慶應義塾

【新塾長対談】「慶應義塾の目的」の実践へ向けて

公開日:2021.07.08

登場者プロフィール

  • 国谷 裕子(くにや ひろこ)

    政策・メディア研究科 特任教授その他 : 東京藝術大学理事その他 : 自然エネルギー財団理事その他 : 国連・食糧農業機関(FAO)親善大使

    米ブラウン大学卒業。1989 年からNHK衛星放送「ワールドニュース」キャスター、93年から23年間、NHK総合テレビ「クローズアップ現代」キャスターを務める。2016 年から、SDGs(持続可能な開発目標)の取材・啓発を中心に活動を行っている。

    国谷 裕子(くにや ひろこ)

    政策・メディア研究科 特任教授その他 : 東京藝術大学理事その他 : 自然エネルギー財団理事その他 : 国連・食糧農業機関(FAO)親善大使

    米ブラウン大学卒業。1989 年からNHK衛星放送「ワールドニュース」キャスター、93年から23年間、NHK総合テレビ「クローズアップ現代」キャスターを務める。2016 年から、SDGs(持続可能な開発目標)の取材・啓発を中心に活動を行っている。

  • 伊藤 公平(いとう こうへい)

    その他 : 塾長

    1965年生まれ。1989年慶應義塾大学理工学部計測工学科卒業。94年カリフォルニア大学バークレー校工学部 Ph.D取得。助手、専任講師、助教授を経て2007年慶應義塾大学理工学部教授。17年~19年同理工学部長・理工学研究科委員長。慶應義塾評議員、日本学術会議会員。本年5月28日慶應義塾長に就任。専門は固体物理、量子コンピュータ等。

    伊藤 公平(いとう こうへい)

    その他 : 塾長

    1965年生まれ。1989年慶應義塾大学理工学部計測工学科卒業。94年カリフォルニア大学バークレー校工学部 Ph.D取得。助手、専任講師、助教授を経て2007年慶應義塾大学理工学部教授。17年~19年同理工学部長・理工学研究科委員長。慶應義塾評議員、日本学術会議会員。本年5月28日慶應義塾長に就任。専門は固体物理、量子コンピュータ等。

2021/07/07

「慶應義塾の目的」

国谷

この度は塾長へのご就任おめでとうございます。

伊藤

ありがとうございます。

国谷

塾長というのは、幼稚舎から大学・大学院まで見ていかれるわけです。大学の学長でもあり、経営面での理事長でもあると。これだけ多くのことを兼ねているポジションだとは知りませんでした。大変な重責です。

伊藤さんは、幼い頃から慶應が目指すことをいわば体の中に浸透させて育ってこられ、「生粋の慶應人」と表現されている方もいらっしゃいます。

伊藤

小学校から大学・大学院までを一貫する教育機関というのは世界でも珍しい存在です。幼稚舎・横浜初等部で好きなことに取り組んできた生徒が、中学に進学すると受験勉強で鍛えられた生徒に出会う。このように、余裕を持って取り組んできた人と、勉強をしっかりした人たちが合流することを繰り返して大学までいく。この伝統を大切にしながらも、社会を先導するという新しさを常に一貫教育が持っていなければと思っています。

これからの社会は10年、20年で明らかに変わっていき、慶應義塾の目標はその変化を先導することです。「全社会の先導者たらんことを欲するものなり」という「慶應義塾の目的」の結びです。この「慶應義塾の目的」というのは福澤諭吉先生が1896(明治29)年に行った演説の結びの言葉で、その部分を福澤先生が書幅にしたわけですね。

「慶應義塾は単に一所の学塾に自から甘んずるを得ず、其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言うのみにあらず、躬行実践以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」

慶應ファミリーが大好きな「気品の泉源、智徳の模範」が目立ちますが、慶應義塾の目的の結論は全社会を先導するということです。その目的のためには、世界中の人と一緒に取り組まなければなりませんし、正しい仲間と一緒に物事を進めていかなければならない。先導者には当然のことながら義務が伴います。ただ自分たちが良くなればいいわけではなく、本当の意味で、いろいろな形でいろいろな人と共に取り組んでいくことで、良い社会を実現しなければなりません。

慶應義塾の仲間は皆、いろいろな目的意識を持って一生懸命活動することによって、考え方はたとえ違っても、何かを先導しよう、社会を良くしようという力が一体となって、全体として先導者になるのだと思うのです。もしかすると反対方向に引っ張る力もあるかもしれない。でもその反作用にも意味があり、その中であくまで民主的に物事を良くしていこうという考え方です。

