私たちが日々の生活で何げなく使っているスマートフォンの地図アプリやカーナビゲーションシステム。いまやそうしたデジタル空間情報が存在しなかった時代を思い出すことすら難しいほど、現代社会に深く溶け込んでいます。この「地理空間情報」を高度な空間データ分析ツールであるGIS(地理情報システム)を用い、経済学と掛け合わせることで、社会の課題を新たな視点から解き明かそうとしているのが、慶應義塾大学経済学部の河端瑞貴教授です。 従来の経済学が主に「価格」や「時間」といった要素を分析してきたのに対し、河端教授はそこに「空間」というリアルな次元を取り入れることで、都市問題や経済活動の実態に迫ってきました。「イノベーション・エコシステム×持続可能性」をテーマとするこのシリーズの【後編】では、GISを用いた経済分析の第一人者として国内外で高い評価を受けている河端教授が、いかに私たちが暮らす都市空間を科学的に解き明かし、より安全で持続可能な社会を設計するための「未来地図」を描いてきたかを探ります。
プロフィール
河端 瑞貴(かわばた・みずき)
教員・研究者/慶應義塾大学 経済学部 教授1995年3月、慶應義塾大学経済学部卒業。1997年3月、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。2002年6月、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)大学院建築計画学科都市計画専攻博士課程修了、博士号(Ph.D.)取得。東京大学空間情報科学研究センター機関研究員、同助教授(現・准教授)、慶應義塾大学経済学部准教授などを経て、2014年4月から現職。政策研究大学院大学非常勤講師、東京大学空間情報科学研究センター客員研究員、東京大学公共政策大学院非常勤講師。
プロフィール
河端 瑞貴(かわばた・みずき)
教員・研究者/慶應義塾大学 経済学部 教授1995年3月、慶應義塾大学経済学部卒業。1997年3月、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。2002年6月、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)大学院建築計画学科都市計画専攻博士課程修了、博士号(Ph.D.)取得。東京大学空間情報科学研究センター機関研究員、同助教授(現・准教授)、慶應義塾大学経済学部准教授などを経て、2014年4月から現職。政策研究大学院大学非常勤講師、東京大学空間情報科学研究センター客員研究員、東京大学公共政策大学院非常勤講師。
■位置情報を手がかりに、社会の構造を視覚化
人口や地価、病院、避難場所……。生活に関わるさまざまなデータを地図上に重ね合わせ、「どこで何が起きているのか」を可視化する。ばらばらだったデータが位置情報を手がかりに結びつき、数字や表だけでは見えなかった関係性や社会の構造が浮かび上がる。そこに、GISの大きな力がある。
その力を示す象徴的な事例が、1854年に医師ジョン・スノウがロンドン・ソーホー地区でコレラ流行を調査したエピソードだ。スノウは死亡例をプロットした地図を検討し、死亡記録や住民への聞き取りも踏まえて、Broad Streetの公共水ポンプ周辺に死亡例が集中していることを明らかにした。原因をめぐって当時なお議論があったコレラ流行の感染源に、空間的な可視化を手がかりとして迫ったのである。
「どれだけデータが文字や数字の形で存在していても、人間の脳にダイレクトにひらめきを与えるためには、ビジュアリゼーション(視覚化)、つまり『地図』に落とし込むことが大きな意味を持つのです」
河端教授が語る「空間で見る」視点は、私たちの日常の問題の見え方を大きく変えるかもしれない。
たとえば、2018年に河端教授が安部由起子教授(北海道大学)と発表した共同研究では、東京都市圏内で男性の通勤時間が長い地域と、子育て中の既婚女性の労働参加率や正規雇用率が低い地域が、地図上で重なり合う傾向が示された。
「子育て中の世帯、とりわけ女性にとって、長距離通勤は時間的に大きな制約となります。感覚的には『そうかもしれない』と思われていた職住ミスマッチの構造が、GISの手法を用いることでデータとして可視化されたことに、研究として大きな手応えを感じました」
