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第184回福澤先生誕生記念会年頭の挨拶
「人生100年時代を生きる」

2019年1月10日

慶應義塾長 長谷山 彰

福澤諭吉・北里柴三郎の夢の実現

あけましておめでとうございます。皆様とご一緒に第184回目の福澤先生のお誕生日を祝う機会を持てたこと、心から嬉しくまた光栄に思います。

昨年は、医学部開設100年記念事業の柱である新病院棟が開院しました。また大正7年に開設された看護婦養成所に原点をもつ、看護医療学部が慶應看護100年を祝いましたし、さらには義塾創立150年の際に共立薬科大学との合併によって誕生した薬学部も開設10周年を祝っています。

世に福澤諭吉の3大事業として、慶應義塾の創立、「時事新報」の発刊、交詢社の設立があげられますが、もう1つ忘れてはならないのが医学への強い関心、病院建設への意欲です。福澤諭吉は若き日に大坂の緒方洪庵の適塾でオランダ医学を学びました。洪庵は、大坂でコレラが流行した際には、治療に奔走し、『虎狼痢治準』を著して治療法の普及に努めるなど町医者として医療に力を尽くしました。その恩師の姿を見たことが、初期の慶應義塾に医学所を設けたり、慶應義塾の教育において塾生の心身の健康を重視したことに影響していると思います。医学所は諸般の事情で短期間で閉鎖せざるを得ませんでしたが、福澤諭吉を師と仰ぎ、その想いを受け継いだ北里柴三郎の献身的な努力によって大正6年に医学部が開設されました。

そして医学部開設にあたっては、医学科と並んで化学科も設置されましたが、その目的の1つは将来の薬学科の開設に備えることでした。従って、現在における医学部・看護医療学部・薬学部のそろい踏みは福澤諭吉・北里柴三郎の夢の実現と言っても過言ではありません。

医療系3学部の連携によって、新病院棟を核に、北里柴三郎が唱えた基礎臨床一体型の国際的な医療拠点が実現すること、また3学部合同の臨床実習の充実などによって世界をリードする医療人の育成が進むことを期待しています。

人生100年時代とテクノロジーの進歩

ところで、一昨年、政府は人生100年時代構想会議を設置しましたが、そのきっかけの1つはロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン、アンドリュー・スコット両教授の著書『LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略』の中で、2007年に生まれた日本人の半分が107歳まで生きる可能性があると指摘されたことでした。それ以来、人生100年時代というキーワードがしばしば使われています。確かに、100歳以上の人口が飛躍的に増えていることをみれば2007年生まれの若い人のみならず、現在のシニア世代の多くも100歳を超える人生を送るだろうという予感がします。本日この会場にいらっしゃる、私よりも遥かにお元気そうで顔色の良い先輩の皆さんを拝見するとその思いは強くなる一方です。

政府が人生100年時代への対応を真剣に考える理由の1つには、健康長寿社会を実現することで社会保障費の伸びを抑えるという財政的観点もあると思いますが、大学の立場から言えば、医療を中心とした狭い意味の社会保障費を抑えれば、教育に投入する国費が増加するという見方もできます。今年は消費税の引き上げが予定されていますが、消費税増税による税収の使途について社会保障費に限定すべきか、教育の無償化にも投入すべきか、政府部内や国会で激しい議論があったのはまさにそうした視点によるものでした。

今後、AIやIoT、ロボティクスなどテクノロジーが急速に進歩する中で、医療データの解析や遠隔診療の分野も大きく進歩すると予想されますが、他方で、「AIがこのまま進歩を続けてゆけば、人類が脅かされるのではないか」という不安の声も聞こえてきます。確かに、監視カメラに映った膨大な顔写真のデータを瞬時に解析して犯罪者を特定したり、蓄積された患者データから特定の患者の病理を診断できるAIの能力は、そのまま進んでいけば、犯罪因子や病気因子を内包する個人を特定して、あらかじめ対策を実施するという映画で見たような政策を誘引する可能生もはらんでいます。AIの判断は解析の過程や根拠がブラックボックスになっていますから、過度の使用は市民の人権を侵害する危険もないとは言えません。

そこで、透明性と公平性を担保するための法的規制の制定、テクノロジーの使用における倫理的な側面の検討などが必要になるわけでして、それこそが大学の使命であると言えます。すでに世界の大学はその課題解決に向けて英知を結集すべく動き出していて、1月にダボスで開かれるGULF(世界大学長会議)やAPRU(環太平洋大学協会)における世界の大学長らの集まりで議題に取り上げられる予定です。