国谷さんがおっしゃったように、塾長というのは大学の学長でもあり法人の理事長でもあるのですが、考え方としてはどちらかというと奉仕者であって、リーダーシップというよりは、皆がよく働ける環境をつくり、この「慶應義塾の目的」を実践できるようにしてゆく立場なのだと私は理解しています。

今、民主主義の危機が言われていますが、大学というのは理想を追求するところなので、民主的な考え方で物事を良くできるということを示していきたいと思っています。

国谷

それは大変なミッションですね。全社会の先導者になろうという慶應義塾をまさに先導される。長谷山彰塾長からバトンを受け継がれるわけですが、今どのような思いでいらっしゃいますか。

伊藤

もう少し目標が低い大学だったら楽だっただろうなと思います(笑)。しかし、今さらその目的を下げることはできません。ですから、その目的を達成するために、皆で一生懸命やりましょうと張り切っていきたいと思います。聖書やコーランといった聖典があるようなものですね。この目的があるんだからやりましょうと、そのことによって皆、納得してやっていけるのではないかと思っています。

国谷

なぜ今、塾長になろうと思われたのですか。

伊藤

制度としては明確な立候補制ではないのです。他薦によって候補者が選ばれ、投票が行われ、さらには銓衡委員会というものがあり、そこで選定され、評議員会で承認されます。だから、候補者の1人になったときから覚悟を決めて、選ばれたらどうしようかと準備を進めました。真剣に考えないと、選ばれてからスタートまで1カ月しかないですから。

量子コンピュータの研究者として

国谷

伊藤さんは量子コンピュータがご専門でいらっしゃいます。量子コンピュータはスーパーコンピュータの次世代として非常に注目されています。その量子コンピュータの分野を伊藤さんはリードしてこられた。今、アメリカや中国を筆頭に世界で大競争が起きている中、学問、研究の時間を割いて、塾長になられることには葛藤もあったかと思います。

伊藤

量子コンピュータの研究は1998年から始めました。もう23年前のことですが、その頃から量子コンピュータ研究に取り組んだ人は限られています。ちょうど、ごく一部で量子コンピュータが話題になり、そこに目をつけた欧米の物理学者仲間が研究を始めたのです。上手いくはずがないとも言われましたが、量子力学を使って計算ができるというのは私たち物理学者の夢だと思いました。

普通の計算機では0か1の二進数を用いて計算するのですが、量子力学の0でもあり1でもあるという不確定性を使って計算するのが量子コンピュータで、今のコンピュータでは実行不可能とされる問題の一部が計算できるようになります。

量子コンピュータにつながる基礎研究を積み重ねると、学生たちも興味を持って「これは面白い」と参加してくれるようになりました。そうやって論文をどんどん書いていくと、世界の舞台で先駆的だと注目され、いろいろな研究者と国境を超えてつながりました。そして自分の研究者としての位置付けが、基礎から応用にまで拡がっていきました。

あるところまでいくと、インテルといった半導体大手が私たちの基礎研究成果などを元に量子コンピュータを開発するようになりました。大企業が装置をつくってくれるなら次はソフトだということで、3年半前に量子計算ソフトウェアとアルゴリズムを研究する「慶應義塾大学量子コンピューティングセンター」をつくり、慶應義塾のエース教員にセンター長や副センター長を任せ、私はマネージャーとして米IBMの量子コンピュータがアジアで初めて使える環境を整えました。するといろいろな日本企業がセンターに参加するようになり、企業メンバーも含めて、皆で研究ができるようになりました。

このように、そのときにやらなければいけないことを積み重ねてきた結果として、義塾の量子コンピューティングセンターが発展し、今や次世代が立派に世界をリードしていて、そこに私も一人の研究者として参加しています。この次はということで、私にとっては、さらなる次世代のための仕組みづくりに塾長として励むタイミングだと思っています。

国谷

いち早く量子力学の分野の可能性に着目され、世界の最先端のコミュニティの中にしっかりと根付いていらっしゃるので、それほど研究から自分は離れてしまうという恐れはないということですね。

量子力学はとても難しくて、量子コンピュータは6億年かかる計算が3分でできるといったことぐらいしか、恥ずかしながらわかりません(笑)。伊藤さんの見えている未来、つまり量子コンピュータが当たり前になって社会に広がっていくことで、社会は何が一番変わるのですか。

伊藤

われわれ自身、量子コンピュータが実現すると思っていたかと言えば、正直言ってわかりませんでした。しかし世界トップの研究者仲間とはすごいもので、競争と協調のサイクルの中で、IBMやグーグルが装置をつくってしまいました。一緒に切磋琢磨してきたわれわれにとっては「ついにこの日が来たのか」という感慨は格別で、生きているうちにこの日が来たことが夢のようでした。

では、これでパラダイムシフトが起きるかと言われるとまだわからない。でも慶應義塾も含めて世界トップが切磋琢磨しているので期待していてください。量子コンピュータによって良いこともたくさんできるようになりますが、計算機の大進歩は社会インフラにも影響を及ぼします。例えばインターネットのセキュリティなどが破られてしまう心配も挙げられる思います。

国谷

破られてしまう?

