登場者プロフィール
鴻巣 友季子(こうのす ゆきこ)
英語圏文学翻訳家、文芸評論家英語圏の同時代作家の紹介と共に古典名作の新訳も手掛ける。主訳書にブロンテ『嵐が丘』、ミッチェル『風と共に去りぬ』、クッツェー『恥辱』、アトウッド『誓願』等。主著書に、『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』等。日本文藝家協会常務理事。日本ペンクラブ獄中作家・人権委員、女性作家委員。
鴻巣 友季子(こうのす ゆきこ)
英語圏文学翻訳家、文芸評論家英語圏の同時代作家の紹介と共に古典名作の新訳も手掛ける。主訳書にブロンテ『嵐が丘』、ミッチェル『風と共に去りぬ』、クッツェー『恥辱』、アトウッド『誓願』等。主著書に、『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』等。日本文藝家協会常務理事。日本ペンクラブ獄中作家・人権委員、女性作家委員。
山田 優(やまだ まさる)
立教大学異文化コミュニケーション学部/研究科教授ウエストバージニア大学大学院修士課程修了。立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科博士後期課程修了(異文化コミュニケーション学博士)。社内通訳翻訳者等を経て現職。株式会社翻訳ラボ代表取締役CEO。著書に『自動翻訳大全』(共著)、『ChatGPT英語学習術』等。
山田 優(やまだ まさる)
立教大学異文化コミュニケーション学部/研究科教授ウエストバージニア大学大学院修士課程修了。立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科博士後期課程修了(異文化コミュニケーション学博士)。社内通訳翻訳者等を経て現職。株式会社翻訳ラボ代表取締役CEO。著書に『自動翻訳大全』(共著)、『ChatGPT英語学習術』等。
アルベルト・ミヤンマルティン
経済学部 准教授バルセロナ自治大学翻訳通訳学部卒業。大阪大学大学院言語文化研究科博士後期課程修了(日本語・日本文化博士)。通訳翻訳の実務経験や同志社大学等を経て現職。専門は翻訳学、日本近代教育史。福澤研究センター所員。著書に『『修身論』の「天」阿部泰蔵の翻訳に隠された真相』等。
アルベルト・ミヤンマルティン
経済学部 准教授バルセロナ自治大学翻訳通訳学部卒業。大阪大学大学院言語文化研究科博士後期課程修了(日本語・日本文化博士)。通訳翻訳の実務経験や同志社大学等を経て現職。専門は翻訳学、日本近代教育史。福澤研究センター所員。著書に『『修身論』の「天」阿部泰蔵の翻訳に隠された真相』等。
井上 逸兵(司会)(いのうえ いっぺい)
文学部 英米文学専攻教授塾員(1985政、87文、89文修)。文学博士。富山大学等を経て現職。専門は社会言語学、英語学。世界と英語、日本(人)と英語という観点からことばの働きについて研究。元慶應義塾中等部長、社会言語科学会会長、NPO法人地球ことば村・世界言語博物館理事長。著書に『英語の思考法』等。
井上 逸兵(司会)(いのうえ いっぺい)
文学部 英米文学専攻教授塾員(1985政、87文、89文修)。文学博士。富山大学等を経て現職。専門は社会言語学、英語学。世界と英語、日本(人)と英語という観点からことばの働きについて研究。元慶應義塾中等部長、社会言語科学会会長、NPO法人地球ことば村・世界言語博物館理事長。著書に『英語の思考法』等。
AI翻訳とはどういうものか
今日は「翻訳の未来」というテーマで皆様とお話ししていきたいと思います。私は社会言語学が専門で翻訳が専門というわけではないですが、バックグラウンドが全然違う4人で、それぞれの立場から自由にお話をいただければと思います。
鴻巣さんが『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』で書かれている、英語に翻訳された日本文学が、今、とても流行っているという現象は、面白いことが起こっているなと思います。一方で、今、圧倒的な勢いでAI翻訳が様々な分野に浸透してきています。教育現場でも、AIをどう扱うかということが、たぶんすべての教員の念頭にあるのではないかと思います。
AI翻訳に関して、特に今、Xの投稿が自動的に翻訳されていることは、Xをご覧になる方は気付いていると思うんですが、ある種、言語の垣根を越えて、いろいろな言葉に、場合によっては勝手に翻訳されているような現象が1つあると思います。
最初に、AI翻訳のことをどう考えられているのか。ご専門としては山田さんが一番近いと思うんですが、いかがでしょうか。
私は世の中的にはAI推進派みたいな立場と思われていますが、バックグラウンドを言うと、ずっと実務翻訳をやってきました。産業翻訳の分野ではCATツール(翻訳支援ツール)というものがあり、翻訳された言葉をため込んでデータベースを参照しながら翻訳することが、昔から行われていました。そのデータベースを機械学習する形で機械翻訳が発展してきたわけです。
今、「生成AI」と呼ばれているものは、その機械翻訳のために生まれた、Transformer(トランスフォーマー)という技術が土台になっています。現在のGPTという名前は、Generative Pre-trained Transformer(事前学習したTransformer)の略です。このTransformerは、いまやあらゆるAIの基盤になってますが、実はもともと、グーグル翻訳を作るために開発されたプラットフォームだったのです。だから私は学生たちに、「今のGPTはGenerative Pre-trained "Translator"(翻訳機)なんだ」と話しています。
これまでの機械翻訳は、平均的な翻訳を出すことしかできなかったんですが、今の生成AIは、プロンプト(指示)次第で、自分の好きなように翻訳を変えられます。例えば「鴻巣友季子風な翻訳にして」と指示すれば、ある程度できたりしてしまうわけです。
