慶應義塾

「生殖ライン」に着目して、生命の謎に挑む

2026/10/05

「生命の最初の瞬間を見たい」という思いを原点として、「Human Germline(ヒト生殖細胞ライン)」の研究に取り組んでいる、医学部分子生物学教室の入江奈緒子教授。ES細胞を用いた独自の実験系により、長らく“ブラックボックス”とされてきた着床後の生殖細胞の発生プロセスを再現し、分子メカニズムも解明してきました。ヒト生殖細胞を研究することで「ヒトの生命の“始まり”」に迫ると共に、生殖補助医療やがん治療の発展にもつながる研究を展開している入江教授に、研究の醍醐味や将来に向けた展望などをうかがいました。

生命を受け継いでいく「Human Germline」

私たちは両親の卵や精子といった「生殖細胞」の受精によって形づくられ、誕生し、成長していきます。両親もまた、その両親から同じようにして生まれてきました。このように、親から子へ、生殖細胞によって遺伝情報を次世代に受け継がれていくことを「Human Germline(ヒト生殖細胞ライン)」と呼びます。

ヒトを含む動物も、植物も、昆虫も、あらゆる生物が一つの起源に辿り着くと考えられています。その生命の起源から始まって、「Germline(生殖ライン)」を通じて現在のような生物の多様性が育まれました。入江教授は生殖細胞を通じて「ヒトの生命の“始まり”」に迫ろうとしています。

「ヒトを形づくっている約37兆個の細胞のうち、体をつくっている細胞のほぼすべてである『体細胞』は個体の死と共に失われます。ところが、体細胞以外の『生殖細胞』は受精を経て一度リセットされて若返り、次世代へと引き継がれます。そのような“世代を超えた生命の連続性”に強い関心を抱き、生殖細胞の研究を始めました」

ヒトの卵や精子が発生する「最初の瞬間」を捉えたい

博士号を取得した入江教授が、本格的にヒト生殖細胞の研究を始めたのは2011年のこと。当時はマウスによる生殖細胞の研究が盛んに行われ、発生プロセスの分子メカニズムなども次々と明らかになっていました。

「研究を始めてみると、マウスの知識をそのままヒトに応用できるわけではないとわかりました。ヒトとマウスでは初期胚の形が異なります。分裂して胚盤胞になり、着床した後の胚の形態がまったく違う。私が見たかった、生殖細胞が発生する最初の瞬間はこの時期の胚で起こります。なんとかして生殖細胞ができる瞬間を捉えて、そのメカニズムを解き明かそうと考えました」

生殖細胞は、受精卵、胚盤胞、着床、エピブラスト(※)、生殖細胞の元となる始原生殖細胞というプロセスを経て発生します。受精から胚盤胞までは体外受精で再現して観察できますが、生殖細胞発生において一番重要なイベントが起きる受精2週目(着床)から4週目(始原生殖細胞発生)はヒト発生初期のブラックボックスと呼ばれ、そのプロセスを観察するための細胞実験や培養細胞も確立されていませんでした。

このブラックボックスに挑むことを決めた入江教授は、ES細胞を用いた実験手法を開発するところからスタートしました。

※エピブラスト:着床後すぐに胚盤胞の内部細胞塊から作られる多能性細胞層。

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培養皿上(in vitro)で生殖細胞の「運命決定」の再現に成功

ES細胞は、受精から数日の着床直前の初期胚から取り出した一部の細胞を培養した「多能性幹細胞」で、体を構成するあらゆる細胞に分化誘導することができます。当時すでにES細胞からさまざまな組織や臓器への分化誘導には成功していましたが、生殖細胞への誘導は極めて難しいとされていました。

