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第191回福澤先生誕生記念会年頭の挨拶
「生成AI時代に好奇心を育てる」

2026年1月10日

慶應義塾長 伊藤 公平

あけましておめでとうございます。本日の福澤先生誕生記念会には福澤家を代表して小山太輝(こやまたいき)様、塾員を代表して評議員議長の岩沙弘道(いわさひろみち)様、記念講演者として安西敏三(あんざいとしみつ)甲南大学名誉教授にお越しいただいています。ありがとうございます。

慶應義塾にとって、今年のお正月は、実に明るい話題から始まりました。慶應義塾志木高等学校蹴球部が、創部68年目にして初めて、第105回全国高等学校ラグビーフットボール大会、いわゆる「花園」に出場しました。しかも、1回戦、2回戦を勝ち上がり、ベスト16。塾内はこの話題で持ちきりでした。また、慶應義塾高等学校バレーボール部も春高バレー(全日本バレーボール高等学校選手権大会)に出場し、大学では将棋研究会が学生王座戦に出場し、26年ぶり2度目となる優勝を達成するなど、新年早々、慶應義塾らしい挑戦と成果を感じさせてくれる出来事が続きました。

2025年を振り返って

さて、まずは昨年を振り返ってみたいと思います。慶應義塾にとって、2025年は、全体としてとてもよい1年だったと感じています。

もちろん、例年のことではありますが、事故や病気によって、塾生が命を落とすという、誠に残念な出来事もありました。その一方で、塾生や職員が、公共交通機関で倒れた方の人命救助を行い、表彰されるという、頼もしい出来事も複数ありました。

昨年1月には、2024年度の公認会計士試験の結果が発表されました。大学別合格者数において、慶應義塾は、50年連続で第1位。切れ目のない教育の積み重ねが、確かな成果として表れています。

2014年から10年間にわたり取り組んできた文部科学省のスーパーグローバル大学創成支援事業では海外協定校を340校まで拡大し、受入留学生は10年間で2倍、派遣留学生は1.5倍となりました。海外との共同研究や共同事業への積極的な参加、そして海外から見た慶應義塾の評価の高まりが認められ、最終評価として「A」をいただくことができました。

実際、国際的レピュテーションという観点では、昨年だけを見ても、実に多くの世界のリーダーや論客が慶應義塾を訪れました。『サピエンス全史』著者のユヴァル・ノア・ハラリ氏、NATO事務総長のマルク・ルッテ氏、オランダ首相のディック・スホーフ氏、台湾元デジタル大臣のオードリー・タン氏、そして、欧州委員会委員長のウルズラ・フォン・デア・ライエン氏。こうした方々が、研究者や塾生と直接対話をしてくださった1年でした。5月には、アラブ首長国連邦(UAE)のシェイハ・ファーティマ皇太后のお名前を冠したアラビック・ラーニングセンターが日吉キャンパスに設置されました。開所式典にはマイサ・ビント・サレム・アル・シャムシ国務大臣が来塾されました。ここは、日本におけるアラビア語とアラビア文化の教育・研究の拠点となります。

福澤諭吉と「自由」と「独立」の精神

では、なぜ、これほど多くの世界のリーダーたちが、慶應義塾を訪れ、連携に関心を持ってくださるのでしょうか。それは、彼らが尊敬する学者が慶應義塾に多く在籍しているからです。そして、慶應義塾のこれまでの歴史的な歩みと、これからの役割に、強い期待を寄せてくださっているからだと思います。

その象徴的な出来事が、昨年7月に、築150年の節目を迎えた三田演説館で行われた、フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長の14分間のスピーチでした。慶應義塾が、歴史的に重要な学塾であると同時に、本質的にグローバルな大学である、福澤諭吉の思想を貫く「自由」と「独立」は、19世紀末と、私たちが生きる現代とを確かにつないでいる、そして国際的な不安定性が増す今だからこそ、福澤諭吉の普遍的な教えを現代に焼き直して強調すべきであることを、三田演説館で力説されたお姿は実に感動的で、この様子が世界にライブ配信されました。本スピーチの邦訳は、三田評論ONLINEに掲載されていますので是非ご一読ください。