これからは、翻訳者がAIにどんな指示を出すかによって、訳文を変えることができます。これは大きな変化です。翻訳者はこれまでも、自分の色を出しながら翻訳してきた部分もありました。将来は、AIを使いながら、そういう翻訳ができるということです。
例えばXの自動翻訳は、今は平均的な訳文しか出てこないかもしれません。しかしAIが「この人のツイートはこういう言い回しをするんだよな」と一人ひとりの癖をAIに指示したり、学習させれば、訳文も、その人の言葉に近づいていく可能性があると思います。
そうなってきた時、それこそ今はローカルな言語でしか響いていなかった情報が、世界中に伝わっていくわけです。その時の情報量とか情報トラフィックの変革というのは、いいか悪いかは別にして私は見てみたい。すべてが翻訳された時の世の中はだいぶ違ってくるんだろうなというところは、ポジティブな面として捉えています。
技術的な話かもしれませんが、山田さんがお書きになった『自動翻訳大全』の頃の自動翻訳と今のAI翻訳とは、全く異質と考えていいんですか。
基本的な技術は同じですが、別物ですね。機械学習に使っている情報量と計算機の大きさが違います。昔は対訳データで学ばせていましたが、今のAIはネット上のほとんどのデータを学んでしまいました。AI翻訳は業界の先頭を走っていました。理由は、原文と訳文というセットのデータに恵まれていたからです。
例えば、良いリンゴと悪いリンゴを見分けるデータは世の中にあまりありません。でも原文と訳文のデータは豊富にあるので、まず翻訳機が発展しました。ところがそのデータが尽きた後、今度は訳文だけ、原文だけのデータをウェブから学ばせ続けた結果、翻訳機ではない別のものになったのが今のAIです。もともとは翻訳機だったのに、たくさん学ばせるうちに違うものへ変わってしまった、という感じなのです。
自動翻訳で相互理解は進むのか
ミヤンマルティンさんは、歴史的な文脈で、特に福澤など明治期の翻訳文化などを研究されていますが、AI翻訳に関しては、どうお考えですか。
私はもともとスペインで翻訳通訳学部を出ていますが、翻訳は社会の原動力だと思って、明治から現在までの日本の翻訳文化史などについて研究を行っています。
大学で語学を教えている立場に置かれた者として、翻訳の専門学部ではないところで第二外国語としてスペイン語を勉強している学生にとって、AI翻訳をどのように使うべきかを考えることは非常に大事だと思っています。
Xの問題は、私も最初に勝手に自動翻訳されているのを見た時はとても驚きました。いきなり全部日本語になっていて。そうなるなんて教えてくれませんでしたよね。それが有り難いという人もいると思いますが、スペイン語、英語、カタルーニャ語、日本語を使っている、複言語的能力を持っている私のような人間はどうなるのかと。
また、ユーチューブも知らないうちに自動の吹き替えが出てきて、海外ドラマのまとめ動画を見たら、吹き替えも自動翻訳で日本語でしゃべっている。その設定を一括して元に戻したいんですけどなかなかできない。
ユーザーに言語選択権がなくなってしまうのが、非常に押し付けがましいですよね。「AIを使いなさい」みたいな。それはもう自動翻訳のよしあし以前の問題ですね。
学生が、「全部日本語に直してくれたら便利じゃん」と、どれが原文でどれが翻訳なのか、どこに誤訳があるのかを気にしないのであれば、これからの若い人たちの認識はどうなっていくのかと危惧しています。SNSって、「フィルターバブル」と言いますが、自分の認識外のことを気にしないことを助長する面がありますよね。
一方で、山田さんがおっしゃるように、これまでは言語の壁があって発信できなかった人たちも発信できるのはすごく良い点だと思います。
ただ、まさにX上でスペイン人と日本人のサッカーファンが自動翻訳を使って会話をしているのを見たことがあるんですが、それで相互理解が進むと思いきや口争いになって揉めている。実は原文を見たら、本人はそこまで悪い言葉は言っていないのに、Xは短文だからコンテキストがあまりないので誤解を生みやすい。そういう面もあるかと思いました。
翻訳者のプロンプトエンジニアリング
SNSは日本語同士でも炎上しますから。でも、けんかが成り立っているということでもありますよね。
鴻巣さんはAI翻訳に関しては何かお考えがあれば。
私が主に大学で教えているのは、翻訳の理論と実践や文章講座などの授業です。これは笑い話ですが、オンデマンド授業に英語字幕が付くのですが、「AI翻訳の危険性が」と言っているものが、全部AIで英語字幕が作られるという(笑)。
今の学生は「使うな」と言ってもAIを使います。「AI翻訳について学びましょう」みたいな授業も行いますが、そこで、プロンプトの入れ方から教えることになる。「ChatGPTには知らないことは聞くな、知っていることだけを聞け」と最初に言うんです。自分の知識の視野が広がる方向か、深められると思うプロンプトだけを入れろ、ということです。
プロンプトエンジニアリングという言い方がありますけど、特に翻訳者はプロンプトエンジニアリングがあるのが当たり前だから、プロンプトエシックス(倫理観)を持たないと、必ず崩壊すると思います。
情報格差が均されると山田さんがおっしゃいましたが、良い面もすごくあると思うんですよ。私も何か急いで資料を取っておきたい時には、AIに翻訳させて、パッとチェックするようなことはやります。一方、情報トラフィックの変革とおっしゃいましたが、これはユヴァル・ノア・ハラリが『NEXUS』で言っていたと思うんですが、SNSやインターネットの情報の解放というもので、情報の中央集権化が民主主義的に人々にどんどん移行すると私たちは思っていた。
しかし、SNSは良い面があったはずなのに、民主主義は進まずに、むしろ分断が進んでいる。結局、AIのアルゴリズムを作っている源は、GAFAMみたいな、究極的に言うと世界のテック・オリガルヒ(Tech Oligarch)の何人かなわけですよね。これは結局、分断と、もしかしたら、AI独裁主義みたいなものが進んでいるとも言えるわけです。
なぜ英米で翻訳文学が盛んに?
