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2019年度大学院学位記授与式塾長式辞

2020年3月26日

慶應義塾長 長谷山 彰

本日学位を取得された皆さんおめでとうございます。ご家族やご関係の皆様にも心からお慶びを申し上げます。またこの場をお借りして、大学院生を指導し、支援してくださった教職員の皆様にも厚く御礼を申し上げます。

先にお知らせしたとおり、慶應義塾大学は、新型コロナウイルス感染症が拡大する状況の中で、参加予定の方々の健康と安全、感染拡大防止を最優先に考えて、やむなく学位授与式の中止を決定いたしました。

関係者全員が一堂に会して祝うことができないのは大変残念です。そこで、式典に代わって慶應義塾公式ウェブサイトから動画配信する形で皆さんの晴れの門出を祝うことにした次第です。

現在、新型コロナウイルス感染症は世界に拡大し、WHOがパンデミックと認定する段階に入っています。多くの国で入国制限や外出禁止などの措置が始まって、今や南極大陸を除き世界が鎖国に向かっているとまでいわれている状況です。奇しくも3月24日、IOCと東京都、日本政府、大会組織委員会は2020年東京オリンピック・パラリンピックの延期を決めました。五大陸の輪をかたどった五輪旗に象徴されるオリンピックが、五大陸を席巻する感染症に翻弄された形です。

ここまで急速に感染症が蔓延した理由は色々でしょうが、その要因の一つにグローバル化の進行があることは否定できません。21世紀に入って一段と加速したグローバル化は、人、物、金が国境や地域を越えて流動する現象、そしてボーダレス化と言い換えられることもありました。

ボーダレス化を促進した要因の一つは情報通信技術ICTの発達であり、ほかにもAIやIoTなどテクノロジーの進歩が関係しています。今や、仮想のサイバー空間が現実のフィジカル空間よりも巨大化しているのではないかと感じられるほどです。

グローバル化の波は大学にも押し寄せています。

EU内での学生の流動推進を目的としたエラスムス計画は、その発想を世界にまで広げるエラスムス・ムンドゥスへと発展し、ボローニャ・プロセスでは世界が同一の基準によって、教育研究の水準を高めることで、学生や研究人材、資金の流動が可能になると説明されました。近年は、世界中の大学が優秀な学生や研究者の獲得に力を入れると同時に、大学間の教育・研究の連携が進み、さらにはこれまでの学問分野を超えた新しい融合的な研究分野が創出されています。

しかし、グローバリゼーションはまた、反グローバリゼーションの動きと表裏一体をなしています。

グローバル化が進めば、共通ルールによる自由で公正な競争が経済発展を促進し、世界から飢餓や貧困が消滅するという期待があった一方、グローバル経済が新たな貧困と格差を生むという批判もあり、イギリスのEUからの離脱、自国の利益を優先する保護主義の台頭、気候変動に対処する国際協調のほころびなど、グローバル化とは相反する動きが続いています。

AI、IoT、ロボティクスなどテクノロジーの急速な進歩が、かえって人類の脅威になるのではないかという不安の声も聞こえてきます。

そして今回の新型ウイルスの感染症拡大によって、人類は感染症には国境がないことを思い知らされました。新型コロナウイルスの蔓延は人々が国境を越えて流動するグローバル化の一面を如実に伝えています。

かつて、SARSなどの新型ウイルスによる感染症が世界中の話題になったことは過去にもありましたが、20世紀半ば以降、基本的に感染の拡大は一国規模か、地域の中にとどまっていました。今回の新型コロナウイルスによる世界的な感染症の拡大は、14世紀から16世紀のヨーロッパ、アジアにおけるペストの流行に匹敵する出来事です。

ペストについては未だに有効なワクチンが開発されていませんが、それでも防疫体制の整備や衛生思想の普及で19世紀以降、世界的な流行は抑制されています。

医療が進歩し、防疫体制や衛生状態の改善が進んだにもかかわらず、現在、新型コロナウイルス感染症が世界中に蔓延しているのは、人々が日常、広範囲に世界中を移動していることが一因であることは否定できません。

従って、感染症との闘いにも国境や地域を越えた世界的な協力が必要であることは明白です。すでに、WHOの活動に加えて、政府間の協力、医療支援の動きが始まっていますが、過去の感染症流行時と異なるのは、情報通信手段の発達によって世界中の市民が直接情報を発信し、共有できるようになっていることです。

