執筆者プロフィール
岩谷 十郎(いわたに じゅうろう)
名誉教授常任理事岩谷 十郎(いわたに じゅうろう)
名誉教授常任理事
画像:慶應義塾福澤研究センター提供
はじめに
「ウィグモアって、あのウィグモアですか?」──数年前のことだった。授業の合間、三田の談話室でアメリカ人弁護士の先生が驚く。ジョン・ヘンリー・ウィグモア(John Henry Wigmore, 1863-1943)は、証拠法の世界的権威として、特に英米圏の法学者においては彼の名前を知らない者はいない。またウィグモアは、以下に触れるように、比較法・比較法制史の領域においてもユニークな業績を数多く世に著した人物である。
そして、すでに何年も慶應の法務研究科に出講していたそのネイティブの先生は畳みかけるように、「でも、この三田のキャンパスのどこにもウィグモアの功績を示すものがありませんよね。どうしてですか」と疑問を呈された。実はこのウィグモアこそ、慶應義塾大学法学部の創設者なのだが、そのことを現在の法学部教員でも知る者は決して多くはない。そこでこの小論では、日本の近代法学の黎明期に遡り、ウィグモアがいかに自らの法学教育の理想を慶應で実現しようと奮闘したのかを紹介しよう。
1.大学部法律科──英米法に準拠した法律学校
慶應における法学の専門教育は、1890(明治23)年1月に開設した大学部法律科に始まる。この時、文学科、理財科も置かれ、3科ともそれぞれアメリカから招聘した学者を主任教員に据えた。法律科の主任教員ウィグモアは、ハーバードロースクールの卒業生で、ボストンで弁護士を開業中に、ハーバード大学学長のエリオットの推挙により慶應義塾と雇用契約を交わした。着任時、弱冠26歳だった彼は、3科の米国招聘教員中最年少の気鋭の青年法律家であった。
ところで、明治国家の第1の外政問題は、幕末に西洋列強諸国と結んだ「不平等条約」の撤廃にあった。その国家的目標を達成し主権国家として自立するためには、まずは国内法の標準を西洋列強諸国の法規範に合致させる必要があった。ここに日本法の西洋化が求められ、イギリスやフランス、後にドイツ等の法制度や法学の摂取が進められ、また明治初年期からそうした西洋法に範をとった法学教育が盛んに展開されることとなった。
だが、大学部開設のためにウィグモアが来日した明治中期になると、日本は前述の西洋法化を猛スピードで進めた結果、1890年2月には大日本帝国憲法が公布され、およそ今の六法の法典化を実現してしまう(なお、民法や商法といった私法分野についてはいわゆる法典論争が勃発し、それらの法典の施行は延期される)。つまり、日本はもはや日本語で記された西洋型の近代法典を自前で揃える段階に達し、各法律学校は西洋法を直接のテキストとせざるを得なかった状況を脱して、今や日本語で記された日本の法を、日本人が日本語を用いて授業を行うことが可能となった。まさに帝大の法学者、穂積陳重(ほずみのぶしげ)の言う「法学のナショナライズ」が着々と進んでいたのであるが、近代法の範として日本が選択したのは、国家法システムや法学教育の中軸として成文法(=制定法/法典)を位置づけるヨーロッパ大陸の法文化であって、判例による法判断や法規範の形成を主眼とした英米流の法文化ではなかった。そのような時流に逆らうように、慶應義塾だけは、ネイティブ教員による英語を用いた英米法教科を主としたカリキュラムを準備したのである。
2.ウィグモアによる「ケースメソッド」の導入とその失敗
法学教員としてのキャリアの第1歩を異国の学校で踏み出すにあたって、ウィグモアが三田の教室に持ち込んだのは、母校ハーバードロースクールで当時革命的であったラングデル流の「ケースメソッド(判例教授法)」であった。ウィグモアはまさにラングデルの学部長時代(1870-1895)にロースクールに学び、ラングデルから直接にケースメソッドの手ほどきを受けた。おそらく彼は自らの経験から、学生には単なる知識の断片を与えるのではなく、具体的な判例を通じて自ら議論し、その背後にある法理を発見させるという能動的な訓練を理想としたのであろう。帝大ではチゾン(Alexander Tison, 1857-1938)がラングデルの『売買法判例集』などの教材を用いたとされ、慶應ではウィグモアが日本の判例を英米法の形式に書き換えて学生に提示したという。しかし、この試みは日本の学生たちの伝統的な学習スタイルと激しく衝突し、ウィグモアに苦い教訓を与えるエピソードを残すこととなった。