続けてお聞きしますが、そのような中、英米で翻訳文学が盛んになっているとのことですね。
今ごろになって文芸翻訳が英米で営々と進められていて、やっと翻訳の大事さに気付いたのか、という感じです。これは、アメリカでは9・11が契機になっていると思いますし、イギリスも、EU離脱につながる流れが大きな契機でした。世界的な右傾化、保守化が進むなかで、翻訳文学は間違いなくインパクトを与えていると思います。やはり翻訳文学を読む人は、昔からリベラルな人が多いですから。
若い人に翻訳文学を読む傾向があるということですね。
そうなんですよ。日本は今、本当にマーケットが細っていて3000人くらいしか常に翻訳文学を読む人がいない。でも、日本とは逆なんです。
データを見ると、英米も出版不況で、小説離れも進んでいます。なのに、読者が増えている分野の1つがトランスレーション・フィクションです。しかも読者が若返っている。この10年間で45歳以下が5パーセントぐらい増えていて、これは結構大きいです。日本はどんどん若い読者が減り、これから絶滅するかもしれないと言われているのに英米では着々と増えている。
また、翻訳物はどの国でも女性読者が多いらしいのですが、男性読者が増えている。それから、非白人読者が増えている。それはなぜかというと、これまでとくにアメリカでは、学術研究の一環として外国語文献が翻訳されて、それを学者や研究者の人たちが読むのが主な市場だったのですが、今は趣味や娯楽で読むんです。娯楽で小説を読むという日本では当たり前のことが広がってきて、非白人の層で翻訳小説を読む人たちが増えているのですね。
これには教育格差がはっきり現れているんですね。それまで翻訳物の90パーセントは白人が読んでいた。つまり、学者・研究者は白人が圧倒的に多いことを示していました。だけど今は、非白人の読者が増え、男性が増え、そして若い読者が増えている。このように多様性があり、有望市場なんです。
非白人読者が増えているということは、やはり英語の絶対的な力が下がっているということですか。
私はそれを「下がる」というよりは「変容している」、「多様化している」と言っています。これまでありがちだったイギリス英語、アメリカ英語が「本場」の、オーセンティックな英語という考え方だったという意識が薄れているのは確かだと思います。それを英語の覇権が終わった、と簡単に言ってしまうのは違うとは思いますが。
でも、英語帝国主義的なものがあるとして、それが揺らいでいると。
そうですね。英語帝国も今は焦っているのかな、とは感じます。それを私は拙著で、「世界初のグローバリズム時代が訪れたヘレニズム時代のギリシャのアレクサンドリア図書館みたいだ」と書きました。
あの頃はギリシャ系のアレクサンドロス帝国の覇権に陰りが見られ、後にローマ帝国に滅ぼされてしまうわけですが、アレクサンドリア図書館はフェニキア語やエジプト語で書かれたものを片っ端からギリシャ語に翻訳していった。それを彷彿とさせるかのように、ものすごい勢いで英語に翻訳しているという意味です。
「英語帝国主義」の変容
山田さんの立場から見ると、英語が覇権を持っていたとして、今、AIの翻訳や、自動翻訳、機械翻訳で、何か変わっている感じはしますか。
オーセンティックな英語の変容というのは、ネイティブ主義が変わっていくと解釈してもいいんでしょうか。
そうですね。
翻訳については、鴻巣さんが言われた翻訳の方法で、「異化(Foreignization)」と「同化(Domestication)」というものがありますが、おそらく異国感みたいなものを、英語の中にも求めたいみたいな動きもあるのかと思います。だから、「異化」した英語みたいなものへの、流行りとか、憧れ、受け入れる土壌が出てきているのかなと。
もう、ネイティブ英語だけを話せばいい時代は終わってしまい、ちょっと翻訳調であるようなものを受け入れてくれる。英語帝国主義的な生存戦略として、英語が多様化していくという考えなのかと思います。
だから翻訳はある意味でチャンスだと思っているんです。ナイーブかもしれませんが、私は例えば日本文学や翻訳文学が、英米で流行っているという話と、SNSで海外でインフルエンサーが翻訳を通して受け入れられているという方向性は、同じものなのではないかと思っているのです。今まで日本でしか通用していなかったインフルエンサーたちが、翻訳を通して海外でも受け入れられるのと、日本の小説が受け入れられることは似ているかと。
すでに日本の、本当に他愛もないような質問やすごくシンプルなツイートがバズっていますよね。
学術論文でも、生成AIを使って書いた結果として、普通は「explore」とかを使うのに、ここ2年間くらいで「delve(掘り下げる)」という単語がやたらと使われています。
ネイティブの英語じゃないです。それでも受け入れられる土壌になったというか。だから、英語の覇権という意味では、それが失われているのかなとも感じます。
異化翻訳と翻訳者の可視化
どんな英語でも広く受け入れなければならないところがありますね。とにかく、20年前のアメリカ・イギリスの翻訳文学観は、transparency、読みやすさ一辺倒でした。いろいろな国の作家に聞くと、作家の側もやはり「読みやすいほうがいい」と皆言うんです。「もう私の手は離れているから、とにかく面白く読みやすくやってくれ」と。
だけどそれが今、変わり始めていて異化翻訳(Foreignization)が受け入れられてきている。あと、ローレンス・ヴェヌティみたいな人が言う翻訳者の可視化、翻訳者を「見えるようにせよ」という動きが盛り上がっています。そのきっかけの1つになったのは国際ブッカー賞だと思います。
国際ブッカー賞は2005年くらいからあったんですが、それが翻訳文学賞に特化して再出発したのが2015、6年なんですが、やはり大きい賞ですから、受賞作は売れるんですよね。そこで翻訳文学というものがオンセールになったんです。
そのあたりから翻訳家の地位も上がってきて、可視化(visibility)されるようになり、表紙にも翻訳者の名前が載るようになった。それまで英米は表紙に翻訳者の名前を載せなかったんです。今もそのケースは多いです。