2021年には、河端教授が安部教授、柴辻優樹氏と発表した共同研究で、OECD(経済協力開発機構)加盟国の中でも貧困リスクが高い日本の母子世帯の子どもの空間的な集積を分析した。全国の市区町村データを用いたところ、母子世帯の子どもは北海道や西日本を中心に、特定の地域に集積していることが明らかになった。「低所得や人口流出といった地域特性との関連も見えてきました。貧困リスクを地域の構造と結びつけてとらえられる。これはGISならではの研究でした」
通勤時間と就業率、貧困リスクと地域特性。一見別々に見える問題も、「場所」という共通の軸でとらえることで、空間的なパターンとして見えてくる。GISは、こうした見えないつながりを可視化し、社会課題を新たな視点から理解するための基盤となる技術だ。そこから得られる知見は、新たな政策や都市のあり方を考える手がかりになる。
■GISの世界へ MITで実証した都市の不平等
いまではデータサイエンスの主要な手法の一つとして広く用いられるGISだが、1990年代の日本では、地理学や都市計画など一部の分野での活用にとどまっていた。河端教授は、どのようにしてGISに出合ったのか。
「経済と金融に興味があって金融財政を学びましたが、就職氷河期に突入してしまって。とにかく手に職をつけようと、SFC(湘南藤沢キャンパス)の政策・メディア研究科に進みました」
履修すると1級建築士の受験資格が得られる建築都市デザインプログラムに入った。しかし、途中で「私には建築のセンスがないと気づき、このまま進んでも道がないと思いました」。そんなとき、隣のGIS研究室と合同で研究をする機会があった。インターネットがまだ一般に普及していなかった時期に、SFCには最先端の環境が整っていた。
江戸時代の土地利用図をデジタル化し、寺社の位置情報と重ね合わせる。すると、寺社がどの地域にどれほど集中しているのかが、地図上に瞬時に可視化された。「魔法の箱にデータを放り込んだら、見たこともない結果が目の前に現れるような、新鮮な驚きの連続でした」。パソコンの処理速度を上げるために自分でパーツを組み立てるほど、GISにのめり込んでいった。
その関心が道をひらき、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の博士課程に進学し、都市計画専攻のGISグループに所属した。取り組んだテーマは、学術界で「spatial mismatch」として知られる、居住地と雇用機会の空間的なミスマッチだ。都市の不平等に関わるこの問題は、経済学や都市計画の分野で高い関心を集め、すでに膨大な研究が蓄積されていた。
河端教授はGISを用いて、居住地と交通手段の違いによって生じる、雇用機会へのアクセシビリティ格差を分析した。さらに、雇用アクセシビリティと、雇用面で不利な条件に置かれた労働者の就業状況との関係も検討した。膨大な研究蓄積のあるこの研究領域に、当時まだ新しい分析手法であったGISを応用し、都市における不平等を検証可能な形でとらえようとしたのである。
この研究は2002年、MIT都市計画専攻の優秀博士論文賞に加え、全米の都市計画分野における最優秀博士論文として高く評価された。MIT博士号(Ph.D.)の学位記には、「IN RECOGNITION OF SCIENTIFIC ATTAINMENTS AND THE ABILITY TO CARRY ON ORIGINAL RESEARCH」という言葉が記されている。科学的な達成と、独創的な研究を続けていく力を認めるというその言葉を、河端教授は胸に刻み、その後も研究を重ねてきた。
■逆境乗り越え、「半学半教」の教育を実践
5年の留学を終えて帰国したが、当時の日本では学会でも実務の現場でもGISの利用はまだ限られており、職探しは難航した。そんななか、手を差しのべてくれたのが、東京大学空間情報科学研究センター(CSIS)の岡部篤行センター長(当時)だった。
当初は無給の研究員だったが、まもなくCSISの機関研究員(ポスドク)として採用され、2005年には米国GIS Certification Instituteが認定する専門資格「GISプロフェッショナル」を、日本人として初めて取得した。
「日本にはGISを体系的に学べる適切なテキストがまだ少なく、あちこちから資料をかき集めながら授業を行っていました」。2012年に慶應義塾大学経済学部の准教授として着任すると、自ら入門シリーズのテキスト執筆に取り組んだ。
河端教授が重視するのは、「教える」のではなく「考えさせる」教育だ。
たとえば、2年生向けのオープンゼミでは、「ハンバーガーショップを出店するなら、どこにするか」をテーマに、コンセプトや客層、立地の理由まで学生に考えさせる。GISは商圏分析など実務でも活用が広がっており、現実の課題と結びついた学びになる。
