執筆者プロフィール
片山 ゆき(かたやま ゆき)
ニッセイ基礎研究所主任研究員片山 ゆき(かたやま ゆき)
ニッセイ基礎研究所主任研究員
中国の社会保障に関する経費(社会保障関係費)は、6.2兆元(約144兆円、2024年)に達し、習近平政権が発足して以降、わずか11年でその規模は3倍に拡大した。これは国の一般会計のおよそ22%を占めるに至っている。
権威主義体制が強化される中での国家財政では、国防や治安維持費、先端技術分野などへの財政投入が優先されると見られがちである。しかし、財政上、最大の支出は年金や医療を中心とする社会保障関係費である。少子高齢化が急速に進む中で今後の国家運営を考えると、この社会保障制度をどう維持するのかは看過できない課題となっている。
社会保障の役割と国家運営
人々が社会で働き、生きていく上では失業、疾病、加齢などさまざまなリスクに直面する。社会保障の目的はそのリスクにより困難な生活状況に陥った人々を税金や社会保険料を通じて助け、基本的必要を充たすことにある。
一般的に社会保障には4つの機能があるとされている。それは、①リスクに対して生活の安定・安心をもたらす社会的安全装置(セーフティネット)の機能、②社会保険料を徴収し、政府が一定の基準や必要度に応じて分配する再分配の機能、③リスクに対して共同で対処するリスク分散機能、④経済変動が個人の生活に与える影響を緩和し、経済の安定や成長を側面的に支える機能である。
中国においてこれまでの制度改革は主に①〜③に重点が置かれ、その効果として社会の安定が重視されてきた。しかし、近年、その重点は④の経済変動による個人の生活への影響緩和、経済成長への寄与に移ってきている。
背景には、経済・不動産不況に端を発する雇用不安、将来不安を受けて、消費マインドは伸び悩む一方、家計の貯蓄マインドは高まり続けている現状がある。
2025年の中央経済工作会議で「消費を中心とした内需拡大」が最優先課題に格上げされると、政府は社会保障を含む「民生」(雇用・所得補償・雇用など生活に関わる施策の総称)を拡充するとし、人々の将来不安を和らげ、消費マインドの引き上げにつなげようとしている。
一方、中国の社会保障体系の特徴は、国による社会保障制度を基礎としつつも、保険会社や民間企業、NPO、家族・地域の互助機能を積極的に組み込む体制──「福祉ミックス体制」をとっている点にある。これは欧州を中心とした国の積極的な財政投入、再分配機能による福祉国家体制とは大きく異なる。例えば、中国の公的介護保険制度は各地域で運営が任されているが、実際は当該地域に進出した保険会社が担っているケースが多い。これは中国の民間保険市場が独立した市場ではなく、国や行政(官)による強い統制を受ける市場であるからこそ成り立っていると言えよう。政府はこれを“官民連携”による制度運営と位置付け、多方面で強化しようとしている。
膨張する社会保障関係費と国家財政
冒頭で述べたとおり、社会保障に関する経費は急増している。2024年時点での年金・労災・失業・生活保護等を中心とする「社会保障・就業費」は4.2兆元、医療保険・公衆衛生を中心とする「衛生・健康費」は2.0兆元で、一般会計28.5兆元の21.9%を占める最大の支出項目となった。習近平政権以降11年間で3倍となった背景には、高齢化に伴う自然増が主因と考えられる。その理由は、習近平政権下では国庫負担を伴う大きな社会保険制度の導入はされていないからである。1つ前の胡錦濤政権下では、経済の高度成長による諸格差の是正のために、特に農村住民や都市の非就労者の年金・医療保険制度が国庫を投入して整備された。習近平政権は政権を引き継いだ時点で、その新たな財政負担と急速に進む高齢化に対峙する必要があった。
特に、支出規模の大きい社会保障・就業費のうち、67.1%が年金関連(公務員年金向け支出の37.7%と、都市の会社員を対象とした都市職工年金向け支出の29.4%の合計)となっている。つまり、社会保障の中でも、特に年金が大きな課題として頭をもたげていることになる。
年金の財政負担の増大、財源運営の圧迫、高齢化の急速な進展などを受けて、2025年からは定年退職年齢の引き上げが実施されている。2025年は定年延長を実施するとした第14次5カ年計画の最終年であり、1960年代前半から1970年代前半生まれのベビーブーム世代が全員50歳以上に達するタイミングであったことも決定を後押ししたと思われる。50歳は女性・一般職の定年退職年齢でもある。定年退職年齢は2025年から2039年までの15年をかけて男性は60歳から63歳へ、女性・一般職は50歳から55歳へ、女性・管理職は55歳から58歳へと段階的に引き上げられる。また、年金を受給する上で必要な保険料の納付期間も15年間から20年間に延長された。
