までは北アフリカのチュニジアを皮切りに、ヨーロッパ、アジア、中南米などおおむね月に1大会のペースで世界中を転戦します。
-宮脇さんがフェンシングを始めたきっかけを教えてください。
宮脇:もともと姉が「剣道をやりたい」と言い始めたのがきっかけです。家から通える所に剣道の道場がなく、代わりにすぐ近くにフェンシング教室があったため、姉と母が「フェンシングは西洋の剣道だから」と(笑)、習い始めました。幼稚園児だった私は毎週姉の練習について行き、あるとき、コーチの先生から「君もやってみない?」と誘われました。ずっと「自分もフェンシングをやってみたい」と思いながら姉の練習を見学していたのに先生は気付いたのでしょう。
始めてみるとすぐに面白さがわかりました。性格的にチーム競技より個人競技が合っていましたし、負けず嫌いだったことも功を奏したのか、上達していることを自分でも感じていました。自分よりずっと背が高い年上のお兄さんたちにも、フェンシングなら勝てることがすごく楽しくて、うれしかったですね。
-小学4年生のときに全国大会で優勝し、中学生になると国際大会に出場するようになり、フェンシング選手として周囲から期待されていたと思います。ご自身のお気持ちはどうだったのですか。
宮脇:フェンシングに夢中で、大会で勝つことは何よりの喜びでした。ただ小・中学生の頃からオリンピックに出場するような選手を目指していたのかと問われれば、そうではありませんでした。私は学校での勉強も好きでしたから。
一つの転機として思い起こすのは、高校1年の冬に日本初のフェンシング銀メダリストである太田雄貴さんとお会いしたことでした。そのとき、太田さんからオリンピック出場など選手としての将来の目標について詳しく問われました。自分としてはまだ本気でオリンピック出場を目指していたわけではなかったので、少々戸惑いもありましたが、後に振り返るとあのときの太田さんとのやりとりが私の気持ちを定めてくれたのだと思います。私が思ったのは、今後どんなに勉強を一生懸命やっても「世界一」になることは難しいけれど、フェンシングならその可能性があるのではないかということでした。高校2年になった私は2016年(オリンピック)リオデジャネイロ大会の日本代表に選ばれるという明確な目標のもとで、それまで以上にフェンシングに力を入れるようになりました。
-女子高時代はどのような生徒だったのですか。
宮脇:フェンシングに取り組む一方で、特に理数系科目が得意な生徒でもありました。たくさんの友達ができて毎日が楽しく、光り輝いていました。あの頃は「女子高生の自分たちが世界の中心」だと思い込んでいて、何でもできるって信じていましたね。当時の友達とは現在までずっと交流が続いています。今回のパリ大会にもたくさん応援に来てくれて、メダル獲得の喜びをみんなと分かち合うことができてうれしかったです。
-大学進学では経済学部を選ばれました。
宮脇:はい、理工学部進学も考えたのですが、オリンピック日本代表に向けた練習や大会出場を考えると、授業や実験に時間を取られる理工系は難しいと思い、文系の中では理数的な学問である経済学を選びました。体育会フェンシング部に所属し、2年生のときに関東学生フェンシングリーグの一部昇格に貢献できたことが良い思い出です。また、1年間の3分の1から2分の1はフェンシング国際大会への出場で海外遠征に出掛けていましたから、正直に言うと大学生らしい大学生ではなかったと思います。
-大学在学中にはジュニアワールドカップ大会女子個人フルーレでの優勝などの成績を残しましたが、残念ながらリオデジャネイロ大会の日本代表には選ばれませんでした。
