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2020年度9月大学学部卒業式 式辞

2020年9月18日

慶應義塾長 長谷山 彰

卒業生の皆さんご卒業おめでとうございます。ご家族の皆様にも心からお慶びを申し上げます。また、これまで卒業生を指導し、見守ってくださった教職員の皆様にもこの場をお借りして厚く御礼を申し上げます。

慶應義塾大学は、この春、新型コロナウイルス感染症の影響で、卒業式や関連行事を中止ないし延期といたしました。

9月の卒業式は卒業生や関係者が一堂に会して式典を開催できるよう感染症の収束を期待していましたが、依然として先行きは不透明です。感染防止と参加者の安全を優先して、やむなく再び式典の中止を決定し、動画配信の形で、卒業生の晴れの門出を祝うことにいたしました。

卒業生やご家族の皆様におかれてはさぞ残念なことと思いますが、義塾としても苦渋の決断であったことをご理解頂ければ幸いです。

今年の夏は東京オリンピック・パラリンピックが開催されて、世界中からアスリートが集まるはずでしたが、これも延期となりました。9月初めの段階で、世界の感染者数は2700万人を超え、オリンピックの五輪マークが象徴する五大陸に感染症が蔓延しています。

慶應義塾も春学期には政府の緊急事態宣言を受けてキャンパスを閉鎖し、授業はすべてオンライン授業に切り替えました。皆さんが慶應義塾で学ぶ最後の学期にこのような事態になったことは本当に残念ですが、制約の多い不自由な状況の中で、皆さんが、学問の継続に努力されたことに心から敬意を表します。

どうかこの困難を乗り越えて、卒業後は、お元気でそれぞれの道を進んでください。「災い転じて福となす」という言葉があります。皆さんがこの苦しい経験から何事かを学んで今後の人生に活かしてくださることを切に望んでいます。

春学期に、皆さんは、教室での学びとはまた違った学問の機会を得たはずです。オンライン型にしろ、対面型にしろ、大学での学習は知識の習得にとどまりません。

学問の本質は知識を獲得し、その知識を活用して、実証的に物事の本質を考え、確かな結論を導き出すところにあります。そのような学問を慶應義塾では「実学」と呼んでいます。

今、私は三田キャンパスにある演説館から皆さんにお話ししています。

明治8年に開館した演説館は、三田キャンパスの中で最古の建物であり、また、日本最初の演説用の施設でもあります。19世紀半ばに福澤諭吉は2回にわたってアメリカを訪問し、フリースピーチこそが民主政治の基礎であると考え、自由な言論の場として演説館を創設しました。

福澤は、公の場で自分の意見を述べる習慣を持たなかった日本人に対して、演説を奨励し、自らも熱心に演説の手本を示しました。そして、演説と並んでディベイト(議論)を義塾の授業に取り入れました。人々がそれぞれ自分の意見を発表し、議論を重ねることで真実の発見に近づくと考えたからです。

福澤はまた、封建制の名残で人々が、事に当たって、上からの指示を待ち、命令に従順であることを憂い、学問を修め、世の中の流行に惑わされず、自分自身の人生や社会の進むべき方向を考える独立自尊の精神を持った人材の育成に努めました。

そして、その学問はすべて実学であるべしと唱えています。江戸時代には、読み書き算盤を一通り習えば、それで何とか職業に就き生計を立てることができたので、福澤のいう実学は職業に直結する学問だと誤解されることもありました。しかし、福澤はさらに進んで『福翁百話』の中で、実学とは、「唯事物の真理原則を明(あきらか)にしてその応用の法を説くのみ」と記しています。人文科学であれ、社会科学・自然科学であれ、単なる思いつきではなく、事実を丹念に分析し、根拠に基づいて、実証的に結論を導き出してゆくことこそ、実学の真髄といえます。

変化の激しい時代には、一生の間に、想定外の事態が何度も起こります。その時にこそ、根拠のない妄説に飛びつくことなく、学問の力によって事態の本質を見抜き、正しい道を選択することが生き延びる道です。

このコロナ禍のなかで、私達は人間の美しい心や醜い姿を見せられました。歴史上、人類は中世ヨーロッパのペスト、16世紀の南北アメリカでの天然痘、20世紀初頭のスペイン風邪の流行など過去に何度か大規模な感染症の流行を体験しましたが、今回の新型コロナウイルス感染症の流行には過去と大きく異なる点があります。

一つはグローバル化の中で、人々の広範囲な移動が感染症の短期間での急速な蔓延を導き出したと思われることです。

もう一つは、テクノロジーの発達、特にICTによって、感染症に関する情報がほぼリアルタイムで世界中に伝達されていることです。新型コロナウイルス感染症と闘う医療現場の様子や、街のロックダウンによって、人々が分断され孤立する姿が世界中に発信されています。そしてまた、分断され孤立した人々がインターネットによって再びつながり、新しい絆を作ろうとする動きも広がっています。世界中のアーティストやアスリートが人々に癒しと希望を与える動画を発信しています。大人も子供も多くの市民が料理や工作、ダンス、楽器演奏などのパフォーマンスを公開しています。

慶應義塾でも、医学部生が作成した詳細な感染防止マニュアルを全塾協議会の塾生が全塾生に配信する取り組みを行ったり、キャンパスでの七夕祭が中止になったSFCでは塾生が先端技術を駆使してバーチャル七夕祭を実現し、テレビ番組でも紹介されました。

他方で、制約の多い日常生活の中で、デマに惑わされたり、精神的に追い詰められた人々が差別的言動や暴力に走る様子も映像で流れています。

このコロナ禍の中で感染症にまつわる根拠のない情報がインターネットを通じて世界中に氾濫し、人々の不安をあおりました。多くの情報の中から、正しい情報を見分けることが必要であり、感染症の拡大を防ぎ、社会の安定を維持するためには結局のところ、市民一人一人の自覚と良識に基づく行動が大切です。

福澤が理想とした独立自尊の精神を備えた人材、すなわち他者の指示や命令を待つのではなく、自ら考え自らの責任で主体的に行動できる市民の存在は、一国の成熟度を測る物差しでもあります。慶應義塾に学んだ卒業生の皆さんは、ぜひこのことを記憶にとどめてください。

それでは、皆さんが、独立自尊の精神を忘れず、創意と工夫によって困難を乗り越え、豊かな人生を送られることをお祈りして、私のお祝いの言葉といたします。ご卒業おめでとう。

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