3、4年生のゼミでは、テーマ設定も学生主導だ。「細かく指導するより、学生主体で考えたアウトプットのほうが圧倒的にいいんです。GISに30年以上携わってきた私が、学び始めて間もない学生に新しい使い方を教えてもらうこともある。まさに『半学半教』(※)です」
(※「半学半教」:教える者と学ぶ者との師弟の分を定めず、先に学んだ者が後で学ぼうとする者を教える。教員と学生も半分は教えて、半分は学び続ける存在という、慶應義塾草創期からの精神)
■震災で変わった認識、データのオープン化が後押しに
いまや私たちの生活には、多くの場面でGISが活用され、意識しないまま恩恵を享受している。新型コロナウイルスの感染拡大時に公表されたクラスターマップも、その一例だ。河端教授も、ここまで当たり前に使われる社会が訪れるとは想像していなかったという。
「GISが注目されるようになったきっかけの一つが、1995年の阪神・淡路大震災です。それまでは紙の地図や個別の資料を見比べながら情報を把握する場面も多くありました。しかしGISを使えば、空中写真や道路ネットワーク、被害情報などを地図上に重ね合わせることができます。被害の状況や、支援・復旧に必要な経路を把握しやすくなり、GISの有効性が広く認識されるようになりました」
2007年には地理空間情報活用推進基本法が制定され、制度的な枠組みが整えられた。ただ、当初は利用できるデータや活用環境が十分とはいえず、普及にはなお時間を要した。大きく動いたのは、2010年代に入ってから。
「国や自治体が保有するデータの整備・公開が進み、使えるデータが一気に増えました。たとえば国土交通省が整備を主導するPLATEAUの3D都市モデルは、建物や土地利用などの都市情報を三次元で表現したデータで、私の授業でも扱っています」と、河端教授は言う。
さらに、ツールの進化も普及を後押しした。かつては専門的な操作が必要だったGISも、現在は直感的に扱える環境が整い、ウェブ上で利用できるサービスも広がっている。
こうしたデータと技術の進展が相まって、GISは社会に不可欠な情報インフラになった。「2022年度から高校で『地理総合』が必履修科目となり、地図やGISに関わる地理的技能をすべての高校生が学ぶようになりました。活用できる環境は整っていますが、それを使いこなせる人材はまだ十分ではありません。人材育成がますます重要になっています」
■ジオAIと高精度3Dデータが導く新時代
次の世代はGISをどう使いこなし、どのような未来を描いていくのか。可能性が広がるなかで、河端教授がいま関心を寄せているのが「ジオAI」だ。
「地理空間情報とAIを組み合わせるジオAIは、最近、急速に広がっていて、とてもおもしろいと感じています」。ジオAIを活用すれば、災害リスクや都市・地域の変化を予測したり、課題が生じた際には状況を迅速に把握し、さまざまな情報を踏まえて対応を総合的に検討する手がかりを得たりできる。
さらに、ゲームチェンジャーとして期待するのが、3D都市モデルや3D点群データなどの高精度な3D地理空間情報だ。
3D都市モデルとは、建物や道路など、都市空間を構成するさまざまな要素を3次元で再現し、用途や構造などの属性情報と結びつけた地理空間データである。建物の位置や高さ、形状、用途、道路や交通施設の立体的な構造などを、定量的に把握する手がかりになる。たとえば、浸水リスクの想定や都市計画、防災など、都市空間を立体的にとらえる分析に活用できる。
一方、3D点群データは、地形や構造物、樹木などを、高さ情報を含む無数の点の集合として記録したデータである。建物の細かな形状や地形の起伏、植生の高さや広がりなど、現実の空間を詳細かつ立体的にとらえることができる。
たとえば、静岡県熱海市で2021年に発生した大規模な土石流災害では、発生前後の3D点群データを重ね合わせることで、盛り土が崩れた範囲や土砂の流出状況を定量的に比較・把握できたという。
PLATEAUの3D都市モデルや、静岡県などが公開する3D点群データは、G空間情報センターなどからオープンデータとしてダウンロードし、利用できる。河端教授は、こうした高精度3D地理空間情報を用いて、都市におけるさまざまな課題をより立体的に分析することに関心を寄せている。
豊富なオープンデータとツールの進化。新たな分析技術と、長年の知見の蓄積。こうした要素が重なり合うなか、河端教授の研究は、都市の現状を読み解くだけでなく、より安全で持続可能な都市・地域のあり方を構想する「未来の設計図」を描く段階へと進みつつある。
構成:朝日新聞GLOBE+編集長 玉川透
取材・文:渡部麻衣子
写真:山田英博