超高齢化社会に突き進む日本。2040年には、年間死亡者数が168万人とピークに達し、看取(みと)りの場の確保が深刻な課題となります。多死社会における「ケアの不足」という社会課題に対し、最先端のデジタル技術(IT)と看護の現場をつなぐことで挑むのが、慶應義塾大学看護医療学部の宮川祥子教授です。経営学からITと看護をつなぐ道へ。異色の経歴を持つ宮川教授は、持続可能な社会における「ケアの未来図」をどう描くのでしょうか。「イノベーション・エコシステム×持続可能性」をテーマにするこのシリーズの【前編】では、異色の経歴を持つ宮川教授が10年の対話を経てたどり着いた、AIやテクノロジーと共生する「人間を核にしたケアの可能性」をひもといていきます。
プロフィール
宮川 祥子(みやがわ・しょうこ)
教員・研究者/慶應義塾大学 看護医療学部 教授1992年3月、一橋大学経済学部卒業。1994年3月、一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。2000年3月、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科を単位取得退学、2002年博士(政策・メディア)。2013年5月、テキサス大学スクール・オブ・バイオメディカル・インフォマティクス健康情報学専攻修了、健康情報学修士。慶應義塾大学看護医療学部専任講師、同学部准教授、京都大学防災研究所客員准教授などを経て、2026年4月から現職。2014年9月からUniversity of Texas, School of Biomedical Informatics, Adjunct Associate Professor。
プロフィール
宮川 祥子(みやがわ・しょうこ)
教員・研究者/慶應義塾大学 看護医療学部 教授1992年3月、一橋大学経済学部卒業。1994年3月、一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。2000年3月、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科を単位取得退学、2002年博士(政策・メディア)。2013年5月、テキサス大学スクール・オブ・バイオメディカル・インフォマティクス健康情報学専攻修了、健康情報学修士。慶應義塾大学看護医療学部専任講師、同学部准教授、京都大学防災研究所客員准教授などを経て、2026年4月から現職。2014年9月からUniversity of Texas, School of Biomedical Informatics, Adjunct Associate Professor。
■工学の視点で「困りごと」に向き合う
歯磨きをして、うがいをする――。健康なときは当たり前にできる動作も、寝たきりになると、ひと苦労に違いない。自力で起き上がれなければ、顔を横に向けて口に含んだ水をはき出すしかない。
うがい用のたらい(ガーグルベイスン)は市販されている。でも、多くは上体を起こした状態での使用を前提に設計されているため、寝たきりの人には使い勝手が悪く、首元まで水がつたってしまうことも多い。
一回一回は小さな「不快」。けれど、それが続けば歯磨きのケアを受けること自体、気が進まなくなるかもしれない。誤嚥(ごえん)性肺炎のリスクを考えれば、毎日の口腔(こうくう)ケアは欠かせないというのに。
こうしたケアの現場の「困りごと」に、宮川教授は工学の視点から向き合ってきた。
「たとえば、寝たきりの患者さんの口の形にフィットするガーグルベイスンを3Dプリンターで作るんです。快適なケアを受けられて、口腔ケアに前向きになれることで誤嚥性肺炎のリスクも低減できる。道具を作ることがケアにつながります」
既製品にケアを合わせるのではなく、ケアのやり方に道具を合わせる――。そんな「発想の転換」を理想に掲げて、宮川教授が2015年に始めたのが「FabNurse」プロジェクトだ。3Dプリンターなどのデジタル工作機械を活用したものづくり技術(デジタルファブリケーション)を看護や介護の現場に積極的に導入していく試みとして、国内外で注目されている。
だが、そこへたどり着くまでは、簡単ではなかった。
