執筆者プロフィール
新堂 信昭(しんどう のぶあき)
イノベーション推進本部本部長・特任教授新堂 信昭(しんどう のぶあき)
イノベーション推進本部本部長・特任教授
1.まだ市場に表れていない価値を、社会へつなぐ
大学には、まだ市場に姿を現していない価値が数多く眠っています。すでに論文や特許として輪郭を現したものもあれば、研究室で確かな可能性を示しながら、事業や製品の形には至っていないものもあります。こうした研究成果は、社会課題の解決に役立つだけでなく、新たな産業や市場を生み、社会にイノベーションをもたらす力を秘めています。
しかし、優れた研究成果があっても、それだけで社会実装に至るわけではありません。
優れた研究成果が生まれることと、それが社会で使われることとの間には、大きな隔たりがあります。技術の有効性が示されても、誰にどんな価値を届けるのかが明確でなければ、事業にはなりません。特許が成立しても、ライセンス方針や実施主体が定まらなければ、知財は価値へと変わりません。研究者の志と優れた技術があっても、経営人材、事業開発、資金、制度への対応が伴わなければ、社会に届く手前で歩みが止まります。
大学発スタートアップは、この隔たりを越える有力な手段の1つです。技術移転や共同研究が適する場合もありますが、スタートアップという器があるからこそ育てられる研究成果もあります。とりわけ、長期の研究開発を要する先端技術、いわゆるディープテックでは、技術を起点に新たな用途や市場を切り拓いていく過程そのものが、価値創造の中核になります。
慶應義塾大学イノベーション推進本部は、「挑戦を支え、知と志を社会へ」をミッションに掲げています。研究成果を見いだし、知財を整え、事業仮説を磨き、ふさわしい人材や資本と結び、社会実装への道筋をつくる。これも大学が担う挑戦です。本特集の4つの記事の取組は、対象や方法こそ異なりますが、人と知を育て、社会との接点をつくり、成果を次の教育・研究・挑戦へ還す点でつながっています。本稿では、大学発スタートアップの中でも、ディープテックの社会実装支援に焦点を当てます。
2.慶應義塾の現在地──研究成果を事業へつなぐ基盤
慶應義塾の大学発スタートアップ支援は、個々の相談や案件に応える段階から、全学的なエコシステムをいかに築き、持続させるかを問われる段階へと進んでいます。
2026年6月時点で、慶應義塾大学発ベンチャーは473社、学生ベンチャーは205社に達し、前者は全国3位、後者は全国1位となりました。また、株式会社慶應イノベーション・イニシアティブ(KII)は、2026年5月時点で運用総額350億円、投資先76社に達しています。
もちろん、起業の社数や順位そのものが目的ではありません。大切なのは、研究者、学生、卒業生、企業、投資家、専門家がつながり、そこで蓄積された知見や信用が、次の挑戦に生かされることです。1つの成功を単発で終わらせず、新たな挑戦へとつないでいく。その循環を生み出せるかが問われています。
その土台となるのが、総合大学ならではの研究の広がりです。慶應義塾には、ライフサイエンス、AI・デジタル、材料、ロボティクス、環境・エネルギー、ものづくり、気象、都市・社会システムなど、事業化の可能性を持つ多様な研究成果、いわゆる研究シーズがあります。さらに、医薬・理工系から、人文・社会科学、経済・経営、政策、デザインまで多様の知見が交わることで、1つの専門領域だけでは捉えきれない社会課題に向き合えることも、慶應義塾の強みです。
2024年4月には、知的資産部門がイノベーション推進本部に加わり、戦略企画室も設置されました。現在は、研究成果の発掘から知財形成、起業支援・技術移転、アントレプレナーシップ教育、エコシステム形成までを一体的に進めています。
本部には、研究開発、知財、事業開発、投資・金融、戦略企画、人材開発など、実務経験を持つ専門家も加わっています。慶應義塾の研究成果や次代の挑戦を支えたいとの思いから、大学に参画した人材もいます。大学の内側にある知と、事業化の現場で培われた知をつなぎ、研究者のそばで継続的に考える。その積み重ねが、支援力を支えています。
3.会社になる前、会社になった直後にこそ支援が要る
大学発スタートアップ支援というと、会社設立や資金調達が注目されがちです。しかし、実際に多くの時間と手間を要するのは、会社になる前です。技術の可能性と顧客の課題を確かめ、知財や権利関係を整理し、事業仮説をゼロから組み立てなければならないからです。
基礎研究から技術や試作品へ進む間には、「魔の川」と呼ばれる壁があります。再現性や用途を確かめ、顧客価値へ結びつける段階です。その先には、事業化を阻む「死の谷」が待っています。量産、顧客導入、資金調達など、研究者一人では越えられない課題が並びます。
壁の姿は分野によっても異なります。たとえば、医療では臨床や薬事、建築や材料では安全性や量産性、気象やデジタルでは現場導入が鍵になります。案件ごとのリスクを見極め、解くべき課題を順に進めることも、大学の役割です。
