うれしいと胸が高鳴り、悲しいと涙が出る。私たちは直感的に「感情が先にあり、身体が反応する」と考えがちですが、実はその逆かもしれません。慶應義塾大学文学部心理学専攻の寺澤悠理教授は、心拍や呼吸など身体内部の状態を感じ取る「内受容感覚」に着目し、感情が生まれるメカニズムを解き明かす「感情神経科学」の第一人者です。感情は、私たちがどの方向へ進むべきかを示す「方向指示器」であり、その基盤には身体反応があると説く寺澤教授。脳から「外(機械・身体)」へ働きかけ、失われた機能の再建を目指す牛場潤一教授のBMI研究【前編】に続いて、【後編】は、身体から「内(脳・心)」へと届く信号を読み解く寺澤教授の挑戦に迫ります。
プロフィール
寺澤 悠理(てらさわ・ゆうり)
教員・研究者/慶應義塾大学 文学部心理学専攻 感情神経科学研究室 教授2005年3月、慶應義塾大学文学部心理学専攻卒業。2007年3月、慶應義塾大学大学院社会学研究科心理学専攻修士課程修了。2010年3月、同博士課程単位取得退学。2011年4月、(独)国立精神・神経医療研究センター精神生理研究部研究員。2013年2月、博士(心理学)。2014年4月、慶應義塾大学文学部心理学専攻助教。2019年4月、同准教授。2026年4月から現職。
プロフィール
寺澤 悠理(てらさわ・ゆうり)
教員・研究者/慶應義塾大学 文学部心理学専攻 感情神経科学研究室 教授2005年3月、慶應義塾大学文学部心理学専攻卒業。2007年3月、慶應義塾大学大学院社会学研究科心理学専攻修士課程修了。2010年3月、同博士課程単位取得退学。2011年4月、(独)国立精神・神経医療研究センター精神生理研究部研究員。2013年2月、博士(心理学)。2014年4月、慶應義塾大学文学部心理学専攻助教。2019年4月、同准教授。2026年4月から現職。
■身体は常にサインを送っている?
寺澤教授の研究で最も重要な鍵を握るのは、「内受容感覚(Interoception)」だ。
五感が身体の外の世界を知るための感覚であるのに対し、内受容感覚は身体の中の状態を知るための感覚を指す。具体的には、心拍、呼吸、胃腸の動き、体温の変化といったものを感じる感覚を意味する。
寺澤教授は内受容感覚を、自分の中の方向性を示す「内なる羅針盤」と位置づける。この感覚の生じ方には個人差があり、感覚が過敏になったり鈍くなりすぎたりすると、感情の豊かさが損なわれたり、逆にストレスへの弱さが高まったりするという。つまり、内なる羅針盤がうまく働かないと、私たちは自分を良い状態に導く方向に舵(かじ)を切ることが難しくなってしまうのだ。
「身体は常にサインを送っています。小さな声を脳がどう受け取るか、その『通訳の精度』が私たちの心の安定を左右しているのです」と、寺澤教授は語る。
彼女がこうした心と身体のつながりを研究するきっかけになったのは、大学生の頃に知った「ジェームズ・ランゲ説」として知られる感情の古典的な理論だった。1880年代に提唱されたこの説は、自分を興奮させるような出来事を知覚した際に、まず身体に変化が起こり、それを感じることによって感情が生まれると説くもので、現在は「末梢(まっしょう)起源説」と呼ばれている。冒頭で紹介した、「悲しいと涙が出る」のではなく「涙が出るから悲しい」というのは、その一例だ。
「私たちは日常的に、緊張すれば心臓が速く動き、不安になれば呼吸が浅くなることを実感しています。もしこれが感情の結果ではなく原因だとしたら、私たちの心はもっとダイレクトに身体とつながっているのではないでしょうか」
この気づきが、彼女を研究の道へと引き込んだ。
また、19世紀の鉄道建設現場で起きた、有名なフィニアス・ゲージの症例も、研究の大きなヒントとなった。ゲージは爆発事故で鉄の棒が頭(前頭葉)を貫通するという悲劇に見舞われながらも、奇跡的に一命を取り留めた人物。事故の前は温厚で誠実な性格だったが、事故後は非常に短気で無責任、かつ社会的な規範を守れない人格へと激変してしまった。