宮脇:オリンピック代表として戦うことはフェンシング選手としての最大の目標だったので、私にとっては大きな挫折でした。なかなか立ち直ることは難しかったのですが、周囲の方々の助けやアドバイスもあり、その後、アジア競技大会の代表選手として団体金メダルを獲得するなど、あらためて母国開催の東京大会に向けて気持ちを新たにして練習に励みました。ところが大学卒業後、なかなか自分で思うような成績を残せず、その結果、再びオリンピック代表落選という挫折をかみしめることになりました。当時はコロナ禍で大会の1年延期やアスリートに対する批判も出てくるなど、今思い返してもとてもつらい時期でした。大学を卒業してまだ2年ほどでしたので、アスリートとして生きていくことを諦めて、別の道に進むことも考えていました。私にとって「空白の1年」を経て、フェンシングの世界に復帰できたのは、ずっと一緒に戦ってきた東京大会代表選手である仲間たちの存在でした。自分が最もやりたいこと、気持ちを込められることは何だろうと考えた結果、「やっぱりフェンシングを続けよう」と思ったのです。代表になれずにとことん落ち込んだときの決断ではなく、初心に返って「オリンピック代表選手として戦いたい」という気持ちを選んだわけです。東京大会の次のパリ大会のときは、私はまだ27歳。選手として十分戦える年齢です。ここでやめてしまうわけにはいかないと、ようやく前を向くことができました。
-そのような時期に日本テレビのクイズ番組「クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?」に出場され、見事賞金300万円を獲得されたことが話題となりました。
宮脇:東京大会代表落選後、一時私は「無職」になってしまいました。毎年、海外遠征で10大会に出場していて、その費用は合計で約300万円。クイズ番組の賞金がちょうど同じ額だと知って、「オリンピック出場を目指すフェンシング選手」であることを明かし一般応募したところ、出場が決まりました。出題されたクイズには海外遠征の経験が役に立つ問題もあって、全問正解をすることができました。その後、三菱電機株式会社社員として選手を続けることとなり、現在に至ります。
-そして、ついに2024年念願のオリンピックパリ大会代表選手に選ばれました。
宮脇:はい。大会の前年4月から3月までの試合成績が代表選手選考の対象になるので、そこを十分意識して1年間戦ってきました。代表が決まるのはオリンピック開催の2カ月前の5月なのですが、最後までドキドキしていましたね。最終的に団体でも、個人でも出場できることがわかり、「フェンシングを続けて本当に良かった」と心からホッとしました。今回の女子フルーレの日本代表メンバーとは国内大会ではライバルでもあり、味の素ナショナルトレーニングセンターで一緒に練習してきた仲間でもあり、みんなで一緒に強くなっていったという印象があります。
-女子フルーレ代表ヘッドコーチは、元フランス代表を率いたフランク・ボアダン氏です。彼が日本代表チームにもたらしたものは大きかったですか。
宮脇:大きかったですね。ボアダンさんがまず私たちの練習を見て言った言葉は「お前たちはパンダ。技術はあるけど、闘争心が欠けている」でした。そして「パンダからトラに変われ!」と。確かに日本の選手はおとなしく、試合中もあまり声を出しません。ボアダンさんは「もっと声を出して、叫べ!」と選手にハッパをかけ、対戦相手に「怖さ」を感じさせない選手は技術があっても勝てないと教えてくれました。技術と精神、両方が高いレベルにあってこそ、世界の頂点に立てる……私がそれまで選手として防御型だったスタイルをより攻撃的なスタイルに変えることにしたのも、ボアダンヘッドコーチのこうした教えがあったからです。そしてもう一人、アテネ、北京、ロンドンのオリンピック3大会で日本代表として戦った菅原智恵子アシスタントコーチの存在も大きかったです。日本代表としての経験をもとにアドバイスを頂き、数々のタイトルホルダーである彼女を越えることが私たちのモチベーションになりましたから。
東京大会の日本代表落選以降は、一時はフェンシングをやめようとも考えたほど苦しい時期でしたけど、その苦しんだ経験があったからこそ、自分にとっての「いいフェンシング」を見つけることができたように思えます。
-今回のパリ大会で、宮脇さんは出場国全ての選手データを分析して戦ったと伺っています。