また昨年11月には、国際刑事裁判所(ICC)と慶應義塾大学が主催する初めてのICCアジア太平洋学術フォーラムが三田キャンパスで開催されました。ここにはICCとパートナーシップを結ぶアジア太平洋地域の10大学が集いました。ご存知の通り、ICCは国際刑事法の視点から戦争犯罪や人道に対する犯罪等を扱う裁判所で、プーチン大統領やネタニヤフ首相に逮捕状を出しています。そしてイスラエルを支持するアメリカ政府から制裁を受け、存続の危機に瀕しています。このような状況において、慶應義塾は、学術の立場から国際法に基づく独立と自由の価値を守る営みに寄与していきます。このフォーラムの様子はNHK BSの「国際報道2025」でも詳しく取り上げられました。

『文明論之概略』に見る慶應義塾の進むべき道

さて、自国中心主義が強まる今の時代は、福澤先生が生きた19世紀末と、驚くほど重なります。実際に福澤先生は昨年刊行150周年を迎えた『文明論之概略』の中で、愚か者に権力を与え、その人が信念を持ってしまうと、どんな大悪事でもやってしまうと警告しています。では、そのような時代に、慶應義塾、そして日本は、どのように振る舞うべきなのでしょうか。その答えも『文明論之概略』にあります。「目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。その目的とは……内外の区別を明にして我本国の独立を保つことなり」。要は我々、そして国として内外の違いを明らかにしながら、独立を保つことだと、福澤先生はおっしゃっています。

福澤先生は、文明論を人の精神発達の議論と断ったうえで、「慶應義塾の目的」にも登場する「智徳」の説明に4章を費やされました。智徳はintellectという智恵とmoralという徳から成ります。これは元々古代ギリシャの哲学者、アリストテレスが発した言葉です。そして19世紀末当時の日本は、徳においては西洋との差はないが、文明の礎となる智恵において西洋に大幅な後れをとっていると解説されました。

そこで大切となるのが「今日西洋の文明を以てその趣(おもむき)を見るに、凡そ身外の万物、人の五官に感ずるものあれば先ずその物の性質を求めその働を糺(ただ)し、随(したが)って又その働の源因を探索して、一利と雖(いえ)ども取るべきは之を取り、一害と雖ども除くべきは之を除き、今世の人力の及ぶ所は尽くさざることなし」。これは自分の周りのあらゆる事象を五感で感じ、好奇心を持って接し、その中身を研究・究明・解明する。その中で少しでも役立つものがあれば受け入れ、少しでも害になるものがあればそれを外し、人間社会の発展に役立てていく、という意味です。

これこそが、学問の追究による実業すなわち国力増強であり、今で言うところのイノベーションであり、これこそが現在の慶應義塾が進むべき道です。またいくら当時と現代が重なるとはいえ、これだけ世界中から様々な方々が訪れている現在は、福澤先生がおっしゃっていた「日本は智恵で遅れている」という点については状況が変化しています。智恵においても進んでいるということを証明していかなければならないのです。例えばこれからは学問の社会実装──文学の研究者が人の心を安らかにする、歴史研究が、我々が進むべき指針を示す、といったような、「学問が社会をより強固なものにする」活動の中心に慶應義塾はいなければならない。そのような活動に邁進していきたいと思います。

また、しかし福澤先生は、当時の時代の日本人は智恵に劣るうえに、対峙する外国人との間合いがわからず、貿易等でも搾取されてしまう病にかかっている、とおっしゃっています。福澤先生はこれに「外国交際」という病名をつけましたが、外国との本来の付き合い方のポイントとして「利を争うは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり」と述べられました。そして、それができるようになるためにもまずは国内での文明を高めることが大切と説かれました。もちろん世界の文明に寄与することが理想であるが、当時の日本はその段階ではないということです。また必ずしも国民の数が多ければ強いというわけではない、大切なのは一人一人の能力を高めたうえでのその合計と記されています。そして国民の分断を回避するという観点から、既得権のない立場の人たちがしっかりと学べることで平等を実感し、建設的に文明に参加する日本を目指すべきとも述べられています。どうでしょう、まさに現代の日本が進むべき道が示されていると思いませんか?