伊藤

つまり、暗号が解けてしまうんです。例えば一部の国は、今いろいろなところからインターネット上にファイルとしてある国の機密などを集めています。そのファイルは暗号がかかっているから今は開けませんが、今から20年後に量子コンピュータで開けるようになると、遡って全部見られるようになってしまうのです。

普通の計算機では解けないという前提でできている暗号が解けるようになってしまうので、量子コンピュータは悪いやつ、と言われることもある。しかし、これはただ単に計算機の発展であって、計算機が発展すれば今まで解けなかった問題が解けるようになるのは当たり前です。科学技術の発展によってもたらされる不都合を見越して回避するためにも最先端にいることが必要です。

研究環境のあり方

国谷

テクノロジーが社会にどんな影響を与えるかを予想しながら、どのように倫理的な基準を設け、社会的ルールをつくっていくかということが、今の社会では後手後手にまわっているように思います。テクノロジーのほうが非常に先に行っていて、倫理性、人間性などの課題が追い付いていない。

その意味でも冒頭でおっしゃったような全社会をより良くしていくために、学術、研究、学問のあり方を模索していく時代なのだと思います。大学は、より良い社会をつくっていく上で、どういう役割を果たすべきとお考えでしょうか。

伊藤

国谷さんもブラウン大学ご出身ですが、世界のどの大学でも、教員の人たちは、執行部がこんなことを言っているけど、自分たちはとにかく自分の研究をやるんだ、教育も自分たちの理想で進めるんだと考えています。民主的にしっかりと守るところは守り、1人1人は独立自尊的なところがある。しかし世界の大学では教員のバックグラウンドが多様である故に全社会を考えざるを得ず、結果として気概が高くなる。学者として、また社会人、地球人としてどうするかを常に考えざるを得ない。

国谷

気概というのはミッション(使命)、パーパス(目的)のようなものですか。

伊藤

そうです。何となく今の日本の大学だと、どうやって国から運営費や研究費を取ってくるかが優先され、細かいレギュレーションが多く、失敗が許されない世界なので、すごくいろいろなことに気を遣いながら事務的なことをやっていることが多いのです。しかし、事務作業というのは学者にとって一種の麻薬みたいなところがある。というのは、事務作業はいつまでにここまでやった、と成果がすぐに出るからです。

学問というのは、ずっとやり続けなければならず、答えを常に探し求め、なかなか見つからないものです。ですから、事務作業は逃げ場になってしまうこともあるのです。事務作業はやらなければいけませんが、逃げ場をそこにつくらないようにし、学者が本当の意味での教育と研究に専念できるような環境をつくりたいと思っています。

慶應義塾というのは幸い、学生数で言うと7割が文系です。東大や京大などの国立は7割ぐらいが理系ですが、理系の人はやはり自分のやりたいことをやるんです。私も量子コンピュータが好きで好奇心優先で研究をしてきました。ただ、この量子コンピュータが悪いことにも使われるかもしれないと想像が膨らむと、慶應義塾でもセキュリティの穴を探す人を育てて、悪いやつらと戦わせようとか考えるんですよね。

でも、そういった倫理に関わる部分はもっと文系の人たちと社会の常識や法律に照らし合わせて話し合い、皆で正しい方を向かなければいけないということなのだと思います。

国谷

しかし、資金を獲得するためには、申請書類等の事務作業を常にやっていかなければいけない。その作業も膨大だという事実もあるわけで、むしろ学問に集中する時間や環境をつくることは、難しくなっているような気がするのです。本当の意味で学問に集中できる環境を、今、大学はつくれているのでしょうか。

伊藤

それは教員の採用の仕方にかかわってきますね。ノーベル賞を取るようなスター研究者を集めても、論文発表数といった単眼的な評価に偏ると、そこには必ず分布が生じます。そこで、あの人がいるおかげでこの学部がまわっているのだという、それぞれの存在意義が大切になります。つまり、何も考えずにひたすら研究する人ばかりになると、さすがに教育が破綻するので、様々な理想を追求する教員集団を上手につくらなければならない。各学部の自治を尊重しながらも、この点を考えてもらうのが重要かなと思っています。

