執筆者プロフィール
山内 慶太(やまうち けいた)
常任理事山内 慶太(やまうち けいた)
常任理事
慶應義塾同窓会(昭和八年五月、三田山上)
福澤先生の逝去──危急存亡の秋
明治34(1901)年2月3日、福澤先生が逝去した。それから今年で125年になる。
当時遺された門下生の気持ちを象徴するエピソードがある。2月8日の葬儀に当たって、塾生達が棺を担ぐことを申し出て来た。彼らの心情はわかるが、不慣れな学生が長距離担ぐことに不安もある。そこで、日原昌造(ひのはらしょうぞう)がこう説得したのであった。
「君達が先生の柩を担いたいというのは尤(もっと)もだけれども、君達の肩上には更に柩以上に担うべき重いものがある。それは即ち先生の偉業なる慶應義塾そのものを担うことである。将来義塾の維持は是非諸君の双肩に担うてもらわねばならぬ」
先生没後の慶應義塾への共通する思いでもあったが、異なる意見もあった。その様子を、明治生命の創立者で義塾でも長年財務を監督した阿部泰蔵(あべたいぞう)が次のように回想している。
「先生の逝去は義塾の大打撃にして、所謂危急存亡の秋(とき)なりき。先ず第一に起こりたるは、義塾を如何せんとの問題なり。或人曰(あるひといわ)く、義塾は先生の独力にて創始し、先生の独力にて維持し来りたるものなれば先生の逝去と共に消滅するは自然の数なり。強(しい)て之(これ)を継続せんとするは却(かえっ)て先生の名を辱(はず)かしむるに至るべし。この際断然之を廃止するに如(し)かずと。(略)先生御生存中より引続き塾長の職に在りたる鎌田塾長は決然としてこの廃塾説を廃し、塾内の教員職員と共に維持説を主張し、塾外に在りたる同塾出身者の多数も之に応じて維持説に賛成し、内外協力して維持の方策を講じ、差当り焦眉の急を救わん為め慶應義塾維持会を組織し(略)」
維持会設立──之を葬るに忍びざる
先生が亡くなって最初の評議員会が2月22日、交詢社で開催された。そのことを『慶應義塾学報』(後に改題され『三田評論』となる)は、「義塾の維持法等に付き、種々協議の末、左の諸件を議決したるよし」として、その1つとして「慶應義塾維持会を組織し男女の別なく広く有志者の加入を請う事」を挙げている。
そして、3月になると「慶應義塾維持会設立の趣意」が発表された。その冒頭の一節は、先生亡き後を引き継ぐ責務を共有しようという意気と緊張感にあふれている。
「福澤先生歿せらる。慶應義塾も共に葬る可(べ)きか。否な、我々は之(これ)を葬るに忍びざるなり。抑(そもそ)も慶應義塾は先生の最も苦辛経営せられる所のものにして、之(これ)を維持し之を拡張するは最も能(よ)く先生の志に適(かな)うものなるを信ずるなり」
そして、維新の動乱の中で独り洋学の命脈を保ったこと等を述べた上で、「日新文明の新主義を主張し、近頃又修身要領を発表して独立自尊の説を唱導するなど、一種の異彩を放つは世人の明かに認むる所」であると、義塾の意義と使命を語った。更に「之を維持するは我々の避く可らざる義務なりとして、扨(さて)その方法は如何と云うに、天下同志の助力を乞うの外に道ある可らず。慶應義塾は学問の独立を擁護するが為めに時に困難に遭遇したることなきに非(あら)ざれども、会計の困難はその常に免れざる所なり」として、これまでの取り組みを列記し、新たに維持会を組織することを宣言したのである。
四十九日に当たる3月23日、善福寺で追善会が行われた。会の発起人小幡篤次郎(おばたとくじろう)は、先生存命中は、先生の徳を慕って薫陶を仰いで入塾する者が多く、それが為に今日までの位置を保ちえた、つらつら将来を思えば憂慮に堪えないものがある、と将来への心配を吐露した。そして、社中の協力で集めた基本金では不十分であり、「小口の金を広く募集するに決し」たと維持会を紹介し、入会と共に勧誘への尽力を期待した。
維持会の特色は、「慶應義塾維持会規則」に定められたように、社中内外に広く会員になれるようにしたこと、1口毎年6円、毎月50銭と少額にしたこと、そして、義塾と社中の連絡を緊密で永続的なものにして維持会の目的を発揮する為に、会員には毎月『慶應義塾学報』を贈呈することである。ちなみに、1口を少額にするのは、塾長鎌田栄吉の、『慶應義塾学報』の配布は教頭門野幾之進のアイデアであった。
会の設立前史──応分の醵金をなす
今日にいたる維持会は福澤先生逝去直後に作られたが、そこには前史があり、言わば十分な準備があった。
元々、慶應義塾は経済的な余裕はなかったが、明治10年頃から13年頃にかけては特に存続の危ぶまれる状況にあった。政府の官学偏重の方針、西南戦争によるインフレーション等が重なり、塾生数が大幅に減じた。教員達は、ただでさえ各段に安い俸給を更に自発的に3分の1に減らす等、一致協力した。この時は福澤先生自身は廃塾を決意したが、社中の人達によって「慶應義塾維持法案」が作られ、醵金を募った。
22年には、維持金に代わって資本金の募集をはじめた。翌年に大学部の開設を控え、大学部の維持に必要な経費を授業料と寄附金の利子で賄おうというものであった。しかし、当時の義塾では普通部の修了で塾員となるため大学部への進学者、入学者は少なく、経費の不足を資本金の元本を取り崩して充てる状況が続いた。この時には大学部の廃止の意見も出たが、福澤先生の決断で、大学部を続けることになった。