昨年9月に土屋常任理事と私がハーバード大学、ブラウン大学、エール大学、カーネギーメロン大学のそれぞれの学長を訪ねたところ、大歓迎していただきました。米国トップ大学が様々な困難に直面する今だからこそ慶應義塾が大切なパートナーと位置付けられているのです。私たち慶應義塾がこのように歓迎されるのは、福澤先生の時代から現在に至るまでの慶應義塾の執行部や教職員先輩方の努力の賜物であることを感謝とともに実感しているところであります。

戦後80年を超えて

さて、昨年は戦後80年でもありました。『三田評論』の8・9月号にて戦後80年の特集が組まれ、慶應義塾史展示館でも戦争の企画展が行われました。また、2026年1月号の新春対談では前総理大臣の石破茂さんと佳子さんの塾員ご夫妻と私が対談しています。

そこではお二人の塾生時代の思い出に加えて、石破さんが昨年10月発表された「内閣総理大臣所感 戦後80年に寄せて」に関するエピソードを詳しく伺いました。始めから敗戦が濃厚であった先の大戦に向かう過程で、なぜ政治家が歯止めたりえなかったのか?というのが石破さんの最大の問いであり、それを巡ってご夫妻から実に興味深いお話が伺えました。

特に私の印象に残ったのが石破さんの次の言葉です。「今の日本国はインディペンデントでもないし、サステナブルでもない。食糧もエネルギーも人口構成もそうです。自衛力だって、はっきり言ってしまえばそうですね。もちろん日米同盟は大切です。日中の信頼関係も大切です。しかし、その前提として、インディペンデントな日本とは何かということを突き詰めて考えたことがない、というのは恐いことだと思う。福澤先生がおっしゃるところの『独立自尊』というのは何なんだというのは、常に塾員、あるいは塾に学ぶ者が問いかけねばならんことなのでしょうね」。

こちらの対談全文も三田評論ONLINEに載っていますので、是非、ご一読下さい。

生成AI時代に自立と尊厳を保つための教育

さて随分と昨年の話題に時間を使ってしまいました。最後に今年の抱負を述べます。慶應義塾の目標はこれからの3年間で世界最高峰のAIキャンパスを実現することです。ご安心ください、あくまでも人間中心という意味での世界最高峰のAIキャンパスです。今の若者は生成AIになんでも相談します。生成AIは相手を否定することがなく、どこまでも寄り添い、いつまでも対話に付き合ってくれます。並行して若者達はSNSを通して友人や一般の人間と繋がりますが、こちらの方は常に炎上や仲間外れと背中合わせです。既読となるとすぐに返信しなければというプレッシャーもある。こうなると人間社会で最も重要であるはずの、人間同士の直接の人付き合いはどうなっていくのでしょうか?

私の考えでは、このような時代の教育機関の最大の務めは、好奇心を徹底的に育てることです。先の1月5日の日本経済新聞朝刊に私の教育に関する投稿が掲載されました。そこには次のように記しました。

「人間が精神的な自立と尊厳を保つために最も重要なのは好奇心であり、それは行動力、向上心、そして人とのつながりの源泉でもある。生成AIに対しても、好奇心をもって多様な問いを投げかけ知識や想像力の幅を広げる人は成長する。一方で、生成AIを単なる効率化の道具としか見なさない受動的な人では成長は難しい。

好奇心を育てるうえで、初等中等教育は極めて重要である。小中学校では、好きな教科等を学年の枠を超えて徹底的に伸ばし、その特技を仲間に教えることでさらに成長できる環境が望ましい。高校では、幅広い教養を身につけることが理想である。教科の枠を超えて、人文科学、社会科学、自然科学、医学など、さまざまな分野の「本物」に触れる。AI時代だからこそ、小中学校で育んだ好奇心と基礎学力を土台に、高校で文理を横断するリベラルアーツに浸ることで、自分の関心や進むべき方向性が次第に見えてくる」。

皆さん、これを実践できる小中高はどこだと思いますか? もちろん慶應義塾の一貫教育校です。そして大学においては、好奇心旺盛な塾生の期待に応える授業、課外活動、留学機会等を準備し、最先端のAIといったデジタルインフラをも好奇心の対象として用意して、教育と研究を大いに発展させるのが私達の目標です。好奇心に満ち溢れた塾生は学校のすべてのリソースを使い倒します。だからこそ慶應義塾が最高のリソースを用意していくのです。好奇心に満ち溢れた塾生は自分のペースを保ち焦りません。だからこそ慶應義塾は塾生たちにたくさんの寄り道の場を与えて、卒業後も福澤先生のように、様々な学びと挑戦を継続する人となり、社会貢献に尽くしてもらいたいと思います。そのような慶應義塾の発展に益々のご支援をお願いして私からの年頭の挨拶と致します。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

(本稿は2026年1月10日に開催された第191回福澤先生誕生記念会における伊藤塾長の年頭挨拶をもとに構成したものである。)

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