どこかへ出かけ、誰かと話し、何かを選択する――。何げない行動や意思決定の裏側で、私たちの脳はどのように機能しているのでしょうか。人類最大の謎の一つである「知」のメカニズムに対して、従来の生物学的なアプローチにとどまらず、最先端の人工知能(AI)技術を大胆に融合させ、理論と実験の両面から迫ろうとしているのが、慶應義塾大学医学部生理学教室の牧野浩史教授です。 脳科学とAIという二つの「武器」を操り、脳内で起きている複雑な現象の分析や次世代AIの知能向上、さらには精神疾患の解明や人間社会のシミュレーションにまでその可能性を広げています。「AI×哲学・倫理:生物の『知』から解き明かす人間の未来」の前編では、異色の「二刀流」研究者が描く「ウェルビーイング」の未来図に迫りました。
プロフィール
牧野 浩史(まきの・ひろし)
教員・研究者/慶應義塾大学 医学部・医学研究科 生理学教室 教授2005年6月、University of St Andrews卒業。2010年4月、School of Biological Sciences, Cold Spring Harbor Laboratory修了、博士。2010~2016年、University of California, San Diegoで博士研究員。2016~2024年、Nanyang Technological University, Lee Kong Chian School of Medicine, Assistant Professor。2024年10月から現職。
プロフィール
牧野 浩史(まきの・ひろし)
教員・研究者/慶應義塾大学 医学部・医学研究科 生理学教室 教授2005年6月、University of St Andrews卒業。2010年4月、School of Biological Sciences, Cold Spring Harbor Laboratory修了、博士。2010~2016年、University of California, San Diegoで博士研究員。2016~2024年、Nanyang Technological University, Lee Kong Chian School of Medicine, Assistant Professor。2024年10月から現職。
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■外から見えない脳の内部を解き明かすために
「外からは見えない脳の複雑な働きを、AIという『鏡』に映すことではっきり読み解ける。このアプローチこそが、脳科学とAIを掛け合わせる最大のおもしろさであり強みです」
牧野教授は自身の研究の核心をそう説明する。生物の脳とAIを重ね合わせることで、具体的に何がわかるのか。
たとえばマウスの脳の実験(※1)では、カルシウムイメージング法(※2)などを用いて神経細胞の活動を可視化する。マウスが何か特定の行動をとれば、脳の中の個々の神経細胞が光って活動している様子を顕微鏡越しに観察できる。
(※1:動物実験は、関連法規および学内の倫理規定を順守し、適切な承認を得て実施されています)
(※2「カルシウムイメージング法」:蛍光カルシウム指示薬などを用いて、細胞内カルシウムイオン濃度の変化を蛍光顕微鏡で時系列に撮影し、神経活動などを可視化する方法)
だが、脳の内部はきわめて複雑だ。マウスが手足を動かすといった「外から見える行動」と神経活動の対応は追えたとしても、その奥にある「知覚」や「認知」、あるいは頭の中で何をどう計算しているのかといった「外からは見えない内部状態」まで読み解くのは難しい。
そこで登場するのが、仮想空間上に作った「AIエージェント」だ。
脳の神経回路を模した人工ニューラルネットワーク(※3)を持ち、それを構成する最小単位が人工ニューロンだ。その活動は、プログラムとしてあらかじめ設計・定義されているため、「どのユニットがどういう計算をしているか」を完全に把握・可視化できる。
(※3「ニューラルネットワーク」:人間の脳の動きを模した機械学習モデルの一つ。脳内にある神経細胞〈ニューロン〉とその神経回路網を人工ニューロンという数学的な計算モデルで表したもの)
そこで牧野教授は、実際の生体マウスと同じ行動をするように仮想空間上でAIエージェントに学習させ、人工ニューロンの動きとマウスの神経活動パターンを比べてみた。
すると、特定の人工ニューロンの活動と、マウスの脳から計測された生体ニューロンの活動の波形や上がり下がりが、驚くほどの精度で重なり合う現象が起きた。
「たとえば、マウスが学習をしているときに脳は何をしているのか、マウスの行動を見るだけではわかりません。しかし、あらかじめ状態や行動の価値を表現する人工ニューラルネットワークのユニットの働きと比較することで、マウスの脳がどのような情報処理をして、何をしているのか、飛躍的にわかるようになるのです」
■偶然の合致から読み取れるものは
実は、このようにAIと脳のメカニズムが偶然にも合致した例は過去にもあった。
脳内の神経伝達物質である「ドーパミン」と、AIの強化学習における「TD誤差(Temporal Difference error、時間的差分誤差)」という計算アルゴリズムが、全く同じ役割を果たしていることがすでに海外の研究者によって発見されている。
TD誤差とは、AIが何かを学習するときに、「事前に予測していた結果」と「実際に起こった現実」との間に生じる「ギャップ(誤差)」を指す。
たとえば、何の前触れもなく突然100万円をもらえた場合、事前の予測がゼロだったのに大きな報酬が得られたため、AIのシステムでは巨大な「正の誤差」が生じる。
人間の脳でいえば、うれしい誤算だが、このとき脳内ではドーパミンが大量に放出される。やる気や集中力、快感、運動の調整などをつかさどる神経伝達物質だ。