さらに寺澤教授の興味を引いたのは、ゲージと同じ脳領域に傷を負った症例では人格や感情だけでなく、手に汗をかくといった身体反応までもが変化し、それが行動の変化と関連している、ということだった。
「身体反応が感情に何らかの影響を及ぼしているとは思っていましたが、それまでは調べるすべがありませんでした。でも、認知神経科学が発達して脳の活動を見ることができるようになり、同時に身体の反応や感情のデータも取れる時代になったことで、この研究を深めてみたいと思いました」
■驚いた「アレキシサイミア」の研究
研究を続ける上で突破口となったのは、「アレキシサイミア」という心理特性に出合ったことだった。
アレキシサイミアは、日本語で「失感情症」と訳されるが、元のラテン語では「感情の言葉を失うこと」を意味し、自分の感情を認識し言語化することが難しい特性をいう。
彼らは決して感情がないわけではない。何らかのモヤモヤした気持ちがあったときにそれが怒りなのか、不安なのか、悲しみなのかといったことを言葉にできない。心身にストレスを抱えているにもかかわらず、周囲にその感情をうまく伝えられない。
たとえば、職場の状況のせいでストレスが生じているのに、それを改善するアプローチには目が向かず、身体の不調だけに注目して薬を飲んだり、お酒に頼ったりしてしまうようなものだ。
寺澤教授は、このアレキシサイミア性が高いとされる摂食障害の人と健常者に対し、「恐怖」「怒り」「悲しみ」「喜び」の四つの感情が、身体のどのような反応と結びついているかをイメージし、描いてもらう実験を行った。
その結果は寺澤教授も驚くものだった。健常者は四つの感情を切り分けてとらえ、異なる身体反応のイメージを持っていたのに対し、摂食障害の人はイメージの描き方にあまり差がないことがわかった。言葉と身体の反応のマッチングができておらず、感情のカテゴリー化がうまくいっていないことが示されたのだ。
この発見は、感情と身体反応の結びつきに個人差があるだけでなく、摂食障害の人には身体の声を脳に届ける回路に「変調」が起きていることを示している。現代社会に多い、原因不明の体調不良に苦しむ人々を救う大きなヒントになるものだ。
■脳の回路は変えられるか
寺澤教授の深い問題意識は、さらに画期的な発見を導いた。国立精神・神経医療研究センター行動医学研究部心身症研究室室長(当時)の関口敦氏との共同研究から、内受容感覚に意識を向けるトレーニングによって「脳の回路」が変わり、メンタル面の不調が改善される可能性があることを実証したのだ。
そもそも脳は、島皮質や脳幹といった領域が協応して働くことで、予測と制御が実現されている。不安を強く感じやすい人は、予測経路が強すぎて、実際には呼吸がそれほど浅くなっていないのに、「息苦しい」と感じてしまうのだという。
寺澤教授らのグループは、内受容感覚の調整を通じてこの二つの領域のバランスがうまく取れるようになることが、息苦しさのような身体反応にひもづいた不安を減らす鍵になるのではないかと考え、ある実験を試みた。
まず、14人の大学生に1週間、1日80回、1回につき10~20秒ほど自分の心拍を意識するトレーニングを行った。被験者は、スピーカーから流れる「ピッ」「ピッ」「ピッ」という音と、自分が感じる心拍が一致しているか、ずれているかを答える。
実験プログラムではスピーカーの音をわざと被験者の心拍とずらしたり、一致させたりする。被験者が正確に言い当てられなければ、「不正解」となる。
被験者の中には、正解・不正解をフィードバックすることで、正解率が向上する人がいた。こうした人たちの脳を調べたところ、島皮質と脳幹の活動の連結性が強くなり、トレーニングによって脳に変化が生じたことがわかった。