国谷

組織の中には目立たないけれど、実はその人のところに全部情報が集まっていたり、その人が潤滑油になっていたりすることもあります。

伊藤

独立自尊と言いますが、これは自分が独立して自分で考えることが大事だから、他の人の考えも尊重して、お互いに尊敬しあうということです。つまりお互いの良いところを見てやっていくという考えだと思います。

システムチェンジが必要な時代の大学

国谷

先ほど伊藤さんがおっしゃられたように、これから10年、20年で社会は劇的に変化し、先の見通せない部分もあります。そうは言っても、今、責任を持っている世代が、あるべき社会の未来を描きながら、そこからバックキャストして、今何をすべきか真剣に考えて、未来の世代により良い社会を残していかなければなりません。まさにSDGsは、そのことを投げかけているものです。

大気中の二酸化炭素濃度がどんどん上がっていき、世界中で異常気象が起きるなど、様々なメッセージが地球から発せられている中で、今までの研究のあり方、今までの学問の垣根、分類だけでは解決しない課題が多く生まれている。それに対してスピード感を持ち、どうやって今までの既成概念を打ち破るような発想を持った独創的なソリューションを生み出すか。食糧のシステムチェンジ、都市のあり方やエネルギー供給のシステムチェンジなど、現実に求められているものが多くあります。

例えば食糧の場合、生産から加工、流通、消費に至るまで、横串を刺しながらそれぞれのステークホルダーに加わってもらって、早くシステムを変えていかないといけない。食料システムだけで二酸化炭素の25%を排出しているので、そこを脱炭素化しなければゼロエミッションというのは達成できないと言われています。

そういうシステムチェンジのためには、多様な研究テーマが様々に絡み合いながら、独創的に新しいビジネスモデルや政策モデルをつくっていかなければならない時代になっています。そうすると、学術分野で学際横断的とよく言われますが、超学際横断的な可能性をどうやって広げていけばいいのか。SDGsを実現していくためにはそれが問われています。

伊藤

SDGsは2030年に達成すべき目標です。でも、今の大学生たちにとって2030年というのは、すぐそこの9年後であって、30歳ぐらいで達成すべきことなんですよね。そうすると、学生たちにとってはもっと先のことまで考えることが必要になってくると思うんです。

私の家族は国谷さんのプログラムが大好きで、テレビでいつも拝見していますが、やはり印象的なのは、そこに登場する若者たちです。先日は大学生たちがITを活用して廃棄されそうな食物を、必要なところに届けるフードバンクを運営している様子が紹介されていました。若者の社会意識は高い。ですから、私は、教員が学問の理想を追求しているところに横串を刺すカギとなるのはやはり学生だと思うのです。

もう1つは、特に研究を担当する常任理事などがとにかくいろいろな研究者の話を聞くことだと思います。義塾の約3千人の教員の中にどういう人がいるのかを徹底的に知ることです。それを知らないと、誰と誰をつなげたらどういうことができるかがわからないですよね。

その上で理想的なのは学生たちを巻き込み、慶應義塾として、2030年に達成すべきものを決めることだと思います。その決め方は非常に難しいのですが、まずは例えば、慶應義塾の全部の使用電力を再生エネルギーに変えるという、無理と思われるほどの理想を掲げ、そのために必要なイノベーションを考える。理想の中には実現可能なものもあるでしょう。

さらに、慶應義塾の多くの卒業生が社会で活躍してこれからの未来社会をつくろうとしているので、その方たちに参加してもらうこともできると思います。学生、教員、そして卒業生の連携です。SDGsで2030年に達成すべき目標を決めると同時に、さらにその先を考えていく。われわれが皆を巻き込むようなやり方を考えれば、良い方向性が示せると思っています。

国谷

おっしゃるように総合知が大事な時代です。SDGsを実装していくには、専門的なことだけをわかっているのではなく、自分の専門分野でないところで自分の研究がどういうインパクトを与えるのか、俯瞰的な視野を持つようになっていかなければならないですね。

総合知を育むには

国谷

学生がカギということですが、アメリカの大学寮で若き学生だった伊藤さんは、いろいろな分野の学生たちと議論する機会があったので総合知の大事さを理解したとおっしゃっています。具体的にはどんな議論をされて、どんな気付きがあったのでしょうか。

伊藤

よく覚えているのは、まずいろいろな宗教の人と大学院の寮で出会ったことですね。私はカトリックなのですが、プロテスタントのいろいろな宗派の教会やユダヤ教の礼拝に行ったりして、宗教の違いというのはこういうものなのかと知りました。