逆に、「今日は良いことがあるぞ」と期待・予測していたのに何ももらえなかったら、がっかりしてドーパミンの放出は抑制される。このとき、AIでは「負の誤差」が生じる。
AIと脳科学の両者に類似するこの現象から、何が読み取れるのか。牧野教授は説明する。
「コンピューターサイエンティストが計算機上で独自にデザインした数学的システム(TD誤差)が、人間や動物の脳内でも同様に実装されていたといえます。つまり、人間が勝手に作ったアルゴリズムと、自然界が作り上げた脳のシステムが、偶然一致していたことになるんです」
そして、この現象は、牧野教授が現在取り組んでいる研究とも深く響き合う。
「脳の研究から得られた知見をAIに入れてみることで、AIがより『脳っぽく』なるのか、とても興味があります。『AIエージェントは喜ぶことをしない』とよく言われますが、人間が持っているけどAIにはないものを、AIに入れてあげるのも大事かなと思います」
生物の脳とAIの間に横たわる差異を見極め、その差を縮めるプロセスがAIの進化につながる。同時に、進化したAIモデルを使ってさらに深く脳を知る――。そんな「知の好循環」を、牧野教授は生み出そうとしている。
■原点は「フラフラした」好奇心と行動力
柔軟な発想を生み出す牧野教授自身の脳は、どのように育まれたのか。
自然豊かな土地で育ち、サッカーやゲームが好きな「普通の子」だった。あるとき、たまたま脳についての本を読み、特に左右の脳で役割や機能が違うことに興味を持った。大学では脳科学と心理学を学ぼうと、英セント・アンドリューズ大学に進学。英語はあまり話せなかったが、海外の大学に飛び込んだ。
「海外に漠然とした憧れはあったかもしれませんが、当時からフラフラしていたんだと思います。好奇心があるともいえますし、安定していなかったともいえますね」
研究者を志したのは、大学3年のとき。米カリフォルニア大学サンディエゴ校に1年間、交換留学し、ソーク研究所で初めて本格的な研究を経験したのがきっかけだった。卒業後、米コールド・スプリング・ハーバー研究所の博士課程に進んで脳のシナプス研究に没頭し、現在の土台となる研究手法を学んだ。
大きな転機は2015年、カリフォルニア大学サンディエゴ校のポスドク(博士研究員)時代に目にした科学雑誌だった。世界的なAI開発企業「DeepMind(ディープマインド)」社による強化学習と深層学習を組み合わせたAIに関する論文が表紙を飾っていた。
強化学習という概念は、心理学や脳科学の知見から発生してコンピューターサイエンスに応用された歴史があり、牧野教授が専門とする脳科学と接点がないわけではない。数式を読み解くハードルもさほど高く感じなかった。
ネット上には教材や再現コードも豊富にあった。独学でプログラミングやコードを書き、再現実験を走らせると、「思ったより全然使える」と手応えを得た。AIの人工ニューロンと、生物の脳の神経細胞。この二つの活動を比べたら、1対1の対応関係が見いだせるかもしれない――。
「そう思い至った瞬間、いま世界でこの可能性に気づいてガッツリ取り組もうとしているのは、自分しかいないかもしれない。そんな武者震いのような感覚がありました」
■「うつ」や「ストレス社会」の謎に迫る仮想空間
現在、牧野教授が情熱を注ぐ研究テーマの一つが、AIを用いた「仮想社会」の構築と、うつ病などの精神疾患やストレスの仕組みの解明だ。
慶應義塾大学医学部という環境は、現場の精神科医と日常的に議論できる大きな強みがある。精神科医は患者と「言葉」で対話し治療するが、脳が直接つながっていないにもかかわらず、会話という目に見えないやり取りが相手の脳の回路を好ましい状態へと変化させる。
一方で、うつ状態だと「本来うれしいはずの報酬を求めなくなる」という特徴が表れる。牧野教授は、この状態をAIの「期待と結果のズレ」を計算する仕組みで再現しようと考えている。「TD誤差」のシステムと照らし合わせ、AIの計算設定を調整することで、コンピューター上に「うつ状態のAI」を作り出せる可能性があるという。
さらに、この「うつ状態のAI」に対し、精神科医の対話を模したAIからどんな言葉をかければ心が立ち直っていくのか、仮想空間で実験を行う。これが実現すれば、「なぜ人は言葉による対話で心が回復するのか」という根本的な仕組みを、脳科学の観点から解明できるかもしれない。
「世の中の多くの人が強いストレスを抱えて生きている」――。街や満員電車でそう痛感する牧野教授は、誰もが心身ともに満たされる「優しい社会」のあり方を模索する。
一方で、過度なストレスをなくすことは簡単ではない。ストレスの源は「期待と現実のギャップ」であり、理想を諦めるとストレスは減るが、社会の発展や活力を生む「競争」も失われるかもしれない。
そこで期待されるのが、仮想現実上に何千何万ものAIエージェントが暮らす「デジタル上の仮想社会」だ。脳科学発のデジタル社会シミュレーションによって、適度な競争とストレスの少なさを両立できる「最適なバランス」のヒントを探る。
■あえて遠回り、次の飛躍へ開花の可能性
AIに学習させるとき、最初から一つのことだけを特訓するより、一見関係のない「さまざまな体験や試行錯誤」を多く重ねさせたほうが、最終的に専門分野に絞ったときの成長スピードや伸び代が圧倒的に高まることがわかっている。
脳科学の視点でも、若いうちに多様な行動や経験のパターンを蓄えるほうが、その後の対応力や学習の効率が格段に上がるのだ。自分の可能性を最初から限定せず、あえて遠回りをするほうが、長期的には大きな才能の開花につながる。
牧野教授自身も一直線の道ではなく、寄り道や探求を重ねた結果として独自の研究分野を開花させてきた。
「若いみなさんも、将来の型に自分をはめ込みすぎず、まずは身近にある『知りたいこと』に向かって自由に興味を広げてほしい。その経験の積み重ねこそが、将来思いもよらない大きな飛躍をもたらしてくれるはずです」
構成:朝日新聞GLOBE+編集長 玉川透
取材・文:澤木香織
写真:品田裕美