村上春樹の翻訳なんて、いまだに載っていないですよね。それが、例えばポーランドのオルガ・トカルチュクを翻訳しているジェニファー・クロフトとか、デイジー・ロックウェルといった力のある翻訳者たちが「自分の名前をカバーに書かなかったらもう仕事を受けない」という運動を起こして、書かれるようになってきました。
それはビジネスと結び付く話だと思うんです。ある意味、AIがあれば誰でも翻訳できるんじゃないの?と素人は思ってしまう一方、翻訳家というプロフェッショナル、職人がいる。その仕事がなければこの本はできなかったんだという。その裏返しのような感じがします。
それは有り難いですね。例えば、ここのところ、インドの小説、しかも、英語ではないものが国際ブッカー賞を2回ぐらい受賞しています。「英語に翻訳するときに何に気を付けましたか」と翻訳者に聞くと、どちらもとにかく、「むしろ読みにくくすること」だと。カンナダ語だったり、アラビア語だったりが混じっているような異言語性を前面に押し出して訳す。英語の小説として読みにくい構造でも、それを直さないという風潮も出てきている。今までは平気で直していました。村上春樹も『海辺のカフカ』ぐらいまではバサバサ切られていましたからね。
もう1つ、これはもともと言われていたことですが、AI翻訳が出てきてから特に言われるようになったのが翻訳者の使命というものです。翻訳者は文字を移植するだけのものではないとずっと言われてきましたが、それをもう少し明晰に言った人たちがいるんです。
文芸翻訳家というのは、まず「スカウト」であると。どんな作品が読まれるべきかと見つけてくる役割。そしてそれをどのように見せるかという、博物館で言えば「キュレーター」であり、「オーガナイザー」であって、自分でそれを批評できる「批評家」であり、「編集者」の面も持っているべし。最終的には、その作品の一番いい「読者」であるべし、というようなことが、今、マントラのように言われている。
この役割全部はAIにはさすがにできない。AIの翻訳は、正確さという意味では正確になっていますし、とにかく速いから、その点では私たちは勝てません。けれど、これからの翻訳家は、総合格闘技的な技を担う使命を負っていかなくてはいけないだろうと思います。
「どうやって翻訳できるか」という時代は、ある程度できてしまったと。今は「何を翻訳したいか」が問われている時代なんだと思います。翻訳者は今まで、与えられたものを訳していたけれど、ここに来て初めて、何を私たちは翻訳したいのか、それを持っていないと駄目な時代になった。
私もAIにすべてができるとは言っていなくて、カスタマイズをするときには、人間翻訳者の情熱や熱量が必要なんです。最良のプロンプトを考え、自分でチェックする能力こそが求められている。そういう二人三脚であれば、AI翻訳と人間が一緒にやっていく道が開けると思います。
翻訳者のAgencyという機能
一方、福澤の時代というのは、同質化・異化という意味で言うと、全く異質のものを日本の社会に持ち込んだわけですよね。福澤をはじめとする当時の啓蒙思想家はある意味、翻訳者という側面を持っていたのでしょうね。
福澤も最初は通訳として始めたという話はよく知られていますが、幕末・明治はまさに翻訳者が啓蒙思想家でもあり、何のために何を翻訳するかを自分で決めていたわけです。つまり翻訳者にはAgency(主体的な行動力・媒介者の役割)があった。幕末・明治の人たちは、西洋の文明を求めているわけだから、西洋の文明を日本に導入する際、異質なものの何を残すか、どうやって同質化するかという課題があったわけです。
例えば私の研究対象に福澤の弟子の阿部泰蔵という人がいますが、『修身論』(原著はフランシス・ウェーランド、Elements of Moral Science)という倫理の教科書を翻訳する時、アメリカの教科書だから、どうしてもキリスト教が出てくる。でもキリスト教は日本では明治6年ぐらいまで禁止されていたし、彼の意図はキリスト教の布教ではないので、どうやってキリスト教のところを省きながら、それに基づいている民主主義的な制度の内容を残していくのかという問題がありました。
翻訳する人は何を翻訳するのか、何のために翻訳するのかを選んでいるし、様々な役割を果たしていたわけです。そこはこれからも私たちが意識していく部分ではないかと思います。
私はAI翻訳のお蔭で、これまで無視されてきた少数言語にもいい影響が出てくることを期待しています。例えばスペインには、カタルーニャ語やバスク語など、スペイン語(カスティーリャ語)以外の言語もありますが、独裁政権下では禁止されていました。1975年に民主化が始まって公用語として認められましたが、子どもたちはたとえ学校で学んでいても、なかなか使おうとしなかったのも事実です。
そこで、各自治州の州営テレビ局が、日本のアニメを現地の言語の吹き替えで放送し始めたんです。すると、皆それを観て「カタルーニャ語って楽しい」などと思い始め、日常生活における普及につながったのです。
やはり何を何のために訳すかというところにはすごく意義がある。人間による翻訳には限りがあるので、これからはAI翻訳を援用した新しい方法でやっていけば、これまであまり活躍できなかった人たちや文化も可視化される可能性があると思います。
パワーバランスの場としての翻訳
おっしゃったように、翻訳をする時点で、誰が何をどのように訳して、どこからどの言語で出すか。ここからもう、取捨選択が始まっていて、それを決める誰かがいる。多くは何かの権威だったり専門家だったり、お金を持っている人だったりします。
翻訳の場とは、実はものすごいパワーバランスの場、政治の場なんです。純粋で中立な言語の通路だというのは妄想で、言語と文化と政治の戦いの場です。今おっしゃったスペインだったらカスティーリャ語が一番強いし、カタルーニャ語やバスク語などは不可視化されていた。それが、AIのアシスタントによって見えるようになり、届くようになることは、私もいいことだと思います。