そこで31年、それまで重複も多かった課程を見直し、幼稚舎6年、普通部5年、大学部5年の計16年の今日に至る一貫教育制度を確立することになる。この学事改革に向けて前年、「学事改革の要領」の発表に続いて始められたのが資本金に代わる基本金の募集である。
これらについて、『福翁自伝』に「私は余り深く関係せず、一切の事を塾出身の若い人に任せています」とあるように、先生生前も、門下生達は先生に頼りすぎることなく義塾の維持を考え、社中で力を合わせて来たのであった。まさに、明治4年制定の『慶應義塾社中之約束』で既に、塾は「福澤氏の私有にあらず社中公同」のものであると示した通りに運営されて来たのである。しかもその協力は、寄附の多寡に価値があるのではない。維持法案に「同志社中各その家計の厚薄に従い、応分の醵金を為してその費用を助くるなり」とあるように、応分の協力こそが共有される理想であった。
経営の危機に直面する毎に、義塾が次代に継承すべき使命と理念が改めて意識されていったことも忘れてはならない。大学部の存廃が論じられていた時、福澤先生は塾が大切にして来た「固有の気品」とそれを「先進後進相接して」自然のうちに感化するための「団体中に充満する空気」の維持の責任を「遺言」という言葉を使って草創期の出身者の会で切々と語る。そして門下生達も独立自尊主義を「修身要領」にまとめ、33年2月に発表する。基本金の募集と修身要領の発表が相まって、三田と全国の社中の連絡がより密になる活動がはじまった。
基本金募集開始に合わせて31年3月『慶應義塾学報』を創刊した。第1号巻頭には「全国塾員諸君の熱心尽力は勿論、天下篤志者の同情賛成を得るに非(あ)らざれば容易に目的を達す可(べか)らず。之(これ)が為にもますます本塾の主義精神を社会に発揚するの必要を見る可し」と「発行の趣旨」が謳われている。また、「修身要領」の普及の為に全国各地に、塾長鎌田、塾監北川礼弼(きたがわれいすけ)らが精力的にでかけた。その際には、修身要領講話会と共に同窓会も開かれた。
維持会と三田評論──一種特別の気風
福澤先生が没すると、先述のように維持会が作られた。多額の寄附を集め義塾運営の基金とする基本金と、義塾の理念に共感する社中内外の人達が広く参加して毎年の経常収支を支える維持会の2つの柱が作られたことになる。合わせて4月13日には「慶應義塾同窓会」も開かれ「慶應義塾同窓会規約」が定められた。この中で定めた4月、11月の同窓会の開催が、今日の連合三田会大会につながる。
全国各地での追悼会、修身要領普及活動は、自然と社中の結束をより確かにし、維持会の展開とも重なりあうことになった。ちなみに、明治34年度の維持会の払込額は1万4000余円、同年度の義塾の総支出が10万5000余円であるのでその規模がわかるであろう。なお、当時の『慶應義塾学報』の維持会報告は、応分の協力の趣旨を踏まえ、金額順ではなく、到着順に記載されていた。
維持会はその後も拡大し、時に困難からの克服を支えた。『塾監局小史』は次のように記している。
「思えば、関東大震災による塾債の償還は、この維持会費に負うところの多かったことは忘れ得ぬものであり、又、日吉台建設資金募集に際し率先参加された多数の人達が維持会加入者であったということは、この制度が義塾との精神的結合に預かっていかに多大の効果をもたらしていたかを如実に示した一例であろう」
戦後も、空襲の痛手の大きかった義塾がようやく復興の見通しをつけた昭和26年、連合三田会が終戦後はじめて開かれ、27年には大阪で開かれた。そして、休刊を余儀なくされていた『三田評論』も26年に復活すると「築け、我等の学園を!」と「1万口増強運動」を展開した。その動きが創立100年記念事業へとつながっていくことになった。
慶應義塾は、全社中の共有の学塾であり、社中が支えて来た。その象徴が1口年額1万円で等しく会員になれる維持会である。かつて塾長石川忠雄と維持会会長早川種三が「私どもが皆様に維持会への加入をお願いいたしますのは、義塾が独立自尊の精神のもとに、母校を愛するすべての塾員によって維持されているという実を示すことにより義塾の一層の声価を高め」ようと呼びかけたことがあるがその通りである。
維持会の歩みを辿る時、維持会、各地三田会、そして『三田評論』が一体となっていることがよくわかる。義塾の精神、気風の維持発展と財政的維持の活動は表裏一体の関係にあるのである。義塾で繰り返し引用されて来た福澤先生明治12年の演説の一節を改めて再確認したい。
「抑(そもそ)も我慶應義塾の今日に至りし由縁は、時運の然(しか)らしむるものとは雖(いえ)ども、之(これ)を要するに社中の協力と云わざるを得ず。その協力とは何ぞや。相助ることなり。創立以来の沿革を見るに、社中恰(あたか)も骨肉の兄弟の如(ごと)くにして、互(たがい)に義塾の名を保護し、或(あるい)は労力を以て助るあり、或は金を以て助るあり、或は時間を以て助け、或は注意を以て助け、命令する者なくして全体の挙動を一にし、奨励する者なくして衆員の喜憂を共にし、一種特別の気風あればこそ今日までを維持したることなれ。」
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。