ウィグモアは週に1時間、学生1人ひとりに判例を割り当て、その内容を報告させる時間を設けた。ところが、初回から準備を整えてきた者はごく僅かであり、英文の要約(シラバス)作成という課題を学生たちは非常に煩わしく感じていた。ウィグモアは負担を減らすため、口頭発表のみで済むよう配慮したが、その後5週間にわたって誰も準備をしてこないという「非準備(non-preparation)」のストライキが続いた。最終的に学生たちは学校の「マネージャー」に対し、「判例の研究は卒業後でもできるので、この授業はやめてほしい」と正式に中止を要求し、実際にその授業は中止へと追い込まれた。
ウィグモアの分析によれば、当時の日本の学生にとっての教育とは、一定量の情報を受け取って「貯蔵(store away)すること」であり、自律的に思考するプロセスではなかった。そこでは「かく師は宣われた(Thus said the sage)」との伝統的な姿勢が尊ばれ、学生は教員の見解を口述筆記し、問いに対する「正解」として渇望する。そのため、教員から問いかけられ議論を促されることや、原理を自ら考え抜くといった知的努力を、彼らは「不自然で、忌避すべきもの(repellent)」として拒絶する。
また、複雑な判例から法理を導き出す英米法的な訓練よりも、フランス法やドイツ法が提供する「出来合いの抽象的概念(ready-made abstractions)」や「明快な公式(straightforward formula)」を丸暗記する方が、最小限の知的努力で済むため、学生には心地よく感じられていた、とのウィグモアの観察は現代にも響く鋭さがある。なるほど、「何が法であるのか」という問いに対して、制定法や法典といった明快な拠り所を示せるヨーロッパ大陸法の在り方の方が、日本人の伝統的な思惟方式には適合的だったのかもしれない。もっともウィグモアは、日本の学生が示す、法学を決して生活の糧にとどまらせないで高尚な「知識」と仰ぐ姿勢を高く評価していた。しかし彼らの受動的な姿勢を西洋的な法学教育を定着させる上での最大の障壁であるとも痛感していた。
3.「ケースメソッド」の意義──過去と現在とを繋ぐ橋
ウィグモアは自らが見聞した明治中期の日本についての様々なレポートを、アメリカの新聞や雑誌に、あるいは日本で出版されていた英字新聞等に、頻繁に掲載した。当時の日本の法学教育機関や、上述したような自らの教育体験も、「近代日本における法学教育」と題した論説として2回に分けてアメリカの法学雑誌『The Green Bag(1892)』に紹介している。そこには外国の法学者の斬新な好奇心に導かれた興味深い考察が溢れているのだが、史実として見れば、やや書き込み過ぎているといえないこともない。さらにウィグモアなりの配慮か、個別の事件や事象についてはあえて機関名や情報源を明示しないまま記すこともあった。例えば前述の伝統的な学習態度の残念な学生の例は文脈上慶應での出来事と捉えられるのだが、ウィグモアの3年にわたる薫陶を受けた法律科1期生で弁護士の鈴木治郎によれば、
「私法に属する契約法や私犯法なぞは『ラングデル式』の教授法に依られ、或る事件を問題として掲出し、博士より各学生に対し問を発して意見を述べしめ、其の是非を判断して大体の理由を説示し、更に判決例を読ませて法理を説明せられました。此の方法は帰納的で実に進歩した教授法でした」(「ウィグモア博士に関する感想」『三田評論』453号、1935年)
と正確にラングデルメソッドの効能を述べており、しかも分量の多い判決例の読破やそれらの十分な咀嚼は出来なかったものの、「法律学と訴訟事件に関し興味を覚へるに至つたのは此の講座の賜」であると述懐している。ここにウィグモアが慶應でケースメソッドを実践した一定の効果はあったと評することも可能なのではないか。それに、アメリカの法学教育におけるラングデル方式も、登場した当初はなかなか受け入れられなかったものの、ウィグモア修学時のハーバードロースクールを拠点として漸く勢いを拡げる段階を迎えていた。だが実は、それまでの、論文・論説を暗記させ、実務的な演習を繰り返し、そして頻繁に模擬裁判を実演することを旨とする、いわゆる「ドワイト(Dwight)方式」(コロンビア大学ロースクール)もまた根強く残り続けていたのである。極東の日本においては、言語の壁も立ちはだかり、いきなりのケースメソッドの施行は、当然に難航が予想されたに違いない。ウィグモアの真意はどこにあったのだろうか。