会社を設立した後も、支援は欠かせません。創業直後は実績が乏しく、民間資本が本格的に入るには早い一方、実証(PoC)や追加開発、採用には資金と人材が必要です。この時期の支えが、その後の成長を左右します。
必要なのは、顧客ニーズを検証し、試作や追加開発を進める資金と、知財・事業・資金・人材をつなぐ専門人材です。研究の経緯を理解し、研究者に寄り添いながら学内外をつなぐ人材が、大学の内側に必要です。目立ちにくいけれど、なくてはならない部分に大学自身が手を打つ。そこに支援の核心があります。
4.KSIP──「次の一手」を設計する支援
こうした考えの下、研究成果の事業化を構想段階から支える仕組みとして、慶應スタートアップインキュベーションプログラム(Keio Startup Incubation Program、KSIP)を2023年10月に開始しました。2026年8月時点で、BlueWX、DigitalArchi、グラフェナリーをはじめとした5チームが、起業後の資金調達を達成して修了しています。
KSIPの特徴は、あらかじめ決めた支援を一律に提供するのではなく、案件ごとに論点を見極める個別支援によって、チームと共に「次の一手」を設計することにあります。
相談は、「投資家を紹介してほしい」「起業したい」といった要望から始まります。しかし、対話を重ねると、先に確かめるべきことが見えてきます。技術は顧客の課題を解決できるか。権利関係は整理されているか。研究者と経営人材はどう役割を分担するか。
支援の現場では、「何を支援するか」だけでなく、「何から先に進めるか」が重要です。顧客検証や知財戦略を優先すべき案件もあれば、起業ではなく共同研究や技術移転が適する場合もあります。KSIPでは、社会実装の出口から逆算して進め方を組み立てます。
大切なのは、支援する側が一方的に答えを与えないことです。研究者、学内担当者、経営人材候補、投資家、専門家が知見を持ち寄り、案件ごとに支援体制をつくる。私たちはこれを、共創型の事業化支援と考えています。こうした支援を一部の人の経験だけに委ねず、次の担い手も育てながら大学に根づかせることが重要です。その仕組みと応援の輪から、すでにさまざまな挑戦が生まれています。
5.応援の輪から生まれた2つの挑戦
BlueWX株式会社──航空の安全と運航の高度化に挑む
飛行機で移動中に突然大きく揺れ、思わず肘掛けを握った経験のある方もいるでしょう。乱気流は、乗員乗客の負傷や運航への影響にもつながる、航空にとって身近で深刻な課題です。BlueWX株式会社は、慶應義塾で培われた気象学とAIを組み合わせ、乱気流や風を高精度に予測することで、空の安全と安定した運航を支えようとしているスタートアップです。
同社の出発点には、大学と航空会社による長年の共同研究がありました。その成果を継続的なサービスとして社会へ届けたい。そこから、スタートアップとして事業化する構想が生まれました。しかし、研究成果があるだけでは、航空会社が使えるサービスになるわけではありません。どの情報を、誰の意思決定に役立てるのか。研究者と会社は何を担うのか。知財をどう生かすのか。越えるべき論点は数多くありました。
イノベーション推進本部は、起業相談の早い段階から伴走しました。大学の紹介でKIIが加わり、研究者と事業計画や知財ライセンス方針を検討しました。さらに、「未来X」への参加、1st Roundへの採択、公認会計士三田会による法人設立支援へとつながりました。
創業初期には、事業仮説を磨く機会や専門家との対話に加え、民間資金が本格的に入る前の開発費も必要です。大学では、こうした局面を支える助成の仕組みも整えています。現在、同社のシステムは国内大手航空会社に導入されています。研究から知財、起業、顧客導入へ。その歩みを、大学と多様な応援者がつないできました。
株式会社DigitalArchi──建築の生産性と資源循環を再設計する
建設現場は、熟練した職人の技に支えられています。その一方で、高齢化や人手不足、資材廃棄、環境負荷といった課題も深刻になっています。株式会社DigitalArchiは、独自に開発した大型3Dプリンタと再生プラスチックを用い、建築用の型枠や内外装パネルなどを製造しています。建築の生産性と設計の自由度を高めながら、資源が循環する新しい工法を生み出そうとしているスタートアップです。
同社の技術は応用範囲が広いからこそ、事業の中心を見極めるのは容易ではありませんでした。どの用途なら顧客価値が明確になるのか。どの市場から入るのか。どのような事業モデルなら成長できるのか。イノベーション推進本部は、KIIと事業計画を協議し、顧客検証を進めました。また、株式会社ビズリーチの仕組みを活用して、客員起業家(EIR)候補人材の獲得も支援しました。さらに、1st Roundへの採択、公認会計士三田会による法人設立支援、三井住友銀行での法人口座開設、日本政策金融公庫等への融資相談へと支援をつなぎました。現在は、CRIK信濃町にも入居しています。