もう1つ、韓国や中国出身の仲間たちと、英語という共通言語で近現代史の話をして、例えば中国や韓国では日本のことをこのように教科書で習ったと聞くと、もう目から鱗なんですね。大学院1、2年生が中心の寮なので、これからの夢について皆で語る中で、自分は英文学の研究でこういうことをやりたいんだと議論したり、経済学の人から数学を教わったりしました。

慶應義塾の場合、キャンパスが分かれているので、様々な学部の学生が一堂に会して話せるような環境は今、難しい状況です。そういう部分をどうやって横につなげるかといった時に、SDGsでやらなければいけないことを決めれば、これは自分たちのためだし、社会や世界のためだという意識で、興味を持ってくれる学生は多いだろうと期待しています。

国谷

私は23年間「クローズアップ現代」を担当したのですが、番組の中で課題が出てきてそれを分析し、これが解決策だと思って紹介したことが、数年経つと、その解決策からより深刻な問題が起きているケースに出会うことがあります。自分は一体何を伝えたんだろうかと非常に戸惑いました。やはり、俯瞰的なまなざし、あるいは総合的な対応が必要であって、1つの課題に対して1つの視点での解決策というものは、むしろ社会を悪くさせる可能性もあるのだと気が付いたのです。

2015年にSDGsと出会って以来、取材、啓発活動をしていますが、おっしゃるように、未来について非常にみずみずしい感性を持った若い人たちが、早くから俯瞰的で総合的な視点を持って複眼的に考えられるということはとても大事なことです。

特に日本においては若手研究者にグローバル化ということが求められていますが、大学のグローバル化とはそもそも何かということがとてもあいまいなような気がしています。留学生の数、海外留学する人たちの数、国際共同研究の数とかいろいろ指標はあるのですが、伊藤さんのお考えになる大学のグローバル化というのはどういうことでしょうか。

伊藤

一言で言えば国際的な目線で、大学のレピュテーション(評判)が高まるということだと思います。またはその大学の学生のレピュテーションが高まる。もうこの2つに尽きると思うんですね。

それは指標によるものではなくて、「あの大学の人たちは信頼ができる」ということです。例えば歌舞伎役者は英語を話せなくても、世界中の人たちがリスペクトして歌舞伎を見たいと思う。だから、そういう学問が展開できるかどうかということだと思うのです。日本語で書かれている論文であったとしてもそれを知りたい、英訳してほしい、という状態にするのが理想だと私は思っています。

世界大学ランキングを上げるための指標はいくつもあります。例えば世界中の人と一緒に論文を書くという共著論文の数ですが、そのことだけのためであればサイテーション(引用)が多くなるような理工系や生命科学系の研究者をどんどん採用すればよい。しかし、レピュテーションを高めるというのはそれとは別のことだと思います。

国谷さんのレピュテーションが高いのは、「クローズアップ現代」の視聴率が高いからではなくて、その番組の中で取り組まれたことが評価されているからだと思います。番組の中で様々な識者との極めてハイレベルのインタビューを披露して、世界の方々とつながっていくことで、国谷さんのレピュテーションが高まったのだと思います。そういうことを日本の大学も、やっていければいいなというのが私の感覚です。

社会を変えるための議論

国谷

恐縮です。学生の留学意欲がなくなったと言われることについてはいかがですか。

伊藤

それは海外に出たほうがいいですね。

国谷

慶應の学生がどうかはわかりませんが、日本全体では留学を目指す日本の学生が減っていると言われている。今、世界を見ると学生たちの声が政治を動かしたり、大きなムーブメントをつくったりしていますが、日本の中では学生たちの存在感があまりなく、これは言い過ぎかもしれませんが、保守化して、利他的よりも利己的な部分が強くなっているようにも思います。

伊藤さん自身は本当に若い頃から積極的に海外へもお出になり、ご活躍されてきましたが、今の若い学生たちのことはどのように見えていますか。

伊藤

先ほどのバークレーでの経験ですが、学生が政治についても盛んに議論していました。バークレーはリベラルで人権意識が特に強い所です。1989年当時、同じ寮の人に自分はHIVキャリアだと言われ、どう接していいかわからないぐらい驚いたり、もちろんLGBTの人も普通にいました。

そういった人たちが自分の人権を確保するために、政治的な活動にすごく熱心なわけです。それを見ているので、日本の若者の政治離れが気になる。政治的な発言をしない、ディスカッションをしないというのは結構大きな問題だと私は思っています。

日本では、なんとなく宗教や政治信条は話してはいけないような風潮があると思うのですが、何かを変えようと思ったら政治が大切だし、志を持った人が増えて、初めて良い政治家が増えていくわけです。ですから、自分たちが何かを変えていくためには、日本国内の政治も変えていかなければならないと思います。

