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2022年度大学院学位授与式 式辞

2023年3月28日

慶應義塾長 伊藤 公平

本日、博士号または修士号を取得される皆さん、おめでとうございます。皆さんは、日頃から積み重ねた学習と研究の成果を、学位取得者として実に相応しい論文にまとめ、今日という日を迎えられました。この活動を支えたご家族や保証人の皆様にも心からのお祝いを申し上げます。

慶應義塾は、皆さんの人生における「好循環のスタート」になることを願っています。皆さんは、慶應義塾において最高の教員とともに学び、研究に励んできました。慶應義塾の研究のレベルの高さは、皆さんが社会に出てから特に実感することだと思います。皆さんは、これから世界最高の頭脳に囲まれながら研究や事業に取り組むことになります。そのとき、自分の実力が全く見劣りしないことに驚き、大いに自信を深めることでしょう。そして世界レベルでの重要な役割を、ごく自然の流れとして担っていくことになります。慶應義塾の目的のとおり、皆さんの一人ひとりが全社会の先導者として発展されるということです。先導者同士は相乗効果によってお互いを高めます。慶應義塾の卒業生ネットワークが強固なのはまさにこの相乗効果によるものです。これからは慶應義塾の卒業生ネットワークである「三田会」をフルに活用され、他大学からの学位取得者、世界中の人々ともつながり、これからの世界をより豊かに、平和に、生きがいのあるものに発展させていってください。母校、慶應義塾ともつながり続けてください。卒業後も慶應義塾のWebサイトやSNSなどから、最新のニュースを得ながら母校の発展を支えてください。

さて、本日、学位を取得される皆さんへの私からのお願いは、「将来のコモンセンスを作る人になっていってほしい」、そして、そのためには「人々の心に響くストーリーを語っていってほしい」ということです。

福澤先生はコモンセンスという言葉を頻繁に使われました。ある人を推薦する手紙では、「其人物は随分コモンセンスあるものにて」と太鼓判を押しています。ここでのコモンセンスとは常識や良識ということです。そして福澤先生は、著書『文明論之概略』のなかで、「古来文明の進歩、其初は皆所謂異端妄説に起らざるものなし」と記され、アダム・スミスの国富論にしても、ガリレオの地動説にしても、最初は酷評された異端妄説とされたことを紹介しています。すなわち、今ではコモンセンスとなっている学説や真理であっても、発表当初は、当時のコモンセンスからかけ離れていた事例を紹介し、高い志をもって、そのような大きな研究や事業に取り組むことの大切さを強調されました。

ここからは将来のコモンセンスを作った例をいくつか紹介しましょう。

一つ目です。30年以上前の1990年ごろから理工学部・田中茂教授らの研究グループは、首都圏で雨が降るたびに雨水を分析することを始めました。雨水を通して大気汚染の研究に取り組むという、言われてみればコモンセンスから導き出された研究テーマなのですが、実は新しい試みでした。この地道な努力を30年以上続けることにより東京近郊の雨水の分布の経年変化を見事に可視化してきたのです。特に興味深かったのは2000年の三宅島の火山の噴火で関東地方の雨の酸性が強まったことを観測したことです。噴火の前からデータをとっていたので、2000年から急に都心の雨の酸性化が強まった理由が三宅島の火山噴火と示せたのですが、このような調査を誰もしていなければ人々は大気汚染の悪化によって酸性雨がひどくなったと思い込んだことでしょう。そして、田中教授らによる地道なモニタリングと解析によって、東京の空気汚染がどんどん改善されました。現在では、理工学部の奥田知明教授らが大陸から飛来するPM2.5等の影響も含めた大気のモニタリングを行なっています。その奥田研究室は、コロナ禍になると慶應義塾の様々な教室の環境モニタリングをしてくださり、対面授業の安全な再開に大きな貢献をしてくださいました。私たちが毎日吸う首都圏の空気と、慶應義塾の教室の安全は、このような超一流の専門家らの活躍によって支えられているのです。

