執筆者プロフィール
都倉 武之(とくら たけゆき)
研究所・センター 福澤研究センター教授都倉 武之(とくら たけゆき)
研究所・センター 福澤研究センター教授
画像:左 American Baseball Trophy(1931 年)、右 アメリカ遠征トロフィー(1911年)(福澤研究センター蔵)
いつからそこにあったのかはわからないそのカップとトロフィーは、三田の体育会事務室の史料室で発見された。そしてそれらは昨年7月から、5年間の約束でニューヨーク州クーパーズタウンのアメリカ野球殿堂博物館に展示されている。
体育会各部の選手には、現役アスリートとしての今の活動がすべてであり、過去を振り返る余裕などないものだろう。それでもこれだけはと後輩に受け継ぎ、多くの人々の手を経て辛うじて今日まで生き延びたと思われる各部の歴史的遺物が、史料室に集まっていた。
今回海を渡ったカップは、その中でも最も存在感を放つ、真っ黒に変色した純銀製で、重量はおよそ5キロ。その表面には「PRESENTED BY KEIO ALUMNI TO THE KEIO UNIVERSITY BASEBALL TEAM IN COMMEMORATION OF THEIR VISIT TO NEW YORK CITY / MAY 1911」と刻まれている。両側に持ち手があり、精巧な飾りがあしらわれた豪華な品だ。
その隣には、打って変わってすらりと軽やかなプロポーションの風変わりな形のトロフィーがあった。上部に実物大より少し大きい野球ボール、それを3尾の鷲が羽で支え、星条旗と旭日旗の七宝をあしらった本体部分には「AMERICAN BASEBALL TROPHY PRESENTED TO KEIO UNIVERSITY BY "TY" COBB / "ERNIE" QUIGLEY / "BOB" SHAWKEY / "FRED" HOFFMAN / "HERB" HUNTER」とある。
どちらもアメリカと慶應野球を結ぶ遺物である。カップの方は、1911年の慶應野球部初のアメリカ本土遠征中に、在ニューヨークの慶應義塾出身者たちが贈ったものであることは、刻字から明らかだ。当時の新聞記事によれば、それは同年5月27日、フォーダム大学との対戦に勝利した際に贈られたという。
トロフィーのほうは、一筋縄ではいかない。アメリカ野球殿堂入り第1号で今なお数々の大リーグ記録を持つタイ・カッブの名があるにもかかわらず、2014年6月に本誌が写真入りで紹介した際もその由来は不明だった。しかし2022年の慶應義塾史展示館での展示を機会に、今ではそれがはっきりした。
タイ・カッブは現役引退直後の1928年11月に他の元大リーガーらと共に来日し、当時の大毎野球団と連合チームを組んで早慶ら大学野球部と対戦した。この時、慶應は3勝1分の好成績を残した。この来日の仕掛け人であったハーブ・ハンターは、3年後にはルー・ゲーリッグら現役大リーガーを率いて再来日し、その際、前回来日時の最優秀チームとして慶應野球部にこのトロフィーを贈ったのであった。下田の野球部合宿所からはこのトロフィーが贈呈された1931年11月の記念写真も見つかった。
ただそれでも、これらが戦時中の金属供出をどうして免れたのか、という謎は残った。他の体育会各部のこの種の記念品は供出で失われ、全く残っていない。裏を返せば、野球が敵国アメリカ発祥の「敵性スポーツ」視された時代にあっても、これだけは残しておきたいという意思を持って、守られたと推測されるのだ。
カップとトロフィーに加え、もう1つアメリカで展示中のものがある。それが2023年に新たに発見された、腰本寿のストップウォッチである。腰本はハワイ出身の日系2世で、1926-35年に野球部監督を務め、戦前の慶應野球黄金時代を築いた。腰本監督時代の主将で、のちに高野連会長を務めた牧野直隆がこれを保管していた。牧野が1991年に添えた説明書きによれば、慶應野球部の先輩小野三千麿(都市対抗野球の小野賞に名を残す)からの依頼により腰本家から譲り受け、「昭和の初期、現役時代にベースランニングの時、鍛えられた思い出の時計なり」とある。
今から100年前の野球練習で、タイムを管理していたという事実は驚くべきことである。精神主義を嫌い、合理性、科学性を主導した腰本野球、そして慶應スポーツの歴史の象徴的遺物といえよう。
そもそも日本野球の原点には2つの潮流がある。1つは1872年、第一大学区第一番中学(東京大学の前身)の生徒に米人教師H・ウィルソンが野球を教えたことを原点として、学校教育の一環と位置づけられていく野球の流れ。もう1つは、アメリカ留学中に野球を覚え1876年に帰国した鉄道技師平岡凞(ひろし)が、新橋の鉄道局員の「保養」のために創始した新橋アスレチック倶楽部の、本業とは別の「余技」としての野球の流れ。前者は武士道野球を唱えた一高、一球入魂を主唱した早稲田野球へと繋がっていき、日本野球の主流をなしていく。ところが慶應野球は人的にも気質としても、後者の系譜を色濃く継いでいることに特徴がある。さらに、日本において大リーグが「商売人野球」などと蔑まれていた時代の1910年に、猛将と異名をとった大リーグNYジャイアンツの監督ジョン・マグローに親書を送って現役選手2名を日本まで派遣してもらい、1カ月間マグロー流野球の体系的特訓を受けた慶應野球部の歴史も特筆される。日本人チームの渡米では早稲田の後塵を拝したが、それはいわば他流試合だったのであり、アメリカ的ベースボールを追求した歴史は、確かに慶應義塾が日本で最も先行していた。彼らはそれを「ツルー・ベースボール」と呼んで誇りとし、その延長線上に「エンジョイ・ベースボール」が描き出されていくのである。
2025年7月、イチローのアメリカ野球殿堂入りセレモニーと同時に、日米の野球を通した交流をテーマとする企画展「YAKYU/BASEBALL」がクーパーズタウンで開幕した。この企画展に上記の3つの慶應野球部関係の実物資料が展示されているのである。かつて日本でアメリカ的なベースボールを求めることは傍流で異端だった。その中で紡がれた慶應野球の歴史の先に、NOMO、ICHIRO、OHTANIら、大リーグにおける日本人の歴史が刻まれているというのは、野球を思想史として捉えたときには、あながち言い過ぎとは思われない。慶應野球の歴史の一端が、守り抜かれた3つの実物資料によって、野球の故郷に5年間展示される意義は大きい。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。