執筆者プロフィール
荒川 和晴(あらかわ かずはる)
先端生命科学研究所所長政策・メディア研究科 教授荒川 和晴(あらかわ かずはる)
先端生命科学研究所所長政策・メディア研究科 教授
鶴岡という異端
今年で開設25周年を迎えた慶應義塾大学先端生命科学研究所(先端研)だが、いまだに「山形県鶴岡市に慶應のキャンパスがあるのですか」と驚かれることがしばしばある。世界に誇るメタボローム解析をはじめとするデータ駆動型生命科学を基盤に、多数のベンチャー企業を輩出し、ゼロから知的産業クラスターと雇用を生み出してきた。そこで活躍する人材も地元の高校生から育成し、「地方創生の鶴岡モデル」と呼ばれてきた。最先端研究と人材育成に留まらず、大学が中心となって地方創生に取り組む先端研は、ロケーションだけでなく、中身こそ「異端」である。
熱量を高める
先端研を特徴づけるのが、学生を含む若手の自由な発想と突破力によるボトムアップな挑戦である。データ駆動型バイオサイエンスを共有しながらも、トップダウンなゴールはあえて置かないことで、ユニークなベンチャー企業が次々と誕生している。
若手に挑戦を求める際、“get out of the comfort zone”(安全地帯から一歩踏み出せ)という表現が使われる。しかし、それを言う組織は、その“comfort zone”をどの程度つくれているだろうか。先端研では、山形県・鶴岡市の覚悟に支えられた安定財源により、腰を据えて基礎研究に集中できる環境を整えている。鶴岡という場所も良く作用し、「鶴岡から世界を変えてやろう」という強い志を持った人材が集う。その圧倒的な熱量から、イノベーションが生まれ続ける。
よく問われるのだが、先端研にはベンチャー創出を支援する明示的な仕組みは何一つない。代わりに、起業を経験した同僚や先輩が周りにいくらでもいて、いつでも気軽に相談できる。スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックがApple社をガレージから起業した際、手厚い支援があっただろうか。彼らがそれを必要としただろうか。世界を変えたいという強いモチベーションと、方向性は違えど世界を変えつつある仲間がいればこそ、困難を乗り越えられるのだと思う。
花よりも根を養う
鶴岡を擁する庄内地方には、古来より「花よりも根を養う」という素晴らしい格言がある。近年、日本には経済的にも精神的にも貧しさが見られ、咲きそうな花、あるいは咲いた花にばかり栄養をやり、「すぐに役に立つ」成果を追い求める兆しがある。しかし、これは未来の前借りであると同時に、未来の搾取である。国や自治体、大学が投じるべきは未来への投資であり、基礎研究や、数十年たって花開く人材育成はその最たるものである。
先端研では、教育プログラムや25年間継続するコホート研究に力を入れてきた。地元の高校生を特別研究生・特別研究助手として受け入れ、放課後や週末に最先端研究に従事し、博士号を取得して世界的なリーダーを目指してもらう。17年継続したことで、かつての高校生が博士号を取得し、先端研や先端研発ベンチャーで研究するため鶴岡に戻る例も増えてきている。
フロンティア精神こそが義塾の本質
明治の開国に際し、このままでは日本が西欧の植民地となり存立の危機に陥ると看破し、実学(サイヤンス)で日本を拓かれた福澤先生と、「消滅可能性都市」などと大仰に括られた地方都市を、大学発の知的産業によって創生しようとする先端研は、同じフロンティア精神を共有している。
「カリフォルニアモデル」など、首都圏一極集中を強めることに活路を見いだす考えもある。しかし、東京で食べる食品も、使う電力も、働く人材も地方でつくり育てたものであり、日本の文化や景色もまた地方にある。よって、地方創生こそが日本の未来を創る上での本丸である。
鶴岡は明治期に養蚕業をゼロから立ち上げ、最盛期には市民の約半数が関わるに至る「松ヶ岡の奇跡」を経験している。私たちも、「バイオサイエンスといえば鶴岡」と世界中から産業や人材が集う街を目指して挑戦を続け、次の四半世紀に発展を加速させていかねばならない。
研究のようなクリエイティブな営みに取り組むなら、水も空気も澄み、美しい山と海に囲まれ、ユネスコ認定の食文化創造都市で、多数の国民保養温泉地に恵まれた田園都市が良いに決まっている。満員電車による通勤ストレスも皆無である。欧米の大学が、大学を中心に成り立つ地方都市に多いことは、オックスフォードやハイデルベルクを例に出すまでもない。
鶴岡サイエンスパークには、水田に浮かぶ美しいホテル「スイデンテラス」があり、地元の食材を生かした料理や温泉も楽しめる。先端研のメタボローム解析から生まれた日本酒「智徳」やワイン「異端」を愉しみつつ、鶴岡という慶應のフロンティアをぜひ体験しに来ていただき、共に次の時代を思い描きたい。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。