宮脇:はい。国内大会ですと数百名の選手が出場しますが、パリ大会での女子フルーレの出場選手は8カ国で合計34名だったと思います。そのくらいの人数でしたら全選手の戦い方などのデータ分析は十分できますので、分析結果をスマホに入れて選手ごとの作戦を考えました。試合中に大切なことを忘れないように、直前に手にペンでメモを書き込んだこともありましたね。
-8月に開催された女子フルーレ団体3位決定戦では接戦の末、勝利して見事銅メダルを獲得。日本フェンシング女子で、個人・団体を通じて初めてのオリンピックメダル獲得となりました。
宮脇:この結果は素直にうれしかったです。メダリストとしてエッフェル塔前の「チャンピオンズパーク」をパレードできたことは何よりの思い出となりました。ただし、大会を終えて個人戦で結果を出せなかった悔しさも感じましたし、団体でも金メダルを取りたかったという気持ちもあります。これから夏まで海外遠征が続きますが、今はもう、4年後のロサンゼルス大会での個人・団体「金」を獲得することを目指して再始動しています。日本でも若い世代の選手が台頭してきましたので、まずはアジアナンバーワンを死守しながら、世界で戦う力を磨いていきたいと思います。
-宮脇さんたち女子フルーレ代表のメダル獲得もあり、日本でフェンシング競技への注目が高まってきました。
宮脇:自分自身がオリンピックに出場してみて、あらためてこの大会が特別であり、想像以上に大きな注目を集めていたことを実感しました。男子も女子も日本のフェンシングのレベルはここ数年で大きく向上していますので、これからもぜひ応援していただきたいです。テレビなどで観戦された皆さんも感じていらっしゃったかもしれませんが、日本の選手はヨーロッパの選手に比べると小柄で、リーチが短い傾向があります。若い世代からもっと大型の選手が出てくると、世界の舞台でさらにエキサイティングな戦いができるようになるでしょう。
ただ、フェンシング競技はとてもスピーディーで、しかも私がやっているフルーレの場合など先に攻撃を仕掛けた攻撃権のある選手だけにポイントが与えられるなど、見ているだけではルールがなかなか理解できないかもしれません。もっと一般の方々に競技の見どころや技の応酬の面白さを理解してもらうためには、画像技術などを駆使してわかりやすく見せる工夫が必要でしょう。次のオリンピックまでにそうしたことが実現して、例えばアイススケートや将棋のテレビ観戦と同じぐらい多くの方にワクワクしながら見ていただけるようになればいいなと思っています。
-海外メディアの取材に流ちょうな英語で答える宮脇さんの映像がテレビで流れました。語学はお得意なのですか。
宮脇:とんでもないです! ただ今回の女子日本代表チームの中でいつのまにか私が「海外メディア担当」になっていました(笑)。私としてはむしろ、もっともっと語学を勉強しなければと反省しきりでした。ロス大会までにもっと英語力を向上させたいです。
-最後に塾生へのメッセージをお願いします。
宮脇:私自身の大学時代はフェンシング中心の生活でしたが、多くの大学生にとって4年間は自由に使える一種の「モラトリアム」。勉強でも、趣味でも、スポーツでもやりたいことに何でも挑戦できる貴重な期間だと思います。失敗を恐れずに新しいことに挑戦できるのも学生の特権です。この特権をぜひ存分に活用していただきたいと思います。
また、身体を動かすスポーツの習慣をぜひ身に付けていただきたいです。もし、運動が不得意でも早慶戦など大学スポーツを応援することから始めてみてはいかがでしょう。アスリートの一人として、スポーツの楽しさを一人でも多くの方に知っていただきたいです。
そして大学では勉強でも、趣味でも、スポーツでも多くの仲間と出会うことができるでしょう。慶應義塾の先輩方に伺うと、学生時代の友人は一生モノだと口をそろえておっしゃいます。私も今回のオリンピックではるばるパリまで応援に来てくれた女子高や大学時代の友人と喜びを分かち合いながら、そのことを痛感しました。
-本日はありがとうございました。
この記事は、『塾』WINTER 2025(No.325)の「塾員山脈」に掲載したものです。
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