例えば今の政治状況に対して慶應義塾でもいろいろな意見の教員がいるので、その教員たちが意見を戦わせるのを見せていくのも1つの手かなと考えています。「多事争論」という福澤諭吉の言葉がありますが、まさに「多事争論」ですね。

国谷

社会を変革していくためにはSDGsを実装していかなければなりませんし、そのスピードも求められています。SDGsは研究、指標、ルールづくりと同時に政策とリンクさせていかないと方向性が変わっていきません。ですから研究、テクノロジーを進めていくためには、どういうインセンティブや規制を設ければ効果的かといったポリティカルな部分も重要です。

社会のあり方を変えていくには、技術も、政策も必要、デザインも必要であって、人文系の発想がとても重要です。ですから大学が果たす役割はますます大きくなってくると思います。

学生への期待

伊藤

そうですね。特に慶應義塾の場合は大学だけではなく、小学校から大学院まであります。政策・メディア研究科教授の蟹江憲史さんが中等部でSDGsの授業をやったところ、非常に新しい発想が出てきて面白かったと言っています。蟹江さんみたいな専門家が中学生に教えると、深いディスカッションができるということもあるでしょう。でも、蟹江さん1人では駄目なんですね。蟹江さんから習った学生たちがさらに誰かに教えるという形で規模を拡大していく必要があります。

学生たちは教え学び合うことが得意です。実際に2年前に「AI・高度プログラミングコンソーシアム」という、日吉キャンパスで、AIやプログラミングができる学生が他の学生に教えていくプログラムをつくったのですが、このプログラムでは、単位にもならないのに皆が夜集まってしっかりと勉強するのです。

この春学期はオンラインですが、2千人以上の学生たちがこれで学んでいます。適塾モデル、すなわち半学半教のモデルなんです。学問とビジネスのギャップを埋める学びの場なんですね。

国谷

どういうことですか。

伊藤

研究を始める前の大学生にとっては、学問とは必修科目や選択科目などから学ぶことを指します。しかし、AI活用のように日進月歩のツールについては学問として体系化されていないので科目になりにくい。でも、実際にシリコンバレーの会社での長期インターンシップに申し込むと、最後は「プログラミングがどれほどできますか」と問われる。さらに、米国本社とのオンライン面接になるので、英語でコミュニケーションができないと駄目なのです。

やはり学生たちから見ると、学問とビジネスの間にギャップがあるのです。ですから、大学の先生たちがやらないものを、学生同士で学ぶ場をつくると相乗効果が生まれる。

AIコンソーシアムではメンバー企業を募って資金提供をいただき、そこから教える側の学生に給料を払っているんです。運営するための広報チームの学生にも給料や謝金を払っています。SDGsもそういう方向に持って行ければという期待を持っています。

国谷

そうなんですか、素晴らしい。お金も伴うのであれば、より責任を自覚することにつながります。

伊藤

スポンサー企業を担当する学生が割り当てられ、連絡や企画もその学生が担当するのですが、メールのコピーは常に教員と職員にも送られてチェックされ、必要な指導を受けています。

国谷

今のお話を伺うと人材育成のエコシステムみたいなものが生まれているような感じもします。まさに若い人たちの力をどうやって早くから引き出して伸ばしていけるかということだと思いますが、今、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の主筆に日本の若い人がなっている分野もあるのです。

どうやって主筆を任されるようになれたのか、と聞くと、やはり自分の担当教授が背中を押してくれて、どんどん国際会議の場で発表させてくれたと。英語が苦手だけど会議では絶対に1回は発言をしようと努力をしていたら、コミュニティの中に入れてもらえて、ではこの分野をお願いねと言われたそうです。

研究がつながる好循環

国谷

先ほどグローバル化とは慶應の国際的なレピュテーションを上げていくことだと言われました。ではどうやって慶應の中で若い学者が国際的にインパクトのある研究において、名指しで研究を頼まれるようなシステムをつくっていけるのでしょうか。

伊藤

慶應義塾の学生時代に私よりずっと優秀な人たちが日本の企業に就職をしていった中で、なぜか私がバークレーに行って博士号が取れた。であればもっと多くの優秀な学生を日本から世界の大学院に出してあげたいと思って私は慶應義塾の教員になったんです。とにかく良い推薦状を書いてあげるという単純な発想だったのです。

ところが、私の研究室の研究を通してこの学生はこんなにすごいんだ、という説得力のある推薦状を書くためには、非常に単純な話ですが、「自分は世界に響く研究をやらないといけないんだ」ということになるわけです。

