慶應義塾の一貫教育は、しばしばケタ外れの逸材を生み出すが、明治維新直後にそれを先取りしたのが門野幾之進(かどのいくのしん)であったといえようか。彼は安政3(1856)年、鳥羽藩の重役の家に生まれ、明治維新後すぐ、藩の派遣留学生として上京し、福澤諭吉と出会った。英語で勉強する日本随一の学校であった慶應義塾には、全国から優秀な若者が100名以上集まっていた中で、幾之進は15歳にして教師に抜擢され、見た目はあまりに子供だったので、「ボーイ教師」とあだ名されたのである。初期の教え子の中には、年上だった犬養毅もいた。30年以上にわたって教壇に立ち、福澤が没すると、義塾を辞して千代田生命保険相互会社を創立し、実業界に活躍の場を移した。しかし、その後も慶應義塾社中の長老として慕われ、常にアドバイザー的役割を果たし続けた。最晩年の昭和10(1936)年にも、小泉信三塾長の渡米に際して、留守中の塾長事務取扱を務めている。昭和13年に没すると、その葬儀は三田山上の大講堂で行われた。
この日記は、明治31(1898)年4月から翌年3月にかけて、幾之進が欧米の教育制度の視察に派遣された際のものである。6月9日(右図)には、フランスに到着して間もない幾之進が、地図無しで知人の下宿に到着できたことを「立派ナル巴里ノ一紳士トナリオヽセタ」と絵入りでユーモラスに記している。その後ドイツのベルリンに滞在していた11月5日(左図)、幾之進の元に1か月遅れで「福澤先生ノ大患」の知らせが届く。それは「殆ンド絶望ナルノ報」であった。「父ノ子ニ対スルガ如ク」に日本から送り出してくれた福澤を思い出す一方で、かつて時に福澤に反論して怒りを買い、「先生ノ信ヲ得ザリシ」ことも想起し、幾之進は書く。「万里他郷ノ客舎ノ一室、長椅ニ伏テ、泣涕止メ得サリシ一人アルヲ先生知ルヤ知ラズヤ」──。慟哭という言葉しか浮かばない、切実な悲しみが胸に迫る。(慶應義塾史展示館春期企画展「福澤諭吉の臨終──『独立自尊』の誕生」にて、6月18日より展示)
(慶應義塾福澤研究センター教授 都倉武之)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。