2026年も9月に入り、1年の3分の2が過ぎた。今年は、情報技術、とりわけAIの「秒進分歩」とも言うべき発達とその社会への影響が、恐ろしいほどの波を生んでいる一年だ。個人的には、今年でちょうど半世紀を生きた自分にとって、中学生で初めてパソコンに触れて以来の大きな波のように感じられる。
「頭の良さの価値が暴落する」といったような言説も聞かれる中で、研究や、より広い意味で「学ぶ」ことに携わる一人として、この技術とどう向き合い、活用し、生きていくのかを、毎日考えさせられている。一人の人間として、家族との関わりの中で、研究者として、教員として、そしてSFCの教員として。
最近は授業や研究会でも、「それ、どう見てもAIに作らせた『だけ』でしょ」と思ってしまうような発表スライドを見ることが増えてきた。これまでなら、自分のアイデアや構想をスライドという限られた二次元空間にどう配置し展開するかというタスクを通じて、頭の中を整理してきたものだ。それもツールに外部化されるなら、また別の新しいやり方で頭を整理するようになるのかもしれない――などと思いつつも、たいていは一目見ただけで「生成AI丸出しスライド!」と感じてしまい、評価者としての第一印象は正直「ダダさがり」であった。
教員という立場上、毎日何かしらの発表スライドを大量に見ているのだから、一目で想像がついてしまう(想像してしまう)のも無理はない。最初はそう自分に言い聞かせながら、心の中の毛嫌いする気持ちと戦っていた。しかし、そうした発表をよくよく聞いてみると、生成AI製(らしき)スライドでも、興味深い研究発表をしてくれる人が確かにいる。
この違いは何なのか。しばらく考えていて思い当たったのが、philosophia(フィロソフィア)という言葉だ。博士号(Ph.D.)は "Doctor of Philosophy" であり、philosophy の語源をたどれば古代ギリシャ語の "philosophía"(φιλοσοφία)に行き着くという。philosophía とは「知恵(sophía)を愛する(phílos)こと」、つまり「知を好むこと」である。
AIを使えば「知」は大いに外部化されうるが、「知に対する『愛』」は、最終的な主体が人間である以上、外部化できない。スライド作成を外部化していても、知への愛のあるプレゼンテーションは聴く側にしっかり伝わってくるのだなと、ふと腑に落ちた。スライドの出来はともかく、「自分のやっていることがいかに好きで、楽しいか」を語れるかどうか――そこにひとつの本質を見た気がした。
生成AIの利用は、人類にとって大きな「認知オフロード」だとされる。この強力な道具を人間の側がどう主体的に使うかによって、大きなプラスにも大きなマイナスにも転びうる。大学の4年間の生活においても同じだ。
いくら大学や教員が「この利用は許可、ここでは禁止」と定めたところで、最終的には学生自身の主体的な判断に委ねられる場面が多い。特にSFCでは、4年間の学びの設計そのもの(たとえば履修計画)の多くが学生自身に任されていることを考えると、学生にいかにこのトピックに対して主体的になってもらうかが鍵になる。
私も1クラスを担当した今年度春学期の「情報基礎1」(1年生全員が履修する必修の情報科目)では、「AI」の単元で、この認知オフロードの概念や、その影響に関する最新の研究動向を紹介した上で、学生自身にグループワークで議論してもらう授業構成が取られた。学びにおける生成AI利用の影響について賛否両面を話し合ってもらい、授業の終わりには、学生一人ひとり(約900人)に「今後4年間のSFCでの学びにおける、あなた自身の生成AI実践指針を考え言葉にしてください」という課題が出された。
この時点で学生がどんな指針を書いたか自体が重要なのではない。もちろん正解はない(指針の内容は成績評価の対象となっていない)。SFCコミュニティを構成する学生一人ひとりが、この話題に主体的かつ継続的に意識を向け、これから数年のうちに起きる学びの大きな変化に向き合い、それを能動的に生かしてくれるなら、SFCらしいAI時代の学びを作っていけるのではないか。そう思う次第である。