それで、とにかく自分の研究を頑張ってやっていくと学生たちも張り切って、どんどん研究をやって良い推薦状を携えて大学院生として世界に出ていく。そして海外の大学院で立派に活躍するので、KEIOは信頼できる大学ということになり、また次の学生が留学の道を選ぶという好循環になるんですね。

国谷

伊藤さんのレピュテーションが高いからということですよね。

伊藤

いや、レピュテーションというより、アメリカは本当に推薦状の中身を見るんです。一言で言えば信用できる推薦状かどうかを読むんです。

もう1つ、私は慶應義塾で教えながらも、40歳ぐらいまでにアメリカの大学の先生を目指そうと思い、アメリカの大学に定期的に応募していたのです。そのために、研究室の英語のホームページを充実させたり、研究内容も、日本の科研費を取るためではなくて、海外で面白いと思われるようなことをやろうと、一生懸命考えました。

結局は慶應義塾に残ったのですが、応募したことには予想外の効果がありました。応募書類が応募先のいろいろな大学の人にしっかりと読まれ、「KOHEIは面白いから」と、様々な世界の学会に招待講演者として、なぜかアメリカから推薦されるようになったのです。

国谷

なにが評価につながるかわからないものです。

伊藤

これは日本の先生たちから、「いったいどういうことだ。何をやったの」と言われました(笑)。

ともかく、良い学生が海外に行けばそれでレピュテーションが高まるし、自分も教員として応募することが非常に効く。仲間が大学院生として留学すると、日本に残った研究室の学生はそれに刺激を受けるので、私の研究室でも博士課程に進んで頑張る。そうすると、なぜかうちの研究室だけ博士の数がどんどん増えていったのです。

国谷

パイプラインができてくる。そうやって畑を耕したわけですね。

「全社会の先導者」になるために

国谷

冒頭でおっしゃった慶應が目指す全世界の社会のために、ということの底に流れている倫理性について伺いたいと思います。

伊藤

先ほど「慶應義塾の目的」を紹介しましたが、福澤先生が「単なる学塾ではないんだ」と言われると、「ではどういう学塾なんだ」と思いますよね。最後は「全社会の先導者たらん」ということですけれど、その中略の部分の埋め方というのは結構自由だと思うのです。

もしかしたら福澤先生はすごい〝つかみ〟とすごい結論をつくって、その間は意外と自由だと言いたかったのではないか。「気品の泉源」であってもらいたいし、「智徳の模範」でもあってもらいたいが、中略の部分は個人のいろいろなやり方があって、学問の自由があって、それらがバラバラな方向を向いていても、つながり助け合いながら進んでいくと、社会が次第に良い方を向いていく。この4年間は、そういうメッセージを発し続けたいなと思っています。

国谷

バラバラに向いていてもいいという自由さを支えるのが、倫理性や精神性です。その精神性の大切な部分をどうやって育んでいくかが大きな課題ですね。

伊藤

学生や教員による不祥事が起きると「気品の泉源はどうなっているんだ」と必ず問われます。それは仕方ないですね。でも私は理想を述べないといけない。慶應義塾の精神性を、全社会の先導者としてあらゆる可能性を想像して新しい社会を創造していくということです。

国谷

東京藝大でチェロ奏者のヨーヨー・マさんとお話ししたことがあります。彼はジュリアードを出てからハーバードで人類学を学んでいます。一方、アメリカの科学者は音楽を学んでいる方が多い。なぜ科学者が音楽を学ぶといいのか。ヨーヨー・マさんは、音楽では「こう弾いたらどうだろうか」と常に実験を繰り返し、失敗し続ける。だから、科学者が楽器をやることで失敗への耐性が付くのだと話されていました。サイエンスだけ優秀で勉強していると、自分の研究が失敗した時、折れやすいと。

アップルのスティーブ・ジョブズはいつも、「イノベーションというのはリベラルアーツとテクノロジーの交差点で生まれるものだ」と言っていたそうです。やはり人文系と理系の融合、接点は現代において大事なのだと思います。

日本の大学で不思議なのは、学部入試がどうしてずっと続くのだろうかということです。アメリカは学部別の入試はないですよね。人文系と理系の融合だったり、クロス・インターセクションというものを多くつくっていくために、本当に学部入試がいいのだろうかと思っているんです。