「看護に関しては全くの素人でした」。そう言い切る宮川教授は、もともと一橋大学で経営学を修め、コンピューター科学を応用するオペレーションズリサーチ(OR)の世界からキャリアをスタートさせた。企業の情報システム構築に関心を持っていた彼女が、看護という全くの異分野へ舵(かじ)を切った背景には、阪神・淡路大震災があった。
「災害時、本当に必要な情報はデータベースの中ではなく、何かが起きている場、つまり臨床にこそある。そう気づいた瞬間、企業への興味から現場への興味へとシフトしたのです」
■「寄り添う」とは何か――10年かけた対話
転機は2001年、慶應義塾大学の看護医療学部創設に伴い、ITを専門とする立場で専任講師として教育・研究に関わることになったときのこと。宮川教授は思わぬ「言葉の壁」に苦しむことになる。
看護の専門家たちにとっては最も本質的であるはずの「寄り添う」という言葉の意味が、ITを専門とする彼女には、実感として理解できなかったという。
最初の試練は、2002年から湘南藤沢キャンパスを挙げて取り組んだ「e-ケアタウンプロジェクト」。藤沢市や通信会社と協働し、医療従事者による遠隔相談や健康データの共有など、ITを活用して地域のケアを支える仕組みの実証実験を進めたが、現場での意思疎通がどうにもスムーズにいかない。
「ITチームが目標にするのは、どれくらいケアが効率的になるか。オンラインで情報のやり取りができれば十分だと考えていたのですが、医療関係者や患者さんは、たとえばオンライン相談ではカメラ越しだと視線が合わず、コミュニケーションが取りにくいとおっしゃったんです」
良いケアとは何か。時間をかけて少しずつ見えてきたのは、そもそも前提が異なるという事実だった。ケアの現場では、結果への最短経路が必ずしも最適解とは限らない。寄り添うことは、その人がよりよく生きるための「ウェルビーイング」を実現する手段であり、手間がかかるとしても、その人にとって必要な関わりであれば意味のある行為となる。
「お互いがわかっていないということを認め合って、ようやく『お互いが何を目的にしているのか』の対話が始まったんです。結局、理解するのに10年かかりました」
やがて、この気づきが宮川教授の研究の軸になっていく。
■世界に届けたい「エマージング・イノベーション」
宮川教授の原動力となっているのは、知恵を駆使して患者を支えてきた、看護師たちの「超クールな工夫」への敬意だ。
たとえば、通常、車椅子のブレーキは右側にあり、右手での操作を前提としている。でも、右半身にまひがある人にとってそれは容易ではない。そこで、ある看護の現場ではラップの芯をレバーに取り付けて長くし、左手でも操作できるよう工夫がなされていた。簡単な改良だが、小さな工夫が日常の動作を支え、利用者の生活の質を向上させていたのだ。
「これを見たとき、鳥肌が立ちました。既製品が使いにくいなら、現場で創意工夫して解決する。これこそが臨床現場の『エマージング(湧き上がる)なイノベーション』なんです。ただ、この工夫が『その場限り』で終わるのはあまりにもったいない。世界中の人にこのノウハウを届けたい――それが私の原点です」
現場の工夫を、安全性とデザイン性を担保しながら、広く普及させる手段はないか。追い風となったのが、当時、開発が進んでいた3Dプリンターだった。
慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスでは2013年ごろに導入され、学生と教員が自由に使える環境が整っていた。技術が進歩してやわらかな素材も扱えるようになったタイミングで、宮川教授は、この分野の第一人者である同大環境情報学部の田中浩也教授に協力を求めた。
「病院だとベッドも器材も同じ規格ですが、在宅ケアではベッドの大きさもコンセントの位置もさまざま。住環境や患者さんの状態の個別性を考えると、在宅ケアはデジタルファブリケーションと相性がいいと思ったんです」と宮川教授。
2022年には、ソフトロボットの開発に携わっている東京工業大学(現・東京科学大学)の前田真吾教授らとともに、「摘便練習シミュレータ」を開発した。
「摘便」とは、肛門(こうもん)から指を入れ、直腸を刺激するなどして排便をうながす手技のこと。在宅介護を受ける高齢者のうち、排便に困難を感じている人は全体の6割に上る。排便ケアが必要とされる場面は多い。とはいえ、プライベートなパーツなので、ベテランの看護師がお手本を見せるのも、新人が事前にトレーニングをするのも難しい。
