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第183回福澤先生誕生記念会年頭の挨拶
「人材育成を使命とする学塾」

2018月1月10日

慶應義塾長 長谷山 彰

新に逢うて旧を想う

あけましておめでとうございます。皆様とご一緒に第183回目の福澤諭吉先生のお誕生日を祝う機会を持てたこと、心から嬉しくまた光栄に思います。

記録によれば、福澤先生ご存命中、明治初期にも門下生が集まって、「発会」と称して新年を祝う会を開いていたようでして、明治12(1879)年1月25日の発会における福澤先生のスピーチが「慶應義塾新年発会の記」として残されています。そこには「新に逢うて旧を想う。人間の快楽これに過るものあるべからず。諭吉も亦幸に健康無事にして、諸君と共にこの快楽を与にするその中心の喜悦は、口に云うべからず、筆に記すべからず。」とあります。門下生に囲まれてご満悦な福澤先生の気持ちそのままに躍るような口調の演説です。

さて、昨年は塾長交代の年に当たり、私は清家前塾長の後を引き継いで、5月の末から塾長職を承りました。この半年間の皆様のご理解、ご支援に心から御礼を申し上げます。清家前塾長は、リーマンショックの影響による財政困難な状況を改善しつつ、安西元塾長から引き継いだ創立150年記念事業の完成に力を尽くされました。私も歴代塾長が築かれた基盤を大切にしながら、義塾の教育・研究・医療の向上に力を尽くす所存でおります。

昨年の出来事でいえば、医学部が開設100年を祝い、今年5月には記念事業の柱である新病院棟が開院します。折しも慶應病院は私学としては初の臨床研究中核病院に指定されました。初代医学部長の北里柴三郎博士が示した基礎・臨床一体型の慶應医学がハード、ソフト両面でさらに発展することが期待されます。また医学部とほぼ同時期に看護婦養成所として誕生し、現在の看護医療学部に続いて、脈々と患者に寄り添う慶應医学の伝統を支えてきた慶應看護が今年100年の記念の年を迎えます。薬学部と合わせて医・看・薬3学部合同の教育研究の発展に大いに期待しています。

さまざまな分野での塾生の活躍

昨年はまた体育会が創立125年を迎え、さまざまな企画が催されました。体育会は、福澤先生がお元気で塾生と三田界隈を散歩していた1892(明治25)年に剣術、柔術、野球、端艇、弓術、操練(兵式体操)、徒歩の7部で発足しました。戦中戦後の困難な時期を乗り越え、いまや43部を擁する大きな組織に成長しています。

しかも体育専門学部を持たない慶應義塾でありながら、125年間の塾生・塾員のスポーツにおける活躍は目覚ましいものがありました。たとえば、塾生・塾員のオリンピック・パラリンピック出場選手は延べ133名。メダル獲得数は金5、銀13、銅9です。特に1920(大正9)年のアントワープ五輪で、熊谷一弥選手は男子テニスでシングルス・ダブルスともに銀メダルを獲得しましたが、これは、日本人の史上初のオリンピック・メダル獲得でした。

現役塾生に目を向けると、昨年末には早慶対抗試合勝利を中心に優れた戦績をあげた27部・28部門の部員をはじめ延べ382名を「体育会優秀選手塾長招待会」に招きましたが、その中には、7シーズンぶりに六大学野球で優勝した野球部があり、また全日本で個人または団体で優勝、あるいは国際試合で優勝した部として、弓術部、水泳部、庭球部、ヨット部、射撃部、フェンシング部、ソフトテニス部、自動車部がありました。航空部のように年を越えてこれから日本一をめざす部もあります。特に、ラクロス部は男女ともに学生日本一となり、さらに昨年末に日本選手権でも女子が優勝しました。そのほかにもあと一歩という惜しい結果の部もあり、多くの部が活躍してくれました。今年に入ってからは、1月3日の箱根駅伝で、経済学部3年の根岸祐太君が義塾としては12年ぶりに関東学生連合チームの一員として8区を走ったことも大きな話題になりました。ここで特にふれておきたいのは、昨年の体育会部員主催の体育会創立125年記念シンポジウムでは、パネラーの部員諸君がスポーツ推薦もなく、必ずしも良好とはいえない練習環境の中で、工夫して強くなることが体育会の誇りだと言ってくれたことです。家貧しゅうして孝子出ずと言いますが、私は体育会会長として、義塾の体育会部員が文武両道を実践する「考えるアスリート」であることを何よりも喜び、誇りに感じます。