政府系シンクタンク・中国社会科学院が、この一連の措置の効果を試算している。しかし、その効果は限定的と言えよう。都市職工年金の単年度収支が赤字化する時期はこれまでの2028年から2036年へ、積立金の枯渇時期はこれまでの2035年から2044年へと、いずれも約8〜9年延びるとした。
このように、定年延長は年金財政の抜本的な解決策ではなく、課題を先延ばしにしたにすぎない状況にある。年金財政の今後を考えると、受給者1名あたりの財政支出額が突出して多い公務員年金向け支出の見直し、正しい所得に基づいた保険料の徴収強化などこれまで見過ごしてきた課題に着手する時期に来ていると考える。
行政と民間企業の連携
中国の社会保障制度の特徴は、制度運営は行政のみならず、民間企業にも積極的な協力を求めている点にある。第1節では公的介護保険制度の例を挙げたが、それ以外にも、近年大きな課題となっているギグワーカーなど非正規労働者への措置が挙げられる。
中国ではギグワークやフリーランスといったフレキシブルワーカーが増加している。こういった働き方をする就労者は2億人を超え、特に、フードデリバリーやライドシェアの運転手など、スマートフォンのアプリケーションを通じて仕事を引き受けるギグワーカーはおよそ8400万人(全就業者の21%、2023年)に達している。問題はその多くが社会保険に加入できておらず、セーフティネットの外に置かれている点にある。中国ではこの課題に対して、政府・当局・企業が一体となったサポート体制の構築が進められている。
例えば、フードデリバリー最大手の美団は、希望したドライバー(ギグワーカー)に対して公的年金保険料の半額を補助している。補助支給の対象者は比較的給与の少ないドライバーである。条件としては直近6カ月の給与のうち3カ月以上が、社会保険料の最低納付基準額(前年の当該地の在職職員の平均給与の60%)に達していない場合となっている。特に年金保険料率はその他の社会保険と比べても高く、支払いが困難なドライバーも多かった。年金保険料の半額を補助することで加入に対する心理的なハードルを下げ、老後の生活に対する準備をサポートする措置となる。
また、プラットフォーム経済の拡大に伴って商品の配達が増加し、ドライバーの配達業務中の事故やケガなどが増加している。これに対して、2022年には政府がギグワーカーの業務中のケガ・疾病・障害保障についてパイロット事業を開始した。これは既存の労災保険から切り離された、ギグワーカーのための新たな保障スキームである。美団も運営当初から参加し、保障費の支払いをしている。
このように、フードデリバリー企業である美団もまた別の形で行政と連携をしている。中国では、社会保障制度を持続的に運営していく上で、民間企業が多様な形で参与している。
2035年・2049年までの国家の将来像
では、社会保障制度の将来像はどうであろうか。国家運営としては、中国共産党が2017年の第19回党大会で、2035年までに「社会主義現代化」を基本的に実現し、建国100周年にあたる2049年までに「富強・民主・文明・調和・美麗」な社会主義現代化強国を築くという2段階の長期目標を掲げている。決定内容を見ると、政策の優先度はハイレベルな経済体制の維持に加え、国家安全や社会の安定・統治といった政治体制の維持により重きが置かれている。
一方、2035年は前後して、高齢者人口が全国民の3割を超えるとされる時期でもある。また、都市職工年金の単年度収支が赤字化する時期は2036年と推計されるなど老後保障問題が顕在化する時期でもあろう。高齢者扶養率(現役世代が支える高齢者の比率)も急上昇し、2020年に1人の高齢者を5人の現役世代で支えていた構図が、2035年には2.4人、2050年には1.6人にまで減少する。社会保障制度のみならず現役世代に重い負担がかかる社会に変容することになる。
人口の急激な変化、厳しさを増す社会保障財政の中で、社会保障制度の持続性を確保するには、制度改革とともに、民間企業との多様な形での連携は更に重要となってくるであろう。一方、新たな課題として、現役世代・子育て世代への支援策拡充という世代間バランスの確保も急務となる。2035年・2049年は国家の運営目標の節目であると同時に、人口や社会、更に社会保障にとっても大きな節目となる。経済成長とそれを支える社会保障制度の持続可能性をどう両立させるかが、統治能力そのものを問う試金石となるであろう。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。