慶應義塾

堀 茂樹:AI(人工知能)と「人間の翻訳者」

公開日:2026.08.05

執筆者プロフィール

  • 堀 茂樹(ほり しげき)

    翻訳家名誉教授

    堀 茂樹(ほり しげき)

    翻訳家名誉教授

私は1994年から2017年まで教員として慶應義塾大学に勤務したが、それ以前も、その途中も、退職後も、個人的にはフランス語の日本語への翻訳を自分のメチエとし、文学作品や人文思想、歴史人類学の本や時事評論等を翻訳してきた。その関連で、口頭の翻訳である通訳の仕事にもたびたび携わった。また、そうした実践に平行して、1993年から延々今日まで、毎週1回、東京日仏学院(フランス政府公式文化センター)で文芸翻訳演習のクラスを担当してきている。

AIが答える「人間とAIの翻訳の違い」

上に述べた経歴のゆえであろう、このたび本誌編集部より、寄稿すべきエッセイの暫定的なテーマとして、「人工知能(AI)がいちじるしく進化する環境の中で、人間による翻訳に残るものとは?」という問いを賜った。


そのまま、ChatGPT、Gemini、Claudeといった代表的な生成AIに投げかけてみたくなるような問いではないか。私は早速、試してみた。すると、評判に違わず瞬く間に、大学の科目レポートであれば軽く「A(優)」評価をゲットできそうなレポートが送り返されてきた。通読してみると、自分の存在価値に不安を覚える「人間の翻訳者」を励ましてくれる──あるいは慰めてくれる──部分が少なくないので、苦笑を禁じ得ない。


Gemini曰く、「最も強調したいのは、「AIは『正解』を出そうとするが、人間は『最適』を生み出せる」という点です。データに基づく最適解(確率的に正しい訳)はAIが得意ですが、読者の心に突き刺さる『これしかない』という一文は、人間の感性と経験からしか生まれません」。


ChatGPT曰く、「もし翻訳を『原文を別の言語に置き換える技術』と定義するなら、その仕事の大部分はAIが担うようになるでしょう。しかし、翻訳を『1つの作品を自分の言語文化の中で読み直す営み』と考えるなら、人間による翻訳は別の意味で重要になります」。

AI翻訳の圧倒的優位

それぞれに首肯できる考察ではあるが、いずれも、ある特定の言語の記号体系を通して表現された知的内容を別の言語の記号体系の中で伝達するという、従来考えられてきた翻訳の基本機能に関しては、人間の翻訳に対するAI翻訳の圧倒的優位を暗黙のうちに確認し、前提としている。


この点に関して、誰かが有効な反論をおこない得るだろうか。無理だと思う。なぜなら実際に、生成AIの翻訳能力が途轍もないからだ。


まずその精度が、旧いタイプの機械翻訳とは比べ物にならない。ひと頃までの機械翻訳が、あらかじめ登録された文法規則や語彙データにもとづいて単語を置き換えていく方式だったのに対し、AIによる翻訳は、人間の脳神経回路を模した人工ニューラルネットワークを幾層にも「ディープに」積み重ねることで可能になる「ディープラーニング(深層学習)」や大規模言語モデルを活用し、文脈、背景、暗黙の前提なども含む文章全体の意味を理解し、それに最もフィットする表現を与える。しかも、恐るべき迅速さで──。


2年ほど前、現代フランスのある哲学者が主要な生成AIの1つに、試験的に自著を50頁ばかりドイツ語に翻訳させてみたそうだ。僅か6分後には、1点たりとも非の打ち所のないドイツ語訳が出力されたという。この場合に試訳されたフランス語の哲学書が、科学書並みに、それが伝達しようとする知的内容に対して素直で透明な文体の本だったとすれば、AIによる翻訳が十全に本領発揮したことは想像に難くない。2年後の今日、同じ実験をやれば、同様にパーフェクトなドイツ語訳が更にいっそうスピーディに作成されるだろう。事ほど左様に、AIは日進月歩している。


したがって、少なくとも、ある特定の言語の記号体系の中で伝達される知的内容を別の言語の記号体系に移す営みが翻訳であるとする限り、おそらく現時点ですでに、「人間の翻訳者」はAI翻訳のパフォーマンスに太刀打ちできない。たとえば、私が過去に手がけた翻訳のうち、哲学や社会科学の領域に属する本、時事評論などのそれは、今後は大半をAIに任せたほうがよいに違いない。

進化し続けるAIの翻訳

因みにAIは、突然コンピュータでニュートラルな質問を投げかけてくるユーザーのアイデンティティを探知できるのだろうか。AIから受け取る回答の端々に、AIが質問者自身の過去の仕事や関心の在処を踏まえて、その質問者に個別化した回答を作成しているのではないかと思える節が多々ある。