ウィグモアが英米法の教師として滞日した期間は、彼にとっては2つの意味でこの上なく刺激的かつ学問的な経験を積む毎日だったと思われる。1つ目は、ヨーロッパ大陸の法制度や法学が日本という異文化の地に及ぶ有様を目の当たりにし、そこから比較法を学ぶ機会を得たことである。そして2つ目は、この法継受の現象を日本の法発展の内側──つまり歴史──から考える機会を得たことである。なによりも彼自身が異文化の法学者として日本滞在を夢中になって過ごしていたことは間違いない。
日本法に対するウィグモアの関心は、日本の法律体系が英米法と同様に判例法によって発達したとの仮説に基づいていた。彼は法を進化の過程において捉え、その進化を一般的に立法(法典)によるものと司法的判決(判例)によるものに大別する。そして彼はイギリスとともに日本を後者に分類するのだが、人種、宗教、歴史、その他の文化的条件において大いに異なり、さらに日本は長らく鎖国体制にあったにもかかわらず、両国とも裁判官による判例形成という点で共通性が見られるのはどうしてなのかとの関心を抱く。こうしてウィグモアは徳川時代の法の歴史研究にのめり込む。それゆえ、彼が学問的関心を寄せる「日本法」とは、西洋法に範を採ってひたすらに近代法典化の途を進むそれではなく、日本の従来からの慣習や慣例、さらに旧時代の裁判例の中に確認できる「判例法」を通して現れる固有の姿の日本法なのであった。
ウィグモアは滞日中に、様々な手を尽くして『民事慣例類集』や『徳川民事慣例類集(徳川裁判事例)』等の稀覯資料との邂逅を果たし、それらの英語訳を企てる。そして、特に後者の資料だが、その副題が表すようにこれこそ日本の旧時代の裁判事例を収録し、ウィグモアにとっては、ケーススタディの素材とするにはうってつけの資料だったに違いない。
現代アメリカのウィグモア研究の第1人者、アナリサ・ライルズ(Annelise Riles)教授(ノースウェスタンロースクール、法人類学専攻)によれば、ロースクールで用いられる「ケースブック(判例集)」は、教員が正解を提示するためではなく、生の判例を提示することで学生の議論を刺激するところに主眼があると言う。徳川時代の裁判例──未知の文化の法素材に対峙した時、ウィグモアは「ケースメソッド」を自らに適用した。彼はそれらの法理的な「意味」を自らのよく知る西洋法と直截に比較して性急に結論づける途は選ばず、まずはそれらの事例を日本の学生と共有し、「対話」を通して共に「法(理)」を発見してゆくための素材としたかったのではないか(前述したように、ウィグモアは実際に、日本の判例をわざわざ英米法の形式に書き換えて授業の素材としたと述べている)。むろんそれはウィグモアにとっては、異なる法文化との遭遇のほか何物でもなかったが、他方の明治中期の法学生にとっては、近代化の目まぐるしい変化の中で、自国のことながらもはや旧時代の遺物として忘れられ捨て去られてゆく記憶であった。慶應におけるウィグモアによるケーススタディの実践の真の意味は、教室の学生たちに対するその記憶の現前化にあり、瞬く間に西洋化してゆく日本法が決して失われてはならない自らの過去をも含む「現実」とのリエゾンの再認識にあったのではなかろうか。
4.英訳資料の刊行と比較法史研究の原点
先に挙げた資料の英訳を手伝った者の中に、牛場徹郎や神戸寅次郎らの名前があったことは記憶されてよい。両者とも慶應義塾正科を卒業しており、神戸は義塾の教員を勤めながら大学部法律科に進みウィグモアの手厚い指導を受け、ウィグモアの弟子として後に塾の法学部教授・法学部長となる。一方の牛場は本科5年のところ僅か3年で修了した俊英で、抜群に英語ができ、外国人教員との会話では彼の独壇場となって年長者の顔が立たないこともしばしばあったという。ウィグモアはその成果を、『旧日本における私法研究のための素材(Materials for the Study of Private Law in Old Japan)』と銘打って『日本アジア協会紀要』の別冊として滞日中に次々と発表したが、浩瀚な資料の冒頭には、彼ら(特に牛場など)に対する謝辞が記されている(なお、この2人の塾員とウィグモアとの交流については、拙稿「ジョン・ヘンリー・ウィグモアにおける日本法研究の端緒」『近代日本研究』24巻、2007年、同「『拝啓ウィグモール先生!』」『福澤手帖』165号、2015年を参照されたい)。
