執筆者プロフィール
巽 孝之(たつみ たかゆき)
名誉教授ニューヨーク学院長巽 孝之(たつみ たかゆき)
名誉教授ニューヨーク学院長
画像:アメリカ野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame and Museum)
ニューヨーク学院勤務も2025年で4年目を迎え、ようやく車で遠出をする余裕が生じるようになった。そこで、アメリカ研究者としては本来とっくに熟知しておくべきなのに書物だけでしか知らなかった名所を、順次廻ることにした。19世紀ロマン派作家に大きな影響を与えたハドソン・リヴァー派を代表する画聖トマス・コールの美術館やコールの同時代の作家エドガー・アラン・ポーが学んでいたウェストポイント陸軍士官学校、それに1960年代対抗文化の聖地であるウッドストック・ロック・フェスティバルの会場べセルなどなど。しかし何といっても大きかったのは、昨年2025年9月中旬、ニューヨーク州北部はオツィーゴ郡の村クーパーズタウンを訪れ、鈴木一朗(イチロー)の野球殿堂入りに因んで企画された日米野球の大々的な展示を鑑賞したことだろう。きっかけの1つは、この村が、初期アメリカ文学の代表格でちょうど200年前に名作『モヒカン族の最後』(1826年)を出版した文豪ジェイムズ・フェニモア・クーパーの父ウィリアムによって、1786年に作られたこと。もう1つは、その日米野球展のために、甲子園歴史館や我が国の野球殿堂、早稲田大学と並んで、慶應義塾福澤研究センターが協力したことだ。
一般的には、イチローが北米で野球殿堂入りしたとメディアで報道されれば、ヤンキー・スタジアム近辺を想定する向きもあるかもしれない。しかしニューヨーク州というのは、マンハッタンが南端に近くカナダ国境が北端、ナイアガラの滝が西端に近い。日本の本州がそっくり入ってしまうほど広大なのである。したがって、ニューヨーク学院の位置するマンハッタン北東パーチェスからクーパーズタウンまでは、車でゆうに4時間近くは北上せねばならない。はたして9月20日の午後、友人のブラッドリー&ワカナ・エドミスター一家と到着した同地の広大なオツィーゴ湖畔には、風光明媚なリゾート地が広がっていた。
そのメイン・ストリート25番地に位置するのが、篤志家スティーヴン・カールトン・クラークによって1936年に設立されたアメリカ野球殿堂博物館である。
朝9時半ごろ入場。1階の文字通りの殿堂には、名打者ベーブ・ルースやテッド・ウィリアムズの銅像とともにイチローを含む名選手たちの記念銘板がずらりと飾られている。順路としては、まずは殿堂そのものの概観を示す映画を見るよう、2階のシアターへ通される。隣接するホールではイチローが特集されており、設置されたビデオ映像が示すさまざまな名場面のうちでも、彼がゲーム終了後、とある老貴婦人から祝福されているのが印象的だった。聞けば、シーズン257本のⅯLB安打記録を84年間保持しながら、2004年にイチローに抜かれることになった4割打者ジョージ・シスラー選手の娘フランセス・シスラー・ドロッケルマン夫人だという。
続いて、いよいよ3階の特設展示「野球とベースボール──太平洋を超えた日米の野球交流」(Yakyu / Baseball: The Transpacific Exchange of the Game) を鑑賞。アメリカのベースボールと日本の野球とが、150年以上の歳月をかけて交流し、相互の友情を深めてきたことを明らかにするのが、展示の基本的コンセプトである。入ってすぐ目に入るビデオでは日本人として2人目のメジャーリーガー野茂英雄がフィーチャーされているのが目を惹く。ちょうど彼がロサンゼルス・ドジャースに入団して30周年記念の年だったからだろうか。現に〈ニューヨーク・タイムズ〉2025年5月2日付では、エヴァン・ドレリックが、30年前の野茂の大胆な挑戦こそがいわゆる「ノモマニア」をもたらし、イチローや大谷翔平ら後進の進むべき道を切り拓いたことを、大々的に報じていた。
しかし、日本の野球選手と米国のベースボール選手の親交の起源は、今から100年以上さかのぼらねばならない。1910年にニューヨーク・ジャイアンツの内野手アーサー・シェーファーがマイナーリーグ投手のフラー・トムソンと共に来日して慶應義塾大学野球部の選手たちを指導し、その結果、同野球部はアメリカ遠征することになったのだ。それを証明するのが、1911年の慶應野球部訪米において、ブロンクスにあるフォーダム大学との対戦で勝利した時に、ニューヨーク在住の塾員である「先輩」から贈呈されたという巨大な銀製のトロフィーである。1931年に大リーグ選抜チームが慶應と対戦した際には、元大リーガーのハーバート・ハンターから、日米国旗の交差するトロフィーが贈呈されている。ふたつのトロフィーは福澤研究センターから提供され、展示物の中でもひときわ燦然と輝いていた。
その他では、1941年12月の太平洋戦争勃発後、フランクリン・デラノ・ローズヴェルトの大統領令によって強制収容所に送り込まれた約12万人の日系アメリカ人たちが日系野球を生み出したことを明かす展示が興味深い。アリゾナ州のヒラリバー収容所にて、銭村健一郎とその仲間たちが、自分たちの手で球場と観客席を建設し、野球によって日系アメリカ人としてのアイデンティティを維持しようとした経緯が綴られていたからである。
ちなみに、歴史的事実ばかりではなく、明治を代表する歌人・正岡子規が1890年代に発表したベースボール短歌が随所に英訳付きで展示されているのも、この特別展でなければ味わえない趣向だろう。
「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも」
「今やかの 3つのベースに 人満ちて そゞろに胸の 打ち騒ぐかな」
「若人の すなる遊びは さはにあれど ベースボールに如く者は あらじ」
「国人と とつ国人とうちきそふ ベースボールを 見ればゆゝしも」
彼がベースボールに夢中になったのは東京大学予備門時代の1884年ごろで、その5年後には松山中学の生徒たちにこのゲームを教えていたという。それを知った瞬間、アメリカ文学において想起せざるを得なかったのは、全く同時代にあたる1889年に、アメリカを代表する国民作家で福澤諭吉先生と同い年のマーク・トウェインが歴史改変小説『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』を発表し、6世紀のイギリスにタイムスリップした19世紀末の典型的アメリカ人が、自身の熟知する最新の欧米文化や科学技術を教え込み、なんとこの古代人たちにベースボールのチームまで作らせていたことである(第40章)。
現代アメリカ文学におけるベースボール小説はW・P・キンセラやフィリップ・ロス、ドン・デリーロ、それにポール・オースターまで枚挙にいとまがないが、このトウェイン作品は前掲ウェストポイント士官学校への徹底取材で完成した、まさに元祖といってもよい。しかも同作品が正岡子規のベースボール短歌とほぼ同時代に書かれていたという奇遇こそは、日米野球が早くも太平洋を超えていた証左として、まことに愉快ではないか。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。