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2019年度大学入学式式辞

2019年4月1日

慶應義塾長 長谷山 彰

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。ご家族、ご関係の皆様にも心からお祝いを申し上げます。

最初に、皆さんがこれから学ぶ慶應義塾の気風について少しお話ししたいと思います。

まず、ステージ右手に掲げた肖像画をご覧ください。これは慶應義塾の創立者である福澤諭吉を描いたものです。この腕組みをしたポーズは福澤が演説をしている姿を描いたものと言われていますが、袴を着けていないことに注目してください。

福澤諭吉の写真は、幕末にヨーロッパ訪問中に撮影した、羽織袴で帯刀した姿のものが何枚か残されていますが、明治以降は公式の行事でも袴を着けた写真は見当たりません。初期の慶應義塾の卒業式で撮影された、福澤と門下生たちとの記念写真はかなりの数が残されていますが、やはり袴を着けていません。

私はそこに、明治政府が国家機構の整備による「官」主導の近代化をめざしたことに対して、自立した市民の育成こそが真の近代化につながると主張した、啓蒙思想家福澤諭吉のこだわりを感じます。

下級武士の子に生まれ、封建的な身分制度の打破をめざした福澤は、明治政府に請われても政府の要職に就くこともなく、勲章の授与も断り続けて、民間人であることを貫きました。

翻って、現在においては、欧米の伝統ある大学では式典の際に大学関係者が色とりどりのガウンを着用し、日本でもそれをまねる大学が見られます。しかし、オックスフォード大学のように1000年近い伝統を持つ大学では、ガウンはカレッジごと、あるいは博士の称号の有無、教授、准教授、講師などの職位によって細かに色やデザインが違い、長い年月をかけて定着したそれぞれのガウンは、大学における秩序と権威を象徴するものになっています。

慶應義塾では儀式においてガウンを着用する慣習がありません。大学や学問を権威で飾ることなく、同時に、そのことを規則で定めるのではなく、さりげなく気風として受け継ぐというのが慶應義塾の伝統です。そしてまた自分はあえてガウンを着用したいという者がいてもそれを咎めだてすることもないのが義塾の気風です。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」。『学問のすゝめ』冒頭の言葉は、教科書でもお馴染みですが、このような福澤の平等思想は、世間体や社会常識にとらわれず、自分のやりたいこと、誰もが考え付かなかった新しいことに挑戦する姿勢にも通じます。

ここで、最近の出来事を一つご紹介したいと思います。2月4日にドイツのメルケル首相が来日しましたが、皇居訪問や安倍総理との会談など過密なスケジュールの合間を縫って、2月5日に三田キャンパスを訪れ、「メルケル首相、塾生と語る」という企画で、1時間にわたり大勢の学部生、大学院生、留学生と質疑応答を交わしました。

首相の発言の中で私の印象に残ったのは、チャンスが目の前に来たら迷わず飛びつけというアドバイスです。これこそ慶應義塾が社会のさまざまな分野をリードする人材を育成してきた伝統に一致します。

福澤諭吉は1860(万延元)年、数え年27歳の時に、咸臨丸に乗ってアメリカへ渡りますが、そのとき、つてを頼って軍艦奉行木村摂津守に依頼し、従僕の身分でよければ乗せようと言われます。福澤は一向に構わないからお願いしたいと即座に承諾してアメリカ行きを実現させました。

このような福澤の合理的な進取の精神をよく体現した人物に、釈宗演という禅僧がいます。釈宗演は明治初期に臨済宗の禅を学び、若くして鎌倉円覚寺の管長となりました。宗演の下で参禅した夏目漱石は、その体験を近代知識人の苦悩を描く「行人」や「門」の執筆に活かしました。禅を世界に広めた鈴木大拙も宗演の弟子です。

実は釈宗演は既に禅僧として一家を成したあと、師匠の反対を押し切って、慶應義塾に入学し、福澤諭吉から英学を学んでいます。偶然にも、福澤がアメリカに渡ったときと同じ27歳でした。

2018年の夏、三田キャンパスで「釈宗演と近代日本-若き禅僧、世界を駆ける-」という特別展が開催され、福澤と釈宗演の関係、慶應義塾で学んだ釈宗演の国際性豊かな活動の実態が改めて浮き彫りになりました。宗演は慶應義塾で学んだ後、福澤の理解と支援を得て仏教の本源を学ぶためにセイロン、タイを訪ね、1893(明治26)年にシカゴで開催された第1回万国宗教会議にも参加して、初めて禅の思想を世界に紹介しました。