スポーツ以外にも塾生は活躍しています。昨年の「塾長賞」表彰は平成28年の業績を対象にしていましたが、パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール2位入賞の文学部4年毛利文香君、NBA全国バレエコンクール1位の法学部3年小林英理子君に授与されました。「塾長賞(一貫教育校)」では、国際軟体動物学会ポスター発表部門で日本人初の最優秀賞を受賞し、日本古生物学会の英文誌に化石新種記載論文が掲載された日吉の高等学校3年吉村太郎君をはじめ学術、芸術、スポーツ分野で優れた業績をあげた幼稚舎から高校までの24人が表彰されました。

塾生が教室での学びにとどまらず学術、芸術、スポーツなどさまざまな分野で活躍する姿を見るのは本当に嬉しいことで、正課と課外のバランスのとれた全人格的教育を理想とする義塾の教育理念に適うことです。

150年以上にわたる人材育成の実践

それに関していえば、今年は明治維新150年ということが話題になっています。150年前の明治元(1868)年は改元前の慶応4年に当たります。安政5(1858)年に藩命によって築地鉄砲洲の中津藩邸内に誕生した小さな学塾が芝新銭座への移転を機に、藩から独立した洋学塾となり、元号をとって慶應義塾と命名された記念すべき年です。しかもその年起こった上野の彰義隊戦争の中にあっても福澤諭吉はウェーランドの経済書の講述を続けました。戦乱の中にあっても動じず、学問によって立つ気概を示すものです。

その後、明治政府は「官」の強化による近代化を急ぎましたが、福澤は「民」の強化による近代化をめざしました。学問を修め、確かな生業をもち、世の中の流行に惑わされず、主体的に世の中の進むべき方向を考える独立自尊の人材を育成し、社会のあらゆる分野に送り出すことで国の近代化は達成されるという考えでした。「一身独立して一国独立す」の発想です。

初期の慶應義塾はどのような人材育成を実践していたのでしょうか。ちなみに、明治初期には官立、私立の学校とも専門学校としての性格を強くもっていました。明治6(1873)年、東京大学の前身である開成学校が成立しましたが、そこで教授された科目は法学、化学、工学、鉱山学でした。同じ年には東京外国語学校が創設されています。明治7(1874)年には、東京医学校、陸軍士官学校が開校、明治9年に海軍兵学校、そして、明治10(1877)年に東京医学校と統合して創設された東京大学は法、理、医、文の4学部からなっていました。

私立の学校に目を向けると、明治13年、法政大学の前身である東京法学社が開校、明治14年には明治大学の前身である明治法律学校、明治15年には早稲田大学の前身である東京専門学校が政治法律を教授する学校として誕生しました。明治18年には中央大学の前身である英吉利法律学校が設立されています。

このように、官私を問わず、当時の学校が日本の近代化にすぐに役立つ人材の育成をめざしたのに対して、慶應義塾は創立の当初からリベラルアーツ的な総合的科目編成の教育を実践していました。明治2年の「慶應義塾之記」に載っている日課表によれば、開講科目は経済、歴史、地理、窮理、算術、文典、修身論となっています。この中で「修身論」が開設されているのは注目すべきことです。これはウェーランドのElements of Moral Science を翻訳した内容ですが、ウェーランドといえば上野の彰義隊戦争の時に福澤が講述したのがウェーランドの経済書でした。福澤は西洋文明を取り入れる際にその有形の学術だけではなく、西洋文明の精神を取り入れる必要があると主張していました。論語に代わる西洋の文明を背景とする倫理の書として修身論を採用したと言っています。ウェーランドの著作から経済書と修身論の2つを並行して導入していることは慶應義塾の教育理念を象徴するものと言えます。明治2年に福澤が門下生で慶應医学所の頭取となる松山棟庵にあてた手紙でも、最初から原書を用いた本格的な洋学を教授するのではなく、まずはひたすら「コモン・エデユケーション」に心を用い、人を導くようにしたいと述べています。