2社は分野も市場も異なりますが、事業化の過程には、研究者と大学だけでなく、塾員、企業、金融機関、投資家、専門家など、多様な人々が関わってきました。学内の支援者は、その中で研究者やスタートアップと外部の支援者をつなぎ、それぞれの知識や信用、資本、機会を結びつけながら、社会実装に向けた歩みを支えてきました。
6.研究シーズごとに、必要な力を結集する
どのような力をチームに加えるべきかは、研究分野やシーズの性質によって変わります。たとえば、医療系では臨床や薬事、理工系では試作や量産、デジタル・社会システム系では利用者検証や制度設計に通じた人が必要です。実際に加わる人や、その関わり方は一様ではありません。
KSIPでは、案件ごとに知財、事業、資金、人材の論点を整理し、「次の一手」を設計します。専門性の高い医療分野では、研究成果を患者に届けるまでに、試験、薬事、製造、事業開発など多くの専門家が長期にわたって関わります。
医療分野で、こうした支援を形にしているのが、慶應義塾スタートアップ推進拠点(Keio Biomedical Accelerator、KBA)とSPARK Keioです。KBAは、大学病院、医学部、イノベーション推進本部が協働し、医療系研究成果の起業と実用化を支える拠点として、約20件の研究課題を採択してきました。その中心的な取組の1つであるSPARK Keioでは、スタンフォード大学SPARKの知見を踏まえ、研究者、臨床家、産業界の専門家らが対話を重ねています。学術的な視点と産業界の経験を持ち寄り、治療法や診断法を患者へ届ける道筋をともに探っています。
専門家が正解を持ち込み、研究者が受け取るだけでは、協働は成り立ちません。支援者も研究や臨床現場から学び、研究者と対話を重ねます。長く歩めるチームをつくることが、研究成果を患者へ届ける力になります。
こうしたチームを支える人は、学内に限りません。三田会をはじめとする塾員、企業、投資家、専門家も、それぞれの経験を持ち寄っています。KSIPでは、塾員を中心とする実務家が、事業計画や資金調達、知財、組織づくりなどの知見を伝える「KSIPラーニング会」に登壇しており、2026年8月時点で動画講座は60本に達しています。成功だけでなく、試行錯誤から得た知恵が次の挑戦者へ手渡されていることも、慶應義塾の大きな財産です。
社会で積み重ねてきた経験が、研究者との対話を通じて次の挑戦へ手渡されていく。こうした人と人との関わりもまた、研究成果が社会へ踏み出すための大切な支えです。
7.支援とは、まだ形にならない価値にコミットすること
大学発スタートアップ支援の成果は、会社数や調達額だけでは測れません。研究成果が社会に届くこと。支援で得た知見が次の案件に生かされること。起業家や支援者が、やがて新たな挑戦を支える側として循環の輪に戻ること。そうした価値の積み重ねこそが重要です。
その循環を生み出すには、2つの基盤が欠かせません。第1は、顧客調査、PoC、試作、追加開発など、創業前後の初期段階を支える資金です。第2は、研究者と対話し、知財、事業、人材、企業、金融機関、投資家を、必要な時期に、適切な順番でつなぐ専門人材です。大学発スタートアップ支援は、どちらが欠けても成り立ちません。
イノベーション推進本部では、公的資金や企業との連携を活用するとともに、将来は、成長したスタートアップや起業家からの還元が次の挑戦を支える資金循環も目指しています。ただし、公的資金には期間や使途の制約があります。その意味で寄付金は、研究成果の発掘から社会実装までを長期に支え、公的資金だけでは手が届きにくい初期の挑戦を可能にする、大切な力となります。
応援の形は、資金だけではありません。専門知識を提供すること、経営人材として参画すること、実証や顧客接点の機会を開くこと、投資すること、人材を紹介することも、いずれも重要な関わり方です。資金、知識、人材、信用、機会が互いを補い合って、初めて研究成果は事業として前へ進みます。
慶應義塾には、「社中協力」という文化があります。一人ひとりが培った経験や専門性、時間、資金、人とのつながりを、次の挑戦のために持ち寄る。その考え方は、大学発スタートアップ支援にも重なります。大学の研究成果は、大学の中だけでは完結しません。社会の側にも、その価値を見いだし、信じ、育てる人がいて、初めて社会実装への歩みが始まります。
まだ形にならない研究成果が、いつか私たちの暮らしや産業を変えるかもしれません。その価値が誰の目にも見えるようになる前から、研究者の隣でともに考える人、事業の経験を持ち寄る人、実証や資金の機会をつくる人が加わることで、可能性は少しずつ社会へ向かって動き始めます。大学発スタートアップ支援とは、まだ見ぬ未来の価値を、ともに形にしていく営みです。そこでは、これまで培われてきた経験や知見、人とのつながりが、次の挑戦を支え、未来をひらく力になります。
【「慶應義塾発スタートアップ育成資金」ご支援のお願い】
教育・研究成果の社会実装によるイノベーション創出を、持続的に支えるための寄付金制度です。皆さまのご支援が、未来を変える挑戦の原動力となります。是非ご支援をお願い申し上げます。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。