これは技術的な問題で、山田さんにお伺いしたいんですが、時々、英語以外の言語同士をAI翻訳させている時も、結局、裏では英語が働いていると感じます。例えばロマンス系の言語だったら男性名詞、女性名詞があるわけですが、スペイン語で女の人の話をしているのに、なんでイタリア語で男になってしまうのかと。それは裏で動いている英語でそこが認識されていないと思うんですよね。
そうですね。AI開発の世界ではハイリソース言語とローリソース言語と分けられているわけです。日本語もローリソース言語で、世界中で使用されているテキストというのはごく少数です。だから、世界中の日本語を漁っても、英語や中国語に比べると、数の格差がありすぎるわけです。
見えない英語の覇権主義みたいなものですね。
例えば1つの例を挙げると、「国民」という言葉を中国語で入れます。それを日本語に翻訳すると、漢字では同じ「国民」でいいはずなのに、「人々」と出てきたりします。これは英語ではどちらも「people」だからです。
この前、辞書メーカーの人と話したんですが、辞書は完全にAIに飲み込まれたので、目指すものは何かというと、「読んで面白い辞書」しか生き残れないのではないかとおっしゃっていました。辞書そのものの役割が変わってきていると。
スペイン語の辞書は面白いですよ。ちょっと変な例文が書いてあったりします。学生は大体、辞書の最初の意味だけ取って、それで翻訳しようとするじゃないですか。「最後まで読みなさい」と言ってもなかなかしてくれないですよね。でもスペイン語辞書の素晴らしいところは、一番最後に各国の俗語が出てきて、その多くは下ネタなんです。
すると必ず読むわけですね。
そうです。おまけが待っているので(笑)。
学生はとにかくもう、翻訳マシンやChatGPTに頼りがちで、辞書の読み方がわからなくなっている。いつも「ちゃんとした学習機能のある辞書を買え」と言っています。あなたたちは単数と複数の違いもわかっていませんよね、他動詞と自動詞の違いもわかっていませんよね、一番大事なのは、下のほうに語源が書かれていることです。それを見ていますかと言うと、ほとんどの人は見ていない。
語源を見ずに、何が外国語の勉強かと思うのですが、これはもうAIで失われていった辞書を読む技術ですね。
圧倒的な他者と格闘するということ
山田さんは著書で、メタ言語能力を重視されていますね。私は最近、語学を学習する意義は、学生に自分の言語、日本語について気付いてもらうことにもあると思っています。彼らのほとんどは英語をやってきているわけですから、かじるぐらいでよいので、日本語と英語以外にもう1つ比較対象できる言語があると、言語という現象の全体像が見えてくると思うのです。
そこに他者性があるわけですから、それに気付くと自分たちの言葉の構造が見えてくる。自分たちのことを理解するためにも、異文化、異言語を見て、それも生かしてこれからいろいろなテクノロジーを正しく使っていくためにも教育が必要なわけですよね。最初からAI翻訳しか知らない人にそういったことをどう教えるかが、これからの教育の問題だと思っています。
AIですぐに翻訳されてしまうから、異国間のコミュニケーションが、それこそTransparentになってしまい、自分が異国の人とコミュニケーションをしているということが意識されなくなってしまうことが危惧されるということですね。少し外国語を学んだ時、自分の日本語を振り返る時の気付きみたいなものがあったり、他の文化を体験した時の他者とか異国間みたいなものの感覚が、今、すごく重要になっていますね。
実際、AIリテラシーというのはそこにすごくつながっている気がしていて、翻訳の教育というものが、プロ翻訳者の養成なのか、翻訳を通してそういうAIリテラシーとか異国間リテラシーを教えているのか、両方あると思うのです。自分は少し後者のほうで、やはり全人類が翻訳の能力を身に付けることがAIリテラシーに結びついてくるのではないかと思っています。
私も圧倒的に後者ですね。
外国語を勉強する意味の1つとして、「翻訳できないもの」の存在を知るというのはどんな言語にもありますよね。
やはり異言語というのは圧倒的な他者なんです。私たちは、一生のうちに外国に住む人は限られていると思いますが、外国語に出会わない人は理論上いない。日本では英語が義務教育のうちに教えられるから。
本当に、圧倒的な他者性に出会ってどうにもならない、押しても引いてもわからないような経験ができるのは、語学くらいしかないのではないかと思っています。異言語を読み解く、あるいは他者の思考を何とかして読み解くという、この思考と努力を手放した時、人間は何かを失うと私は思います。
翻訳作業というのは、言葉を生け捕りにするような作業で、辞書とかAIが出してきてくれた言葉は、結局、適合確率が高いパターンを引っ張ってきているに過ぎない。私は、「訳された時に言葉は1回死にます」と言うんですけど、AIに作ってもらった訳文そのままというのは、昆虫標本みたいに整然と並んでいるけれど、やはり死んでいるんですよ。
死んだ言葉は、運が良ければもう一度他者に読まれる時に息を吹き返すと思うのですが、とにかく、昆虫標本を並べるような作業をしているだけでは、少なくとも文芸翻訳は無理なんですね。
やはり、最初の一歩を踏み出すところの思考を手放した時、人間は大きなものも失うだろうし、自分の思考を他者に預けることの由々しさは考えないといけないのだろうと思います。
AIが産出した翻訳を普通のことばだと思い込み、翻訳できないものなんてないと思う人が世の中の大半になっていくと、どんなことが起こっていくんでしょうね。
言葉を使ったコミュニケーションなんて、日本語同士だってすごく大変で、ここにいる4人だって本当はわかっていないまま「そうですよね」と言っているかもしれないくらい、大変なことです。「言語によるコミュニケーションって楽なんだ」と思ってしまうことが危険ですよね。
AI翻訳の裏ではいろいろなことが起きていることも知らずに、ボタンを押せばコミュニケーションが成り立つということを繰り返していくと、どこかでずれたときに人間の関係性を立て直す力がなくなっているのではないでしょうか。今の若い子たちは結構、そうなっていません?