1892(明治25)年12月、帰国したウィグモアは、シカゴのノースウェスタン大学ロースクールに転じ、1901年からディーンとして、同校の発展に大いに寄与する。そして、1929(昭和4)年に同職を退き、名誉ディーンの称号を受け、その後もロースクール教授として後進の指導にあたった。彼が再来日を果たしたのは1935年のことだった。その目的の1つは、江戸時代の裁判例や慣例集の英訳本の刊行を遂げるという彼の青年時代からの宿志の実現に置かれた。この企画は前年の34年に設立した国際文化振興会により支えられることとなり、多くの慶應関係者も研究助成のための寄付金供出に協力した。こうした長年にわたる日本文化の研究や普及に果たした功績を顕彰して、35年、日本政府はウィグモアに叙勲の栄誉を授与するが、その後日米をめぐる状勢は困難を呈し、結局この遠大な計画は、彼の死後43年を経て漸く、1986年、9巻全20冊の大著『徳川日本の法と正義(Law and Justice in Tokugawa Japan)』(東京大学出版会)となって完結する。
ウィグモアが再来日した際に、彼は自らの比較法制史の大著"A panorama of the world’s legal systems"(『世界法大系のパノラマ』全3巻)を慶應の図書館に寄贈した。その見返しの部分に、彼が自署とともに記した献辞には、以下のようにあった。
Present to The Library of Keio Gijuku Daigaku, in recollection of those earliest days when I first received the inspiration, at that institution, to undertake the study of Comparative Law,—whence ultimately came this book.
John. H. Wigmore April, 1935.
(拙訳──私がここで最初に比較法学の着想を得た頃の若かりし日の思い出を留めんがため、その成果としての本書を慶應義塾大学図書館に寄贈する。ジョン・H・ウィグモア 1935年4月)
慶應は、若き日のウィグモアの迷いと奮闘と夢とが混ざり合った場所であり、また大成して老博士となった彼が自らの原点を見定め懐かしもうと戻ってくる故郷のような場所であったに違いない。
おわりに
慶應義塾は、1935年に再来日を果たしたウィグモアを大いに歓迎した。心打たれた彼は、時の塾長、小泉信三に対して、「大学部を始めるに当たっての私の役割は限られたものでした。さらに顧みると、私がどんなに誤りを犯したかは分かっています」と後に書き送っている。ウィグモアが自らを省みる誠実な人物であったのかがよく分かるエピソードである。
ライルズ教授は、ウィグモアの比較法・比較法制史における、理論よりも実例を重視する方法を「素人主義(Amateurism)」と特徴付ける。このスタイルは、テキストを単なる結論の提示場所ではなく、集団的な対話、すなわち「ケースメソッド的」対話の素材へと変えるためのウィグモアの戦略的な選択だった、とライルズ教授は評価する。*1この含蓄ある解釈を前提とすれば、彼が残した膨大な比較法・比較法制史研究の著作群は、我々に時空を越えて彼が発した質問の受取人となることを求めていることになろう。
〈註〉
*1 Annelise Riles, Encountering Amateurism: John Henry Wigmore and the Uses of American Formalism, in: Rethinking the Masters of Comparative Law, edited by Annelise Riles, Hart Publishing, Oxford, 2001, pp. 94-126.
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。