訪問看護に携わる卒業生から相談を受けた宮川教授は、ソフトロボットの技術を導入することで、「指をこう動かしたらこんな反応が返ってくる」という感覚的なものを生体に近い感触で再現できる「摘便練習シミュレータ」として形にした。
「私自身は何もやっていないんですよ。つなげているだけ」。宮川教授はそう話すが、異なる領域を往来する希有(けう)な「翻訳者」として看護の現場のニーズと工学の技術、あるいは研究と実践といった異なる領域をつなぐことで、新たなケアの可能性をひらいている。
■災害時のニーズを可視化、命をつなぐ情報
彼女がものづくりと並行して進めているのが、災害時の情報マネジメントだ。
「災害時は情報が非常に大事になってきます。支援を行き渡らせるためにはマネジメントが必要で、そのためには、どこに何がどれくらい必要かのニーズの把握が欠かせません。それが減災ケアや、のちの生活再建にもつながります」
2011年の東日本大震災では、避難所で不足していたパソコンやプリンターを届けるため、何度も被災地へ足を運んだ。被災した人たちが再び仕事につく助けになるようにと、PC教室も開いた。さらに、ボランティア看護師チームが被災者の健康ニーズを知るためのツールとして、マークシート式の被災者アセスメント票を提案。データの読み込みから集計までを自動化し、看護師が手打ち入力する負担も減らした。
2015年には「情報支援レスキュー隊(IT DART)」を設立。支援状況をマップ上で可視化するなど、2016年の熊本地震、2018年の西日本豪雨災害でも情報の収集・共有を通じてケアを支える活動を続けてきた。
2024年の能登半島地震では、金沢市内の避難所で3カ月にわたって情報管理の支援を行った。そこで、一次避難所から二次避難所、さらに仮設住宅へと移動する被災者のケア情報がうまく引き継がれていない状況を目の当たりにしたという。
「人の移動に、情報が追いつかないんです。たとえば、この人は転倒リスクが高いという情報が速やかに共有されていれば、避難所から仮設住宅に移動してもリハビリや手すりの設置など切れ目のないケアが受けられます。情報共有に時間がかかり、ケアが2週間途切れるだけで、ADL(日常生活動作)は低下してしまうものなんです」
ただし、情報システムさえあればすべてが解決するわけではないと宮川教授は言う。
「ポイントは、そのコミュニティーにどんな人がいて、どんな役割を担うのかという『ロール』。そして、一人ひとりのウェルビーイングを実現するための『ルール』、いわばケアの方針や関わり方です。『ロール』『ルール』『ツール(情報システム)』の三つがそろって初めて機能するのです」
■AIをパートナーに、人間の関わりを核にしたケアを
宮川教授が描く看護の「未来」は、単なるデジタル化の先にある。
日本では2040年、年間死亡者数が168万人に達し、どこでどのように最期を迎えるかという看取りの場の確保が大きな課題となる。
そんな時代には、病院と高齢者施設のキャパシティーは限界を迎える。在宅でのウェルビーイング(よりよく生きること)、ウェルダイイング(よりよく人生を締めくくること)を考える時代になる、と宮川教授は考える。
「介護や在宅ケアに携わる方の数も頭打ちになっていきますから、限られた人数でよりよいケアを提供できるようにするためには、個人のスキルの向上に加えて、現場がクリエイティブになっていくことが必要です」
宮川教授が思い描くのは、AIをパートナーとして、人間だからこそできる関わりを核に据えたケアの姿だ。
「看護の本質は、結局のところ『人間』です。自分の身体で感じ取り、人として関わる、そこにしか生まれないケアがある。AIの役割は、それ以外の部分を引き受けることです。看護師がより人間らしくケアに向き合えるようにする。そのためにAIを使うべきなんです」
一方、日本の看護が誇る「寄り添うケア」の価値も、未来の看護においてますます重要になってくると言う。
「この『寄り添い』こそが、日本のケアが世界に示すことのできる価値です。亡くなっていく方と、見送る家族の両方を支える看護職の役割は、これからも変わりません」
そのうえで、宮川教授は展望を語る。
「テクノロジーとの架橋で、新しいケアを創造できます。ケアを受けるご本人だけでなく、看護師も、家族も、エンジニアも、みんなが協力してよりよいケアの形をつくり出していく……そんなワクワクする未来を、私はみなさんと一緒につくりたいんです」
構成:朝日新聞GLOBE+編集長 玉川透
取材・文:渡部麻衣子
写真:品田裕美