二つ目です。昔、慶應義塾に速水融(はやみ あきら)教授という歴史学者がいらっしゃいました。人口の変化から歴史的な事実を明らかにする人口歴史学という分野を確立された方で、スペイン風邪のときの病死数等の分布を克明に調べられ、パンデミックに対峙するためのコモンセンスを確立された方です。しかしそのコモンセンスはスペイン風邪終息とともに一般からは忘れ去られてしまいました。速水さんは新型コロナが流行する直前の2019年に他界されましたが、生前は、新型インフルエンザが発生するたびに「パンデミックは必ず来る」、「スペイン・インフルエンザから何も学んでこなかったこと自体を教訓とし、過去の歴史を知ることから始めなければならない」と警鐘を鳴らしていました。そのコモンセンスを引き継いだ一人がNHKのテレビ番組にもよく登場する歴史学者の磯田道史さんです。磯田さんは学生時代に速水教授のスペイン風邪に関連する研究に参加されました。その経験を活かして、2020年の新型コロナパンデミックが始まるやいなや、「世間が思っているよりも、この事態が長引く可能性がある、ウイルスは変異して波状的にわれわれを襲ってくるのが過去のパターン」と、そのころの世間の楽観論を否定しました。まだ日本に第一波も来ていないときだったので、「変異して、波状的に襲ってくる」という意味が感覚的にわからなかったのですが、今は皆が知る通りです。パンデミックは100年に一度起きるかどうかなので、歴史学者や公衆衛生学者しか見ていない遠い視野で眺めていないと得られないコモンセンスがあり、世間一般には忘れ去られた過去の教訓を、未来においてコモンセンスとして提示してくれるのが歴史学者や公衆衛生学者なのです。

三つ目は海外の例です。25年前の1998年、アメリカのシリコンバレーでGoogleという会社が産声をあげました。Webページを作り、誰にでも無料で検索をさせるのですから、一体どうやって企業としての利益につながるのか、一般には理解されていませんでした。無料で検索してもらうことでデータを集める、無料でYouTube動画をアップしてもらうことでデータを集める。そのプラットフォームによって莫大な広告収入を得て、ビッグデータビジネスを展開するという、新しいビジネスモデルを確立し、それが現在のコモンセンスとなりました。ところが、25年前にインターネットを活用するGoogleが産声を上げたとき、日本ではどうだったでしょう。もちろんインターネット活用の動きもあったのですが、一方で、放送局の集まりによる電波塔の建設計画が議論されていました。テレビ電波塔の東京タワーが超高層ビルに囲まれるようになり、電波が届きにくい場所が増えたからです。それが結果として、世界一高いタワーとしてギネスブックにも掲載された東京スカイツリーの建設につながりました。災害時などを考えると、テレビやラジオの信頼できる送信アンテナがあるのはよいことなのですが、25年前に「これからはインターネット」とGoogleが産声を上げたときに、「世界一高いテレビ塔を建てよう」と日本が盛り上がったことはいかにも対照的だと思います。

以上、未来のコモンセンスを作った研究やビジネスの例をお話しましたが、これからの研究、これからのビジネス、これからの社会、すなわちこれからのコモンセンスを作っていくために不可欠なのが説得力のあるストーリー、良い物語を語る力です。自動車のネットカーボンゼロを達成するために電気自動車へのシフトが進んでいますが、例えばトヨタは、ガソリン車から電気自動車への移行において、プラグインハイブリッドすなわち小さいバッテリーを積んで電池が続く限りは電気で走り、バッテリー切れになったらガソリンで走る方式が、特に1日の走行距離が少ないドライバーにとっては有効なことを示しています。一度に200km以上走れる大きなバッテリーをつんだ電気自動車で毎日10kmしか走らないとしたら、その大きなバッテリーを作るために使った電力や希少金属の採掘・精錬といった地球環境破壊の分を取り返せないからです。しかし、ヨーロッパでは2035年以降はガソリン・ディーゼル新車販売禁止を含む包括的排出量削減案を議論しています。2035年にはすべて電気や水素自動車にするのか?それともプラグインハイブリッドといった移行手段も入れ込むのか?「地球環境のためには電気自動車」というストーリーに対して、トヨタは理屈で勝負するのですが、どちらが一般市民に伝わるかの勝負です。良い車を作れば売れる、もっと言えば、良いものさえ作れれば売れるという時代は終わったのです。まずは、よいストーリー、よいコトを語り、そのために必要なモノを作る必要があります。魅力的なストーリーを語り、それを社会のコモンセンスとして定着させたうえで、そのストーリーに沿ったものを作るというビジネスが必須な時代なのです。研究でも同じです。福澤先生のおっしゃる演説が大切ということです。

つまり、これからは、文学や演劇も含めた人文学や、社会システムを創造するという観点から社会科学といった学問が極めて大切になり、ストーリーに基づく人間同士のコミュニケーションを、日本語のみでなく、英語に代表されるグローバルな言語で進めていく協調性が必要となっているのです。

よって本日、学位を取得される皆さんへの私の期待は、「将来のコモンセンスを作る人になっていってほしい」、そして、そのためには「人々の心に響くストーリーを語っていってほしい」ということです。この努力をとおして皆さんが世界の舞台で、社会の発展に寄与されることを願っています。学位取得おめでとうございます。

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