なっていると思います。
議論できないじゃないですか。議論=けんかだと思っているところがあって、SNSでは気に入らなかったらブロックするし、議論をしたり、意見を違えながら対話し続けることが圧倒的に苦手だと思うんですね。
AIの神格化に抗う
現在のAI翻訳で、何が起きているかというと、AIの神格化です。神のように、AIが言っているから正しいという。人間が言ったら疑うかもしれないけれど、AIがデータに基づいて言っているから、「あ、これが正解なんだ」と鵜呑みにする傾向があるのではないか。私が危惧しているのは、原発の安全神話のように、AIが神様みたいな存在になってしまって、それが絶対的に正しい、それで、ちゃんと100パーセント理解してコミュニケーションが取れているという錯覚が生まれることです。
鴻巣さんがおっしゃっていたように、たいていの人間は、同じ言語をしゃべっていても、100パーセントの理解はしていないかもしれない。だから、確認し合うわけです。でも、私もそうなりがちなんですが、AIを使っている時は、「あ、これね」とそのまま信用してしまう傾向がある。いつも意識して、正しくないかもしれないとか、自分の思考を人にもAIにも預けないということが大事かなと思います。
預けきらないというところだと思うんですよね。AIは使ったほうがいいし、もうパンドラの箱を開いてしまったんだから、後戻りできない。だから、いかに使っていくかだと思うんですが、でも、使っているというより、どのAIが使われているんだという問題があって。
その件で言うと、もう、先進的なAIはアメリカか中国しか作れないものだということがあるじゃないですか。それを使っていかなければいけないんですが、そこをどう考えるかということですよね。
要するに言語規模が違いすぎるということですよね。
それもあるし、あとは資本力、開発力の問題ですよね。怖いのは、神格化するにしても、出てくる答えがアメリカや中国に少しずつ有利になるという話になりそうだと。
翻訳論ではポリシステム理論と言いますね。結局、政治力や経済力を持っている国々の文化やニーズが優先され、その非対称な関係の中で翻訳が行われるのです。
例えば新聞を読む時、どこ寄りの新聞かということを意識せずに読んでいる人もいると思いますが、最低限の教養があり、どういった新聞なのかがわかっていればよいと思うのです。
結局、AIも同じじゃないですか。アメリカのものだし、中国のものだしとかわかっていればよいのかなと。問題は、どういった人々がそのリテラシーを持つようになるか。だから、そこにも格差が出ると思うんですよね。
AIの裏にあるもの
知らず知らずのうちに、アメリカ英語寄りになってしまうとか、中国語寄りになっていくかもしれないという可能性を考えると、翻訳は本当に政治、パワーバランスの世界なんですね。
翻訳のパワーバランスと言った際に、誰が訳すべきか、訳す権利があるのかという話が出てくることがあります。ディズニー映画の『ポカホンタス』はヴァージニア州に住んでいたネイティブアメリカンのポウハタン族の人たちの民間伝承、神話のようなものを翻訳したものです。要するに白人社会が翻訳して物語が成り立っている。
この民族からはクレームも出たし、裁判になりかけたんですが、両者を天秤にかけたら、圧倒的にアンバランスなわけです。かたや、文字文化を持たなかったような、口承で伝えられてきた民族の神話。かたや英語という世界最大の言語力を持つものです。しかもディズニーという、世界最大の資本力を持ったエンタメ会社で、これはパワーバランスが違う。
極端な例を出しましたけれど、これは翻訳の現場では常に起きていることで、おそらくアメリカ英語寄りの英語が今日も営々と生成されている。
AIの裏で働いていくパワーや偏りをどこかで是正したりする第三者の機関のようなものはつくれないのか、とも思ってしまうのですが。
しかも、見えにくいアンバランスですよね。一見、垣根がなくなっているように見えるので。
そうなんです。非常にニュートラルに見える。AIは「僕たちは何も考えていませんから」みたいな顔をしながら、その裏にいる人たちは考えている。
ただ、言うほど技術的に制御が効いていないとも思うんです。つまり、技術屋さんが「アメリカのものだからこっち寄りにしたい」と思っても、その技術がコントロールできるものを超えてしまっているのかもしれない。
AIがシンギュラリティーを越えてしまっていると?