さらに、トレーニングの前後で心身の状況を尋ねると、トレーニング後のほうが身体症状の訴えが減り、不安も低減した。つまり、内受容感覚は調律することが可能であり、自分の身体に耳を澄ませるという能動的なアクションが脳のはたらきそのものを変え、不安を和らげるという科学的な裏付けが得られたのだ。
この実験は、被験者が14人と限られた「モデル研究」の位置づけではあるものの、海外からも注目を集めた。寺澤教授はこの研究を発展させ、内受容感覚をトレーニングするためのスマートフォンのアプリをつくることも視野に入れている。
■「気のせいだよ」は的外れかも
寺澤教授の研究は、ストレス社会を生きる私たちに、自分自身と向き合うための科学的な対処法を教えている。
たとえば、不快感があるのに、それがどういうものかうまく言葉に表せない、というモヤモヤを抱える人は少なくない。だが、彼らに「気のせいだよ」「気の持ちようだよ」といったアドバイスをすることは的外れになりかねない。目に見える形で身体に不調が表れていないとしても、何らかのストレスが存在しており、それをうまく言葉にできないだけかもしれないからだ。
心理・社会的ストレスに関連した便秘や下痢を繰り返す「過敏性腸症候群」の人に、寺澤教授がカウンセリングをした際にも、「気のせいだよ」と言われて悩む人がいた。一方、カウンセリングで関わった病院では、メンタル面のケアと消化器への処方を同時に行い、心と身体の両面をみることで症状の改善につなげていた。
実は寺澤教授自身、高校生の頃に原因がよくわからないまま心と身体のバランスが取れなくなり、学校に行きづらくなった時期があった。それが大学で心と身体を総合的に学ぶ原点になったという。
心の問題を頭の中だけで解決しようとするのではなく、まずは自分の身体が発している小さなサインに正しく気づき、それを適切に処理できるように導くことが大切だと、寺澤教授は説明する。
いま、寺澤教授が特に力を入れているのが、月経前症候群(PMS)や月経前不快気分障害(PMDD)といった女性の健康課題に対する研究プロジェクトだ。
プロジェクトでは、月経周期に伴う自律神経の変化と内受容感覚の感じ方にどのような関わりがあるのかに着目する。これまでの研究で、日頃から内受容感覚に意識を向けやすい人はPMSやPMDDが強い傾向があり、月経前の「黄体期」に心と身体の不快感を覚えやすいことがわかってきた。
このような人たちは、心身の調子が良い「卵胞期」(月経開始から排卵まで)には心拍や呼吸に意識を向けることで落ち着きを感じられる一方で、月経前にはホルモン分泌に由来する自律神経の変調のためにこのような落ち着きを感じられず、不安やイライラにつながってしまう。こうしたメカニズムを知るだけで、自分自身と付き合っていく手がかりになると期待されている。
■「脳から外へ」と「身体から内へ」に共通点は
脳と身体の関係については、「前編」で紹介した理工学部の牛場潤一教授が進めるBMI(ブレーン・マシン・インターフェース)研究も世界的に注目を集めている。
牛場教授の研究は、脳の信号を外へ取り出し、まひした体を動かす「出力」の再建をめざすというものだが、これに対して寺澤教授の研究は、身体の微細な変化を脳が読み取る「入力」に焦点をあてている。
「脳から外へ」「身体から内へ」という両者の研究は対照的に見えるが、共通点はあるのだろうか。寺澤教授は言う。
「『脳がわかれば人の心のすべてがわかるのではないか』、逆に『心を知るために脳の研究はあまり役に立たない』という考え方を目にすることがあります。でも、心と身体と脳は密接につながっています。切り口は違いますが、人間を理解するために脳と身体のつながりが鍵になる、と考えている点で、結節点はあるのではないかと思います」
構成:朝日新聞GLOBE+編集長 玉川透
取材・文:澤木香織
写真:山田英博