例えば、ChatGPTの回答には、次の一節が含まれていた。「エマニュエル・トッドの著作を例にとれば、堀茂樹氏の翻訳は、フランス語を日本語に置き換えているだけではありません。トッドの概念体系を日本語の知的伝統の中に位置づけ、読者に理解可能な形へ再構成しています。これは現在のAIが非常に得意になりつつある領域ではありますが、なお『責任ある解釈』として引き受けることは容易ではありません」。


自分の翻訳の苦心の一端を評価してくれている一節なので、ありがたいとは思ったが、「これは現在のAIが非常に得意になりつつある領域ではありますが」という箇所を見落とすわけにはいかない。間違いなく昨今の生成AIは、控え目にいっても、外国語で書く著者の「概念体系を日本語の知的伝統の中に位置づけ、読者に理解可能な形へ再構成」できるように「なりつつある」のだ。これは少しも驚くに当たらない。そういった認識や理解はまさにAIが卓越している知能の働きであり、個人の倫理性や感受性には依拠しないのだから。

「生身の翻訳者」を必要とする作品とは?

改めて、人間による翻訳に残るものは何か?翻訳と呼ばれてきた営み全体の内、AIが具備していない「能力」の動員を必須とする部分であろう。


では、人間にあるのに、AIにないものとは何か。考えてみればAIは、世界を技術的に処理する能力において驚異的であるにもかかわらず、当然ながら、人間の人格を成すほとんどの要素を欠いている。スピノザが「コナトゥス」として肯定的に見た欲望も、メルロ=ポンティが「世界への窓」と言った身体も、ルソーが人間固有の性質として挙げた自己改善可能性も、他者との間主観的関係に表れる人間存在の有限性も、したがって、愛情も、責任も、AIには無縁だ。AIには、人間のように他者に共感するということがない。倫理意識を含む意識も、AIは持ち合わせていない。何らかの道徳のドクトリンを学習してそれを自らのプログラムに仕込むことはできるが、道徳的自律性のベースである良心を有することができない。


人間にあってAIにないこれらの「能力」や性質が必要となるのは、どんなテクストを翻訳するときだろうか。次のように言い換えてもよい。ある種の翻訳の場合、どんなに頭が良くても、つまり、どんなに脳細胞の運動神経が優れていても、それだけでは足りない。「勝負」できないのだ。それはどんなテクストに向かい合うときだろうか。


すぐ思い浮かぶのは勿論、文学作品が翻訳の対象となるケースだが、文学にもさまざまな種類があり、さまざまな側面がある。


まず、唐突で恐縮だが、ここでは詩を除外して考えることをご寛恕いただきたい。いうまでもなく詩は、歴史的に見ても、生成論的に見ても、文学の本質である。そのことに対して異論を呈するつもりはまったくない。ただ、詩は言葉の指示的意味よりも喚起的意味を主なリソースとし、ナショナルな文化の奥底に碇を降ろしているジャンルだ。その点に鑑みて、かねてより私は、それを外国語に翻訳することの可能性に疑いを抱いており、これまで詩の翻訳として提示されてきたもの──その内には、惚れ惚れするようなアートの域に達しているものが多々ある──については、ことごとく「翻案」と見做している。


そこで、今は詩を視野の外に置いて話を散文に限り、主に小説の場合を考えてみる。


もっぱら知的な創作プランに基づいて計画的・合理的に組み立てられているタイプの小説なら、AI活用が奏功するだろう。しかし、われわれは知っているはずだ。小説でも詩でも戯曲でも、傑作が生まれるのは、作家が執筆中に俄然興を催し、自らあらかじめ周到に用意した設計図を奔放に乗り越えていくときだということを──。


かつて在野のバルザック研究家モーリス・バルデッシュが、そういうふうに興に乗ってぐいぐいと創作に没入していく作家や、作曲家や、絵描きの様子をあえて肯定的な意味を込めて「子供らしさ」と呼んでいたことを思い出す。


その種の「子供らしさ」から生まれてくる文章や、その他さまざまの、天才の発露としか言いようのない、合理性に還元できない個性的な文学作品を翻訳するには、AIの能力(「頭の良さ」)だけでは足らない。「人間の翻訳者」が自らそのテクストに全人格的にかかわって行き、原著者に対して密かな友情のようなものを抱き、ほかでもないテクストを通して、相手の精神とできるだけ深く対話する必要がある。さもないと訳者が、いま本居宣長の名言「姿は似せ難く、意は似せ易し」を借りていうならば、訳文で「意」を似せることのみに汲々とし、原文の「姿」を救い上げることができない。


というわけで私は、AIの進化に瞠目し、その翻訳能力の卓越が歴然としてきたことを歓迎しつつ、文芸翻訳に限っては、「生身の翻訳者」の関与が欠かせないと思い続けている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。