ところで、現在の義塾の憲法ともいうべき慶應義塾規約には「慶應義塾は教育を目的とする」と定められています。不思議なことに研究がありません。もちろん研究をないがしろにしているというのではなく、学則には研究のことが定められています。しかし私は、この「慶應義塾は教育を目的とする」という簡潔な条文に、人材育成を使命としてその伝統を守ってきた義塾の誇りが込められていると思います。

グローバル化の中で、大学も国際標準に適合するべく、研究力の強化と国際化の推進をめざすさまざまな取り組みを行っていますが、人材育成を使命とする教育理念はこれからも変わりません。150年以上にわたる塾生・塾員の活躍ぶりに答えは示されていると思います。総合大学でありながら、政界、官界、産業界、あるいは芸術界、芸能界、スポーツ界にこれほど多くの人材を送り出している大学は珍しいでしょう。

研究・教育のための資金獲得

ところで、慶應義塾が伝統を守りつつさらに発展するためには資金と人材の獲得が必須です。特に資金の獲得は法人の重要な使命です。たとえば、現在、義塾の年間の研究費は公的な補助や受託研究などすべて合わせて200億円程度ですが、その中に占める自己資金比率は4%未満と主要大学のなかでも極端に少ない額です。競争的外部資金は使途が限られ、期間も短いので、長期的な思考の熟成を必要とする創造的な研究には向いていません。自己資金の充実によって、研究の自由と研究時間を確保する必要があります。特に、教員の日々の研究を支える基盤的な資金が必要です。その意味で重視したいのは、「福澤諭吉記念慶應義塾学事振興基金」、「小泉信三記念慶應義塾学事振興基金」の2つです。福澤基金は教員の国外留学、研究、出版補助など、小泉基金は国際学術会議出張、海外研究者の招聘、一貫教育校教員の国内・国外出張、塾生の奨学金、小泉体育賞、塾長賞など学問体育の奨励、小泉信三記念講座運営など多様な分野の活動を支援しています。義塾の学術体育奨励の基盤を支える基金ですが、創設以来あまり増加していません。現在、福澤基金18億円、小泉基金14億円ほどです。これを当面それぞれ30億円程度の基金に増資することをめざしたいと考えています。また、いろいろな形でご寄付いただいた資金を組み入れる第3号基本金が現在650億円程度に増えてきていますので、これを義塾創立200年までに1000億円程度に増やすよう努力したいと思います。もちろん義塾も外部資金獲得に努力しますが、私立大学の資金獲得は欧米を見ても、結局、卒業生の支援をまたなければなりません。周年事業などの建物の建設にご支援をお願いするだけではなく、1回の負担を少なくして、長期的、継続的に塾員の皆様のご支援を頂けるよう、また寄付金が何に使われ、どのように研究者や学生の役に立ったのかがはっきりと目に見える募金の制度設計を髙橋財務担当理事にお願いして検討中です。

日吉記念館の建て替え、博物館の創設

義塾の発展をめざす上では施設設備の充実も必要です。日吉の記念館は、慶應義塾創立100年の記念として昭和33年に建てられました。半世紀以上にわたって、塾生の活動や、入学式、卒業式、そして連合三田会大会と幾多の式典を見守ってきましたが、昨年の連合三田会大会を最後に建て替え工事に入りました。昭和37年の体育会創立70周年にあたって、小泉信三元塾長が「スポーツが与える三つの宝」と題して記念講演を行ったのも日吉記念館です。「練習は不可能を可能にするという体験」、「フェアプレイの精神」、「生涯の友」が三つの宝という義塾の歴史に残る演説でした。記念館の建て替えは、義塾創立150年記念事業として安西元塾長の時代に計画されましたが、財政上の理由から延期されていました。清家前塾長の時代に計画再開が決定され、現在の法人執行部が引き継いだものです。

2020年春竣工の予定ですが、その夏には東京オリンピック・パラリンピックの関連で、英国選手団が日吉で事前キャンプを張ります。義塾はBOA(英国オリンピック委員会)と連携して、塾生へのコーチングやスポーツ科学・医学の共同研究、オリンピックをめぐる人文学の研究推進など、さまざまな企画を考えています。