「私たちはES細胞を使って、培養皿上(in vitro)で生殖細胞の発生を再現しようと試みました。同じ頃、マウスのES細胞で生殖細胞の始まりを再現できたという論文が出たこともあり、その方法を参考にすればヒトES細胞でもうまくいくだろうと考えたのです。しかし、ヒトとマウスの生殖ラインには大きな違いがあり、ES細胞から生殖細胞前駆細胞の状態にするだけでもなかなかうまくいきません。試行錯誤を繰り返し、ES細胞から効率よく生殖細胞に分化誘導する“運命決定”の再現に成功しました」

ヒト生殖細胞の発生の瞬間を実験系により再現したことは、発生の分子メカニズム解明にもつながりました。培養した細胞の遺伝子発現を解析しているときに、SOX17という転写因子が極めて重要な役割を果たしていることを発見したのです。

「SOX17はマウスの生殖細胞発生には全く関係していないもので、ヒトの生殖細胞においても重要視されていませんでした。そのような因子であるSOX17が、私の中には何か気になる感覚がありました。調べていくと生殖細胞への誘導を始めた途端に高レベルのSOX17発現が誘導されることがわかりました。さらに、SOX17を欠損した細胞では生殖細胞への運命決定が全く起きなくなることがわかりました。つまり、ヒトの生殖細胞の発生にとってSOX17は非常に重要な因子であることが明らかになったのです」

この研究成果を発表した論文は2015年の学術誌『Cell』の最優秀論文「Best of Cell 2015」にも選ばれるなど、実験系の確立とSOX17の発見はその後のヒト生殖ライン研究において重要な研究成果となりました。

初期胚由来の生殖細胞のがん化が大人になってからの病気に影響

入江教授の研究対象は、生殖細胞の運命決定の瞬間からその先へ、生殖ラインを辿るように進んでいきます。次にターゲットとなったのは、運命決定後の始原生殖細胞が卵巣や精巣へと移動していくプロセスでした。

「ヒトの発生では、着床直後から個体の発生が進むと同時に、運命決定直後の始原生殖細胞は胚体内をダイナミックに移動して卵巣や精巣になる生殖巣に到達します。私たちはこれらの発生プロセスについても再現可能な実験系を確立し、そのモデルを用いることで重要な転写因子(DMRT1)を同定しました。さらに、その因子が働くことにより、DNAの網羅的な脱メチル化が進むエピジェネティック制御の仕組みを解明しました」

最近では、生殖ラインの異常による“がん化”という研究テーマにも取り組んでいます。

SOX17が発現している運命決定直後の始原生殖細胞が、がん化することがあります。小児の脳腫瘍の約15%を占める頭蓋内胚細胞腫は、始原生殖細胞のがん化が原因で起こる脳腫瘍です。ほかにも生殖細胞由来のがんとしてはテラトーマ(奇形腫)や精巣がんなどがあり、後者は青年期や成人になってから発症します。

「そもそも生殖細胞がなぜ脳で腫瘍になるのか。また、生活習慣などが影響しえない発生初期の細胞がどうしてがん化するのかなど、私たちが開発した生殖ライン実験系を用いて分子メカニズムの解析に取り組んでいます」

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世界的権威にメールを送り続けて留学

現在は、慶應義塾大学医学部に研究室を構える入江教授ですが、自身は医学部出身ではありません。子どもの頃から自然や生き物が好きで、大学では理学部生物科学科に進学。大学院修士課程・博士課程では骨代謝の研究をしていました。

大学院修了後、研究者としての道を歩み始めるときに「生命の謎に迫るような研究に挑戦したい」と考え、生殖細胞や発生をテーマにすることを決意しました。

「それまでの研究バックグラウンドとはまったく違う分野に飛び込むにあたっては、生殖細胞研究における世界的権威である英国ケンブリッジ大学のアジム・スラニ先生のところに留学させてほしいと突然ながら先生に直接メールを送りました。はじめのうちは返事ももらえなくて、何度も懲りずにメールを送り続けたところ、ついに『残念ながら、うちのラボにはスペースがないので受け入れられない』という丁寧な返事をもらえました。私は返事をもらえたことが非常に嬉しくて、スペースが理由ならチャンスがある!と、『私はそんなに大きくないのでスペースが狭くても大丈夫です』と返信を送りました。後日、学会で来日されたスラニ先生と直接お目にかかる機会があり、念願叶って留学させてもらえることになったのです」