伊藤

私も若い頃は雑誌のインタビューで「学部入試は要らない」と答えたことがありましたが、その時は助手という役職だったので問題になりませんでした(笑)。ただ例えば理工学部の例をあげると、大雑把に言うと6割強が一般選抜、いわゆる入試で、残りの4割は推薦型で指定校からの推薦と慶應義塾の高校からの入学者数がほぼ半数ずつ、さらには総合型選抜(AO入試)、帰国生入試や留学生入試からの入学者もいるので、多様性という意味では、ある程度確保されているかなと思います。先ほど述べましたとおり、一貫教育校の自由闊達にやってきた学生と、入試で入ってくるあるディシプリンができた人が合わさって、そこでまた新しいコミュニティができてくるということが慶應義塾の特色です。

後はそういうモデルを、今後、社会が変わっていく時にどうやって発展させていくかです。SFCはそういうところはずっと柔軟で、AO入試と一般選抜入試を上手に組み合わせて、多様性のある学生を採っている。そのあたりは各学部の経験と目標に基づき、工夫をしているのが今の慶應義塾の状況です。各学部の自治(独立自尊)を重んじながらも、どのように留学生を増やしていくか、多様性を確保していくかは、カリキュラムの工夫や大学としての魅力の強化なども含めて考えていかなければなりません。理想は全社会の高校生が「ここで学びたい」と思う学塾となることですよね。その魅力に基づき入試制度も改新していくことが理想だと思います。

慶應義塾大学病院の先端医療

国谷

慶應病院・医学部のことをお聞きしますが、今日、岡野栄之教授がIPS細胞を使った研究によって見つけられたALS治療薬の有効性が確認できたというニュースが出ていました。

伊藤

岡野さんは世界トップの研究者の1人ですが、他にも多くの優れた生命科学者がいます。また、私はある時に病気をして慶應病院の先端医療で治してもらった経験があります。以来、医学部や病院の医師や研究者たちと密に過ごす時間が多くなり、薬学部や看護医療学部も含めて、慶應義塾が全体として世界トップレベルで先端医療を追求する姿を目の当たりにしてきました。

日本では医療保険が整備されているので、どなたでも同じような状況で治療が受けられる。例えば私が受けた治療は、費用対効果が悪く、欧米では実施しない。よって私は助からなかったのです。でもそれを、保険適用として、私だけに限らず他の人にも平等に施すというのが慶應医療のすごいところです。

国谷

そうですね。日本の医療システムの良いところですね。

伊藤

しかもそれが先端医療を切り拓く道でもある。慶應医療はそういうことに取り組んでいるのです。

一方、慶應義塾の経営を任された立場としては、保険医療という枠組みのなかで先端医療を追求することは経営的にとても厳しい。よって私が病気を経験しなければ、現場の医療スタッフのすごさがわからずに、無駄なのではと勘違いしたかもしれません。でもコストがかかって症例は少なくても、それをやることによって世界から大変な注目を浴びるのですから、そのレピュテーションはすごいものです。実際に他では治せない患者を受け入れています。それも誰でも平等に! この良さを保ちながらも、病院経営を無理なく向上させる方策を考えていきたいと思います。

かけがえのない学生生活への責任

国谷

塾長になられて取り組みたいことは、リストアップされていますか。

伊藤

学部2年生がこの1年半、新型コロナによって普通のキャンパスライフを送れないままなんですね。大学のミッションの1つとして、大学生活を人生の好循環の起点にしてもらいたいということがあります。ここに来たから、よい仲間、生涯の友にも出会えたし、慶應義塾での学びや経験が将来につながっていくという、よい人生のスタートを切れる場所にしてあげたい。

よって、今の2年生たちが、慶應義塾大学を選んで良かったと思って卒業できるかが勝負です。コロナ禍の中でも慶應義塾で学んで良かったと思ってもらえるような環境をなんとかしてつくりたい。

国谷

時間を取り戻せないですものね。

伊藤

そうです。いくら、世界では貧困で苦しんでいる可哀想な人がいます、君たちは恵まれているのだから我慢しましょうと言っても、やはり学生にとっては4年間が自分の学生生活ですから、それはかけがえのないものです。大人から見たらたったの4年間に見えるかもしれないけれど、それは全然違うのです。

大学生・大学院生のために何ができるかに加えて、一貫教育校の小中高生のために何ができるかを考えることが私の責任です。

国谷

いや、本当に重責ですね。

伊藤

本当に重責です。ただ、素晴らしい10名の仲間が常任理事に就任してくれました。優秀で、責任感が強く、国際感覚に優れ、学生思いで、前向きで、各部門としっかり議論ができる人たちです。新しくSDGsや起業家教育の支援も任務として加えましたので頑張っていきたいと思います。

国谷

ミッションの伝道者として大変期待しております。今後ともよろしくお願い致します。

(2021年5月21日収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。