また同じ2020年までに、博物館の創設を計画しています。

博物館は知の伝統を伝える大学の象徴的な施設ですが、義塾には本格的な博物館がありません。保存展示を主とした重厚長大な従来型博物館ではなく、教育の場、研究発信の拠点であり、慶應が得意とするIT技術を活かして、アナログコンテンツとデジタルコンテンツの融合した展示を行う新しいタイプの博物館、しかも既存の塾内の展示施設や外部の博物館を結びつけるハブとしての役割を果たす展示施設の創設をめざして、すでに、設立準備室を立ち上げました。そこでご議論いただいた内容を近いうちに社中の皆様にお知らせできると思います。

こうした施設の整備、教育研究のソフト面の充実にはいずれも資金が必要です。慶應義塾の塾長は理事長であり、学長を兼ねていますが、理事長としての重要な仕事は資金の獲得です。世界の大学の学長とお話ししても、皆さん自分の仕事の第一は資金集めだとおっしゃいます。昨年、オックスフォード大学初の女性総長に就任されたルイーズ・リチャードソンさんにお目にかかったときに、私は19代目の塾長だと申し上げたら自分はオックスフォードの221代目の総長だと言われました。ちょっと言葉を失いましたが、考えてみれば、オックスフォードは1000年近い歴史があります。いつの日にか追いつくという気概が必要だと思います。

独立の基盤としての「社中協力」

ところで、先ほど明治12年の年頭における福澤先生の新年発会の記をご紹介して、先生はさぞお喜びだったろうと推測いたしましたが、実は、明治12年は、慶應義塾が、経営困難で、存亡の危機に直面していた時期です。明治10年の西南戦争のあと、インフレーションや教員、塾生の減少で、一時義塾の閉鎖も考えられていました。

明治11年の暮れ、福澤は文部卿西郷従道へ嘆願書を出して政府からの資本金40万円借用を願い、その後、伊藤博文、井上馨、大隈重信、山縣有朋といった面々に書簡を送って、大いに運動しましたが、結果ははかばかしくありませんでした。

大隈は好意的でしたが、政府部内で井上馨が反対していると聴いて井上に書き送った書簡には、「政府は、既に三菱会社商船学校に毎年1万5000円の補助をしているではないか。岩崎弥太郎は船士を作り、福澤諭吉は学士を作る。海の船士と陸の学士と軽重あるべからず。」と厳しく迫っています。

しかし、奔走もむなしく、明治12年の4月まで音沙汰がなかったので、6月には運動打ち切りを決意しました。

その後、紆余曲折を経て、門下生と図った結果、慶應義塾維持法案ができ、明治14年には慶應義塾仮憲法がつくられて、慶應義塾の経営主体は福澤諭吉個人から離れて社頭・塾長と21名の理事委員による経営に移行し、名実ともに社中の協力による会社組織としての慶應義塾が成立しました。

この経緯を振り返った上で明治12年の慶應義塾新年発会の記を見るとそこには、慶應義塾の根本理念が示されていると感じます。新年発会の記の結びには、要約すると次のようなことが記されています。「抑(そもそ)も我が慶應義塾の今日に至りし由縁は、(中略)要するに社中の協力と云わざるを得ず。その協力とは何ぞや、相助ることなり。

創立以来の沿革を見るに、社中恰(あたか)も骨肉の兄弟の如くにして、互に義塾の名を保護し、或は労力を以て助るあり、或は金を以て助るあり、或は時間を以て助け、或は注意を以て助け、命令する者なくして全体の挙動を一にし、一種特別の気風あればこそ今日までを維持したることなれ。(中略)世に阿ることなく、世を恐るゝことなく、独立して孤立せず、以て大に為すあらんこと、諸君と共に願う所なり」。

ここには社中協力の精神こそが私立大学である慶應義塾の依って立つ独立の基盤であることが端的に示されています。

明治12年当時、4000人ほどだった卒業生は140年を経て今や、35万人の塾員が国内にとどまらず世界中で活躍しています。独立自尊の人材を社会のあらゆる分野に送り出すという福澤先生の理想は見事に達成されています。

しかし、慶應義塾は創立以来の伝統を守りつつ、さらに進化を続けなければなりません。慶應義塾が慶應らしさを失わず、創立175年、そして創立200年をめざしてさらに発展できるよう、義塾社中の皆様におかれましては引き続きご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。

結びに当たりまして、皆様のご健勝とご活躍をお祈りして新年のご挨拶と致します。

(本稿は平成30年1月10日に開催された第183回福澤先生誕生記念会における長谷山塾長の年頭挨拶である)

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