2011年から2023年まで、12年にわたってケンブリッジ大学で研究生活を送りました。ヒトES細胞を使った研究をスタートし、ブラックボックスだった着床直後の発生プロセスを再現する実験系の確立、SOX17をはじめとした分子メカニズムの解明などの数々の研究は、ケンブリッジ大学のラボで始めたものです。

臨床医とともに基礎研究ができる慶應医学部

2023年に帰国し、自らの研究室を主宰しています。2025年からは、大学院時代を過ごした慶應義塾大学医学部で研究を継続。

現在注力していることの一つに、着床という現象に着目した研究があります。着床は妊娠成立にとって極めて重要なイベントで、体外受精などで受精させた受精卵や胚盤胞を子宮内に戻しても着床しなければ妊娠に至りません。

「着床に関する研究は、生殖補助医療への貢献も見据えて進めています。その点、慶應医学部では、産婦人科をはじめとする臨床の先生方と議論したり、検体を用いた研究に取り組んだりできるなど、臨床と基礎研究が身近につながる環境に恵まれており、大変ありがたく感じています。日々臨床現場で患者さんと接している臨床医だからこそ気づく視点も基礎研究に非常に重要で、そこから有意義なディスカッションに発展することも少なくありません。慶應医学部は臨床医も基礎研究への造詣が深いフィジシャンサイエンティストが多く、基礎と臨床の結びつきが強いので、臨床的な意義のある研究成果を多数挙げられるのだと思います」

臨床との連携は産婦人科に限りません。生殖細胞のがん化に関わる小児科や泌尿器科など、幅広い領域の先生方との交流を通じて、新たな視点から研究を深めていけることを非常に楽しみにしています。

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生殖補助医療やがん治療への貢献も目標の一つ

生殖細胞を研究することの面白さを訪ねると、「永遠に続く可能性を持つ細胞であること」と答えた入江教授。

「新たな生命を生み出す大元となる生殖細胞のメカニズムを解き明かすことができれば、生命の謎に一歩でも近づけるのではないかと思っています。一方で、受精卵を使ったES細胞や生殖補助医療については、生命倫理の視点も忘れてはいけません。生命を扱う研究者としてその点は常に強く意識しています。今私たちが取り組んでいる研究が、将来の病気の克服や不妊治療などに役立つ技術につながればと考えています」

慶應医学部や基礎研究の道を志望する高校生たちに向けては、自分の中から湧き出る好奇心や「なぜだろう」と思う気持ちを大切にしてほしいといいます。

「たとえば、今学んでいる教科書の内容にも、『なぜそうなるのだろう』『もっと深く知りたい』と感じることがあると思います。その気持ちを大切に育てていってほしいです。そうした好奇心が自分自身の芯となり、どのような道に進んでも、進む方向を見つける手がかりになると思っています。」

入江教授自身も、「研究をはじめた頃から胸の中で抱いてきた『知りたい』という気持ちは変わっていません」と話します。その変わらぬ好奇心を原動力に、生命の謎を追究し続けています。

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入江 奈緒子(いりえ なおこ)

慶應義塾大学医学部分子生物学教室 教授

2004年北里大学理学部生物科学科卒業。2006年慶應義塾大学大学院医学研究科修士課程修了。2010年同博士課程修了(医学博士)。2011年より英国ケンブリッジ大学ガードン研究所に留学。2022年に慶應義塾大学医学部医化学教室助教、公益財団法人実中研バイオイメージングセンター代謝システム研究室長を経て、2025年4月より現職。2024年「日本学術振興会賞」受賞。専門分野はヒト初期発生、生殖細胞発生生物学。

※所属・職名等は取材時のものです。