そういう説もあります。
中国のAIは、例えば習近平の悪口を言うと弾かれる。そこは制御しているわけですよね。
制御していますね。中国のAIはそういう意味ではかなりはっきりしている。アメリカはそうではないけれど、逆にもっと怖いかもしれません。
でも、ナイーブな考え方ですが、プロンプトエンジニアリングみたいなもので、ある程度解決できる可能性もあるとは思うんです。プロンプトの出し方によって、コントロールの効かないAIであっても、ある程度は制御できるのかなという希望も持っています。
英米圏の翻訳事情
ネガティブな話もあり、心配なところもありますが、一方で日本の小説家が英米で売れるということもあり、本当に普通の人が英語ができなくとも発信することができる世の中になってきています。これ自体は歓迎すべきことのように見えるんですが。
つい最近、イギリスではホラー小説が、カルト出版のような自費出版のようなところから上がってきてすごく人気になった、ゴアと言われる、血みどろになるような復讐ホラーを大手出版社がいよいよ出版したんです。ミア・バラードという人の『Shy Girl』という本です。
これをWildfireという版元が契約し、「絶対売れる」とウハウハしていたんですが、どうやらこれはAIを使って書いたのではないかという疑惑が出てきて、ニューヨーク・タイムズが調査すると、やはりAIが書いたものとすぐにわかったらしくて即販売中止になり、あっという間にAmazonからも引き上げられました。
それを受けて、イギリスのThe Society of Authors(作家協会)というところが、「人間による執筆」というロゴを作って本に貼るという、恐ろしく原始的なことを始めた。協会員にしかこのシールはもらえないそうで、人間印を付けるという本当にギャグみたいなことをやっています。
翻訳家の方は、皆AIもある程度使われると思っていたんです。イギリスで日本の作家の作品が売れていてこれだけ大量に出ているということは、丸投げはしていないにしても、AIを活用しているからこれだけ量産できているんだろうなと。
少なくとも、今、スター翻訳家と言われるような、村田沙耶香さんとか柚木麻子さん、川上未映子さん、川上弘美さんなどを訳しているようなトップ・オブ・トップの人たちは、「絶対に使うわけがない」と全員言います。「むしろ、自分で訳したほうが早い。どうせ全部書き直すことになる」と。
彼らの訳文の作り方は本当に、最初に使ったドラフトはほとんど破棄するぐらいの勢いで直すんです。AIは辞書的に部分的には使っているかもしれませんが、いわゆる主体として使っていることはないと思います。
なるほど。面白かったのが、翻訳でヒット作を出しているところは、意外と小出版社が多いという。
軒並みそうなんです。これは2022年ぐらいから顕著な現象だと思うんですけど、イギリスのガーディアンに「一匹狼の出版社が出版界を変える」というような特集記事が組まれました。
日本でも、ノーベル文学賞の時期には例えば「本年はヨン・フォッセさんです、アニー・エルノーさんです、オルガ・トカルチュクさんです」となって、「ああ、翻訳が出ていた。よかった」となった時、どこが出しているかといったら、小さなところが多いですよね。一番多いのは早川書房で、翻訳出版の代表格ですが、いわゆる大手出版ではないです。講談社や集英社は出していないし、新潮社すらも出していません。
やはり先進的な革新的な作風や新しいものは、英米も大手は尻込みしてしまうんですよね。リスクが取れないので。
今、あらゆる賞を総なめにしているアメリカのパーシバル・エヴェレットという、映画『アメリカン・フィクション』の原作を書いた売れっ子作家がいますが、この人を「発掘」したのも、Influx Pressというイギリスのインディーズ出版社なんです。とにかく今、大きな賞を取るのは、インディーズから出ている本が多い。
しかし、これは英米だからできるんだと言ったのが、フランス出身の出版人です。ヨーロッパ大陸だったら、オルガ・トカルチュクだの、ヨン・フォッセといったクラスの作家をインディーズの出版社が扱えるわけがない。もう、伝統と権威ある会社がみんな押さえているからと。それぐらい英米というのは、外国文学を見る目がないと言っていました。10数年前まで、なかなか翻訳文学が出なかったわけです。
アメリカ、イギリスでは語学嫌いは変わってきていますか?
相変わらずだと思います。イギリスでは高校生の外国語の授業がどんどんなくなってしまったり、外国語学科を選ぶ人がどんどん減っているとか。一方でそれに危機感を抱いて外国語に力を入れている高校、大学も出てきていると耳にしますし、その反動で翻訳を読むことも増えているんだと思います。
外国語を勉強するのは大変だけど、外国文学を読んで、外の世界に開けた視野を持ちたいという気持ちはあるのではないかと思います。特にイギリスはEUを離脱してから大陸とのコネクションが弱くなっているので、もっとつながっていたいという分析は聞きます。翻訳文学だけが増収しているのは、イギリスの小説自体がライト化していて、それに物足りない人が翻訳文学に来ているということもあるようです。
翻訳語の役割
話は変わりますが、明治期の翻訳語の役割というのはすごく大きかった。例えば翻訳語研究者の柳父章(やなぶ あきら)などの話もすごく面白いと思うんですが、あの頃は、福澤をはじめいろいろな人たちが翻訳語を作っていました。それが最近はだんだん、外来語が入ってきても翻訳しないでカタカナ語をそのまま使うようになっていますよね。
現在、例えばカタカナで「コンセンサス」とか使われていますが、私が違和感を覚えるのが、「部長のコンセンサスを取る」とか日本語として独り歩きをして、英語としては間違った使い方になっていること。
AI翻訳でも明らかな誤訳は気付きますが、ちょっとしたずれには気付きにくいので、そこが一番危ないんじゃないかと思っています。要するに、カタカナのまま外来語が入ってきて、元の意味がよくわからないまま使っている人が多いのかなと思います。
明治時代の翻訳語も実は同じような現象でした。例えば「自由」や「権利」という言葉が急に使われ始めると、柳父章のカセット効果ですが、皆、意味がよくわからなくても響きや形に魅了されて、その言葉が使われていくうちに社会に定着し、ついに理解される。
また、「男女同権」とかは、明治初期の日本人にはそもそも「権利」を理解することは難しく、通用しない。でも、そういう言葉を用意しておけば、いずれ、文明の発達につながるだろうという企みだったと言われています。
AI翻訳は、現在はまだ危険性などもあると思いますが、とにかく皆、かっこいい、便利、早いと飛びついている。それも一種のカセット効果だと思うんですよね。
