内務省はドイツで業績を挙げた北里の帰国を待ちわびていた。当時、急務であった感染症・結核対策のため、国立の伝染病研究所を設立する準備を進めていたからだ。北里が帰国したのは1892(明治25)年。しかし帝国議会で伝染病研究所設立が承認されるまでに最低2年を要することが判明した。北里の上司になっていた長与専斎は、またしても福澤に相談した。すると福澤は私立の伝染病研究所設立案と援助を約束し、同年に伝染病研究所が設立された。福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳。二人の親交はこの時から始まり、北里にとって福澤は生涯の師といえる存在となった。
「…嗚呼悲哉(かなしいかな)。余は衷心実に師父を喪いたるの感あり。…余不敏といえどもまたその遺業を守り、その遺訓を体し、切磋研鑽をもって万一の報恩を期せんとす」。福澤の死(1901年)に際して、北里が寄せた弔辞の抜粋である。