英語演説の題名は「Arbitration Instead of War(戦ふに代ふるに和を以てす)」であり、人類の真理について語り、「戦争を避けるために宗教が果たすべき役割を問う。人類愛の実現は宗教の義務であり、我々はその中心になろう」と呼びかけました。宗演がシカゴに出発する際、福澤は署名入りの写真を送って激励しています。

異例の若さで禅の修行を成就し、印可を受けて一寺の住職となっていながら、英学を学び、海外に渡った釈宗演は、アジアの植民地の実情を目撃して衝撃を受け、富国強兵を進める日本の近代化の矛盾を見抜いて、そのことに悩みながらも、国際人として世界における仏教の役割を考え続けました。その姿は福澤諭吉がめざした人材育成の一つの理想像といえます。

慶應義塾は創立以来、学問を修め、経済的に自立し、世の中の流行に惑わされることなく、自分自身の人生や社会の進むべき方向を考える独立自尊の精神を持つ人材の育成に努めてきました。

人の指示によるのではなく、自分自身で進むべき道を見つけ、困難に遭遇しても創意工夫によって乗り越え、目標に向かって進んでいく。これこそが、慶應義塾で学ぶ者のとるべき道であり、慶應義塾は社会のあらゆる分野に独立自尊の精神を持つ人材を送り出してきました。

入学手続きの際に皆さんのお手元に学内誌の『塾』の抜刷りをお届けしました。『塾』は小学校から大学までの塾生の保護者、保証人に年4回お渡ししている、義塾の近況をお知らせする冊子ですが、その中に各界で活躍する卒業生を紹介する「塾員山脈」というコーナーがあります。今回は過去5年の塾員山脈の抜粋をまとめました。

女性では、法曹有資格者として最高裁初の女性判事、国連大学初代事務局長、理工学部卒でドイツの交響楽団首席トロンボーン奏者、気象予報士キャスターがいます。そのほか、ドイツで学んだ「食べ物も、エネルギーも生み出す」農業を活かして世界農業遺産、阿蘇の景観を守る夫婦、美術館館長、競技かるたに没頭する少女の青春を描いた映画「ちはやふる」の監督、クマタカで狩りをする日本最後の鷹匠まで20人をとりあげています。

実にさまざまな分野で活躍している卒業生がいることに気づかれたことと思います。それぞれの卒業生が、慶應義塾で学んだことをどのように活かして、社会人として成長し活躍しているかが語られています。ぜひ目を通してみてください。

もちろん、このほかにも、慶應義塾は政界、官界、学界、文学、音楽、演劇、美術など芸術界、スポーツ界とあらゆる分野に人材を輩出してきました。

よく財界の慶應と言われますが、2013年のTHE(Times Higher Education)による世界の大学ランキングで、慶應義塾は世界的な大企業のトップ輩出数で世界第9位の評価を受けました。そのほかにも、司法試験では2016年度、2017年度連続で合格者数第1位、2013年には、他大学が成し遂げたことのない合格者数と合格率の両方で日本一を達成しました。公認会計士試験合格者数では44年連続日本一を続けています。

他方で、スポーツの世界においても昨年のアジア大会では塾生・塾員が金メダルだけでも5個を獲得する活躍を見せました。

来年、2020年は2度目の東京オリンピックが開かれますが、慶應義塾からはこれまで延べ130人を超えるオリンピック・パラリンピックの選手が出場しています。特に、1920(大正9)年のアントワープ大会では、義塾の熊谷一弥選手がテニスのシングルスとダブルスの両方で銀メダルを獲得しました。これは日本人のオリンピックメダル獲得第1号でした。

数字に表れる成果に限っても、慶應義塾の塾生、塾員が文字通り文武両道の活躍を示してきたことがよくわかります。

そうした多くの卒業生の代表として、今日この場には今年卒業50年を迎える1969年卒業の110年三田会の皆さんが参列してくださっています。慶應義塾では卒業式には卒業25年、入学式には卒業50年の塾員を招待して、後輩の前途を祝っていただくのが慣例です。

福澤諭吉は「世の中に最も大切なるものは人と人との交り付合なり。これ即ち一つの学問なり」という言葉を残していますが、このように塾生と塾員、教職員からなる義塾社中の協力こそが慶應義塾の存続基盤です。

新入生の皆さんにとって、先輩に見守られたこの横浜での式典は前途に明るい希望をもたらしてくれると信じます。

結びにあたり、入学に際して私が皆さんに望むことはただ一つです。それは、学業であれ、文化活動、社会活動、スポーツであれ、学生生活の中で自らの判断と責任で目標を見つけ、目標に向かって努力し、目標を達成してほしいということです。

これから皆さんが慶應義塾の自由でおおらかな気風の中で、楽しく充実した学生生活を送られることをお祈りして、私の式辞といたします。

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