SNSを通じて、政府の公式発表よりも早く、医療現場や市民の体験がリアルタイムで世界に伝わっています。感染症の治療法研究の上でも、世界中の研究者同士が直接専門的な意見交換を行っています。

他方で、同じくSNSを通じて広範囲に伝わる誤った情報によって、社会がパニック状態に陥る事態も生じています。何が正しい情報かを見抜き、自らの判断で適切に行動することが市民に要求されています。

特に大学院で学び、高度な専門知識と研究力を身につけた人材に寄せられる期待は大きいと思います。

皆さんの学んだ学問分野は多岐にわたりますが、学問の方法は同じです。まず課題の本質を洞察し、仮説を立て、証拠に基づいて実証的に結論を導き出す方法論です。

感染症拡大に対して、医療、看護、創薬など治療に直接関係する分野だけではなく、労働負担の増大、雇用の減少、経済活動への影響、法制度の整備、市民の不安を鎮める心身のケア、学校教育への影響などさまざまな課題について、専門分野を横断した解決策が必要になります。課題は多様であっても解決策を模索するうえで必要なのは、全ての学問に共通する方法論です。

この、学問によって社会的課題を解決する姿勢は、慶應義塾の実学の伝統に通じます。福澤諭吉は、江戸時代の封建的秩序の維持を目的とする儒学の伝統を批判し、西欧の合理精神に基づく実学の必要性を説きました。『福翁百話』の中で、実学とは、「唯事物の真理原則を明(あきらか)にしてその応用の法を説くのみ」と説明しています。人文学であれ科学であれ、資料やデータを丹念に分析し、根拠に基づいて、実証的に結論を導き出してゆくことこそ、実学の真髄といえます。

さらに付け加えるならば、こうした学問の方法論を支えているのは知的好奇心に裏付けられた深い思索の体験です。これこそが物事の本質を洞察し、課題を解決する道に通じます。

現在、感染症の世界的流行の影響は大学にも及んでいます。渡航制限や移動制限は世界の大学相互の留学生の往来を困難にしています。慶應義塾も今年、春学期の交換留学生の受け入れを停止せざるを得ませんでした。

大学院で学んだ皆さんも、次々と予想外の事態が起こる中で、落ち着いて学問に打ち込むことが難しく、今後の研究活動、社会活動にも影響が出てくるかもしれません。

しかし、そのような状況の中でこそ焦らず、日々の生活の中で学問的思索の時間を生み出す努力をしてください。

17世紀半ばにロンドンでペストが大流行した際には、人が多く集まる大学が閉鎖され学生は疎開させられました。当時ケンブリッジ大学で学位を得た直後で、生活のために大学で雑用に従事していたアイザック・ニュートンも故郷に疎開しました。興味深いのは、のちの微分積分学や、プリズムでの分光の実験、万有引力の法則に至る着想など、「ニュートンの三大業績」はいずれもこの疎開期間中に成されていることです。大学から離れた不利な状況にあって、学問の停滞を嘆くのではなく、与えられた時間を深い学問的思索の機会にあてた結果といえます。

社会が混乱状況に陥っているときこそ、誤った情報に惑わされることなく、いったん立ち止まり、深く考え抜いてから、適切に行動する姿勢が必要です。

これからの人生の中で、皆さんは何度も予想外の事態に遭遇すると思います。その時において、世の中の流行や他人の言説に惑わされず、物事の本質を見極め、自らの責任で判断し、行動してください。福澤の唱える実学とはまさにこのことであり、皆さんが大学院で学んできたことに通じます。大学や研究機関に限らず、社会のさまざまな分野でこの実学の精神によって、新しい課題の解決に力を尽くしてくださるようお願いします。

皆さんが、学問を修め、学問によって世に立ち、学問によって社会に貢献することこそ、慶應義塾が皆さんに望むところです。どうか、義塾で学んだことを生かし、世の中に貢献すると同時に、慶應義塾の自由な気風の中で学問に打ち込んだ体験を忘れないでください。慶應義塾で学んだ思い出は皆さんの人生をきっと豊かなものとしてくれると信じます。

それでは皆さんが、これからさまざまな立場で学問を発展させ、活躍されることをお祈りして、私の式辞といたします。おめでとうございます。

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