ただし、テクノロジーの進歩をむやみに脅威ととらえるのではなく、人類とテクノロジーの調和を図り、人類の幸福を実現する道を模索することが大学の使命であり、特に、人文学と科学の両分野の学問的伝統を持つ総合大学、つまりは慶應義塾大学のような大学の使命であると言えます。

昨年、信濃町の慶應義塾大学病院は、内閣府による戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)でAIホスピタルモデル病院として採択されました。竹内勤前病院長(現信濃町キャンパス担当常任理事)の努力で設立された、慶應義塾大学メディカルAIセンターを発展させたもので、このプログラムについて北川雄光病院長は、「医療そのものをロボットに任せるものではなく、医療者の負担を軽減し、医療者が患者さんに接する機会を増やして、患者さんにとってより温かみを感じることのできる、安心安全かつ高度で先進的な医療の提供を目指すものだ」と説明しています。

また伝統的な学問分野と新しい学問分野の連携、分野融合的な研究の必要性も増しています。その点では、複雑化する社会システムを研究するSDM(大学院システムデザイン・マネジメント研究科)、デジタルメディア分野における「メディア・イノベータ」を育成するKMD(大学院メディアデザイン研究科)という義塾の2つの独立大学院が昨年、開設10年を祝い、更なる発展を目指していることは意義深いことと思います。21世紀の社会が抱えるさまざまな課題の解決に、新しい学問分野が持つ分野融合的な斬新な発想で貢献してくれることを期待しています。

分野横断、分野融合的研究と言えば、現在、義塾が進めているKGRI(Keio Global Research Institute)の充実拡大の努力についてもご紹介しておきたいと思います。2014年度から始まったスーパーグローバル大学創成支援(SG)事業の柱として、長寿・安全・創造の3クラスターのなかに分野横断・融合型の研究を統合し、先端的な研究成果を発信する試みが進んでいますが、その統合機関であるKGRIをより実質的なものにして、義塾の研究力の向上を実現する本格的な研究所に育てるために、今後、場所の確保、資金の獲得、人材の招聘をいっそう進めていきたいと考えています。

昨年7月には、KGRIの傘下にCyber Civilization Research Center(サイバー文明研究センター)を設置して、サイバーセキュリティ分野で世界的に著名な研究者であるディビッド・ファーバー(David Farber)博士を村井純政策・メディア研究科委員長と並ぶ共同センター長にお迎えしました。

最近、大きく変貌する社会状況について、日本ではSociety 5.0という表現がしばしば使われています。Society 5.0とは、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)と説明されています。また5.0は、狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)の次に来る画期ということだそうです。

サイバー文明研究センターは、まさにそのような時代状況に対応して、広くサイバー空間で起こるさまざまな課題について、自然科学・人文科学・社会科学とあらゆる学問分野の知識、方法論を駆使して、文明論的な研究を推進する研究所です。

このたび、ファーバー博士がAAAS:American Association for the Advancement of Science(アメリカ科学振興協会:Scienceの出版元)の2018年のElected Fellowsに選ばれました。その分野ではノーベル賞に準ずる名誉な選抜で、ファーバー博士が所属を慶應義塾として下さったので、AAASのプレスリリースやホームページには所属先として慶應義塾が大きく出ています。海外の優れた研究者招聘のモデルケースとなる出来事ですし、これをきっかけに海外の若手研究者が慶應をめざしてきてくれることを期待しています。

必要となるリカレント教育

さて、健康長寿社会の実現と並ぶ人生100年時代のもう1つの課題は、これも最近強調されるリカレント教育です。長い人生の中で、急速に変化する社会に適応できる能力をどのようにして身に付けるか。例えば、縄文時代は狩猟技術を身に付ければ何とか生きていくことができました。弥生時代には稲作技術、江戸時代には読み書き算盤、産業革命後ですら1つ手に職を持てば生きていくことができました。しかし、Society 5.0の時代にはそうはいきません。大学で学んだ1つの分野の専門では対応できない事態が生じています。そこで学び直しが必要になるわけですが、しかし、算盤が計算機、エクセルになり、筆がペンからワープロ、パソコンに変わったからと言って、その都度学校に入って学び直すのは現実的ではありません。

外国語の習得にしても、実は世界には数え方によって3000とか5000とかの言語があると言われています。グローバル化の時代では英語だと、一生懸命英語を習得したけれども、仕事で海外に赴任してみたら、英語が通じない地域だったということも十分あり得ます。その時に、日本に戻って学校に入り直している時間はありません。必要なのは、英語を学んだ経験を応用して、独学でも短期間に一定の水準まで新しい言語を習得できる対応力を養うことです。