たぶん、文芸翻訳はこれからも人の手でやっていくと思いますが、日常的に使うレベルの翻訳とかだったら、機械翻訳でできるのは私は悪いことではないと思います。実は学術の分野でも、論文を書く時も世界標準が英語なので、英語ネイティブの人とそれ以外の人の格差があるわけですから。
そうですね。日本の翻訳者の翻訳観はすごく進んでいたと思うのです。アメリカのトランスレーションスタディーズで出てくる概念、異化翻訳、同化翻訳などは1970、80年代あたりからです。
しかし、日本は明治20年代ぐらいに全く同じことを言っているんですよね。このあたりの感覚や理論は進んでいたんですが、残念ながら誰も理論体系をつくらなかった。
例えば私はよく「これからの翻訳者は自分で翻訳しないでAIにプロンプトを書いてOKと思えばいい」と、「オーケストレーター」みたいな言い方をしています。でも、実は、指揮者って楽器をやったことない人が本当に指揮者になれるのか、という問題があるんですね。
AIの仕組みはわからなくても、自分で本当に翻訳を体験したという苦労があると、つながってくる気がします。
これからどう使い分けていくかという話だと思うのです。例えば「AI翻訳機を使って恋人と話したい?」と聞いてみたら、たぶん皆NOと言うと思うんです。「では友達は?仕事の取引先は?観光に行った先では?」。その線引きが難しい。
いくら便利でも、私たちは人間として自分でコミュニケーションを取りたいというところはなくならないと思いますので、共存の形をこれからよく考えるべきと思います。
人間の翻訳者が訳したものを皆買うのはそこだと思うんですよ。人間とコミュニケートしたいという気持ちがあって、例えば翻訳者が「こういうところが面白いんですよ」とトークショーなどで言ったことに反応している。
そうですね。例えば明治時代に先ほど述べた『修身論』という西洋倫理の本の翻訳が10種類とか出ていたわけです。人によって、例えばキリスト教のところをはしょったり、あるいは仏教にたとえて説明したり、あるいは直訳を試みたり。
キリスト教の話が読みたいとか、アメリカの民主主義制度について学びたいとか、それぞれ対象読者のニーズに応じて翻訳が行われていたのは現在も同じではないでしょうか。
翻訳理論を再考する
最後に「翻訳の未来」というタイトルで翻訳者の役割を考えるとしたらどうするか、お願いできればと思います。
翻訳者の役割で1つ例を出すとクライシス・トランスレーションという、非常事態の時にどうするかというものがあります。例えば、台風が来た際に「どこかに逃げろ」というのが、ポルトガル語では「川のほうに逃げなさい」と訳されてしまったような例がある。
そういう時に、どの場面にどのテクノロジーが最適に使われるのか。例えばポストエディットがあれば使えるというアドバイス自体も、私は「広い意味での翻訳者の役割」と捉えています。
コミュニケーションデザインということですよね。私もまさにそうだと思いまして、翻訳するだけでなく、場面に合わせてテクノロジーを使って、その目的対象者に合わせる。これはまさに翻訳理論です。
抽象的、観念的な翻訳理論がトランスレーションスタディーズだというような勘違いがあると思うんです。だけど、そうではなくて、世界のほぼすべてを翻訳がつないで、世界のすべての隙き間を詰める役割をしている。
そういう意味でいうと、コミュニケーションデザインというものとして翻訳理論はもっと普及すべきだし、大学の授業もそういう方向に持っていくべきなのでしょうね。いつまでも「これをどう訳しますか」ではなく。それが翻訳者の役割ということですね。
私はイメージとして、あの有名な「バベル魚」に注目したい。ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』というイギリスのSF小説に出てくる不思議な生き物で、耳の中に入れたら、どの言語も訳してくれる。まさに万能翻訳機です。
しかし、ドラえもんの「翻訳こんにゃく」もそうですが、翻訳は魔法のようにいつでもすぐに1つだけの正解が出てくるものではない。私は現実的なのは、スター・ウォーズのC-3POではないかと思います。あれは通訳用のロボットですが、機械だからいわゆる「空気が読めない」性質で、会話がうまくいかない時が多い。
結局、翻訳というのは、完成品を機械などに求めるようなものではなくて、歴史の中で洗練されてきた、千差万別の文化的な活動であると、私は思います。
だから、人間が必要です。作品の選別と用途、プリエディットやポストエディットなど、人間にしかできない翻訳者の役割は、これからも重要です。
AIとどのように共存するか
今、アメリカでは外国語学習者そのものが減少していて、非英語言語科目の履修率は、2016年から2021年の5年間で16.6パーセント減少したそうです。また、政府からの助成金も打ち切られたり、NRCという高等教育における外国語教育への助成金とか、FLASという国際研究への奨学金が、昨年度は打ち切られたと伝わっています。
実際に外国語に対して非常に内向きな動きが、英語大国アメリカでは起きている。それを受けて、これからの翻訳家のイメージを考えてみますと、例えば食器は、通常ほとんどは既製品が使われていますけど、今でも手作りの陶芸のコップや杯はそこそこ使われていますよね。着るものでも機械編みのものが多い中、相変わらず手編みのセーターを求める人がいる。
そういうものは値段は高いですが、これから翻訳もそうなっていくかもしれません。AI翻訳で出した本はコストはかからないわけだから、仮にそちらが500円、人間が訳したものが2000円という競争が訪れるかもしれない。
クリエイティブ分野であったり、専門的な要素が深い分野は、人間翻訳者のタッチが残されていくでしょうし、いかなくてはいけないと思います。当然AIと共存していくのですが、どういう残り方ができるかですかね。もしかしたら、人間のほうがアシスタントになるのかもしれませんが。
100年後に博物館に行くと「これ、昔は人間が全部訳していたらしいよ」なんて。
ないとは言えないですよね。象形文字を見るような感じで「読める?手書きだってよ」みたいな(笑)。
今日は、Agencyという話が割と共通したところかなと思いましたが、すごく意味があるいい話でした。
私は社会言語学で、あまりよしあしを考えない学問ですが、同化・異化でいうと、ジブリの映画は、20世紀はアメリカに同化した訳し方をしていたんですが、今世紀に入ってゴツゴツ感が増えてきました。海外でも日本語がわかって見ている人が増えたのだと思います。AI時代になってどうなるか。翻訳は古くて新しいテーマですが、これからも注目したいですね。
本日は有り難うございました。
(2026年6月29日、慶應義塾大学三田キャンパスにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。