要するに技術の変化や異文化との遭遇に対して、柔軟に対応できる知性と感性が必要であって、リカレント教育の最終目標は、技術を学ぶのではなく、物事の本質を見抜く力を養うことにあると思います。そのような力は人間固有の力で、教養教育という名目で大学が長い伝統をもって育成を続けてきたことでもあります。

中世のリベラルアーツ(Liberal arts)は文法学、修辞学、論理学の3学および算術、幾何、天文学、音楽の4科からなって、自由7科と呼ばれ、人間を解放し自由にする学問とみなされていました。テクノロジーが社会構造を根本的に変えてしまう時代にあってこそ、人間を中心に据えたリベラル・アーツの発想が必要です。

義塾も来年度からリカレント教育に特化した講座を開講いたします。慶應義塾大学の社会人向け講座、「三田オープンカレッジ」と銘打った講座の内容が、本日午前にホームページにアップされますので、ご覧いただければ幸いです。今後いろいろな形でご案内いたしますが、その内容はレクチャー形式とセミナー形式に分かれていて、異文化理解、医療関連、心理学、政治、経済、文学と多岐にわたっています。いずれも単なる知識・技術の習得を目的とするものではなく、深い専門性に裏付けられつつ、人が人らしく生きるための真の教養の涵養につながる科目です。

塾生・塾員の活躍

さて、ここで少し、昨年の塾生、塾員の活躍に目を向けてみたいと思います。まず、公認会計士試験で合格者数44年連続日本一という記録が更新されました。司法試験では残念ながら昨年は全国1位が途切れましたが、2013年には合格者数と合格率の両方で日本一という、他大学が記録したことのない成績を達成しています。昨年は法学部の1年生が司法試験最年少合格記録を更新したことも話題になりました。政界に目を向ければ、現在国会議員の数で第2位となっています。財界はどうかというと、2013年のTHE(タイムズ・ハイヤー・エデュケーション)大学ランキングで、世界的な大企業のトップ輩出数で世界第9位にランクされています。

スポーツでは、昨年の第18回アジア競技大会で塾生、塾員が活躍しました。金メダルに限っても、フェンシング女子フルーレ団体の宮脇花綸君、女子サッカーの籾木結花君、陸上200メートルの小池祐貴君、同4×100メートルリレーの山縣亮太君、そしてセーリングの土居愛実君がいます。野球では野球部が六大学野球リーグ戦で2017年秋と2018年春と2シーズン連続優勝を成し遂げました。これは1991年以来、実に27年ぶりのことで、27年前は現在の大久保秀昭監督が現役の選手で主将でした。そして昨年は慶應義塾高校が春夏連続甲子園出場を果たしました。昨年は塾高が開設70年を祝いましたので記念の年によく頑張ってくれたと思います。

ところで、塾高では昨年開設70年事業の1つとして本格的なホールや多目的教室を備えた新教育棟も完成して使用を開始しました。この4月には横浜初等部の最初の卒業生が湘南藤沢中等部へ進学します。それを見据えて湘南藤沢中等部・高等部では昨年夏、谷口吉生さんの設計による西校舎(体育館、多目的教室)が完成しました。

ここにご紹介したように、毎年、塾生、塾員の活躍には目覚ましいものがあります。これも慶應義塾創立以来の教育目標、すなわち学問を修め、経済的に自立し、世の中の流行に惑わされずに、主体的に自分自身や社会の進むべき方向を考える、独立自尊の人材を社会のあらゆる分野に送り出すという理念を守ってきた成果であると感じます。

小学校から大学・大学院までの一貫教育の向上、分野横断・文理融合型の研究の発展、産学連携事業の推進など、教学各部門の意欲的な試みを成功させ、学問を通じて社会に貢献できるよう、義塾法人も全力を挙げて支援体制を整えますので、今年も、慶應義塾に対して、皆様のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。

特に塾生の日常的な学習活動、教員の教育研究の基盤となる、福澤諭吉記念慶應義塾学事振興基金、小泉信三記念慶應義塾学事振興基金の倍増をめざす活動を昨年春に開始し、昨年秋から本格的にキャンペーンを展開していますが、すでに多くの皆様から多額のご支援を頂戴しています。この場をお借りして御礼を申し上げますと同時に、この先もキャンペーンは続きますのでどうぞよろしくお願いいたします。

さて、本日は福澤先生の誕生記念会ということで、この後、福澤研究センター所長、文学部教授の井奥成彦さんのご講演が控えておりますので、前座の私はそろそろ降壇することにいたしまして、今年1年、皆様のご健勝とご活躍をお祈りしつつ私のご挨拶と致します。ご清聴ありがとうございました。

(本稿は2019年1月10日に開催された第184回福澤先生誕生記念会における長谷山塾長の年頭挨拶をもとに構成したものである)

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