慶應義塾

永原 宣:福澤捨次郎のMIT留学生活

公開日:2026.07.06

執筆者プロフィール

  • 永原 宣(ながはら ひろむ)

    マサチューセッツ工科大学人文学・芸術・社会科学部歴史学科准教授

    永原 宣(ながはら ひろむ)

    マサチューセッツ工科大学人文学・芸術・社会科学部歴史学科准教授

画像:慶應義塾福澤研究センター提供

福澤諭吉の次男である福澤捨次郎(すてじろう)は1884(明治17)年からの4年間、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)で土木工学を専攻し1888年に理学士の学位を得て卒業した。MITに留学した日本人は、本間英一郎(1874年卒)に始まり、捨次郎が入学するまで團琢磨(だんたくま)(1878年卒)・富永冬樹・森春吉・三岡丈夫・鳥居忠文と続いていったが、これらの多くは比較的短い期間に特別生としてMITで学んでいた。それに対して、学位を得た正規生としては捨次郎が本間・團について3番目にあたる。いずれにしても、MITにおける最初期の日本人留学生の1人であったといえるだろう。

捨次郎は兄の一太郎と共に家庭内や慶應義塾で教育を受けた後、息子たちをアメリカで留学させたいと強く願っていた諭吉の後押しで1883年に横浜を出港し、最初の1年間をオハイオ州やニューヨーク州で過ごした後、それぞれの留学先に移っていった。一太郎・捨次郎の留学の経緯や帰国後の活動については、小川原正道『慶應義塾の近代アメリカ留学生』(2023年)がその詳細を明らかにしているが、ここでは本間と團の留学体験と比較する形で捨次郎のMITでの学生生活に注目していきたい。4年間正規生としてMITで過ごした捨次郎に関しては、本間や團と同様にある程度MIT学内で史料が残されており、いずれも当時のMITの教育内容や留学生活について興味深い事実を伝えるものだ。同時に3人に関するMIT側の史料の具体的な内容には大きな違いもあり、それ自体がそれぞれの留学体験や帰国後のキャリア、そして在学時のMITの状況を色濃く反映している。

MIT開学と日本人留学生

MITの正式な開学は1861年とされており、これはこの年にマサチューセッツ州議会で同大学の設立が決議されたことに由来している。しかし実際に学生を迎え入れ、講義を開始したのは南北戦争終結後の1865年であり、教育機関として機能し始めたのはこの時からであった。そのわずか2年後の1867年10月には、福岡藩から派遣された留学生の1人として本間英一郎がボストンに到着している。蘭癖大名として知られている11代藩主の黒田長溥(ながひろ)は本間の他にもハーバード大学・ロースクールを日本人として初めて卒業した井上良一など、計5人の福岡藩士の子弟たちをこの時送り込んだ。

本間と井上はマサチューセッツ到着後の3年間は基本的に行動を共にしており、新島襄がすでに在学していたアマースト大学の周辺や、州中部のウースター市に当時あった私立の兵学校などで学んだ後、それぞれの大学に入学した。MITの入学試験を無事に合格した本間は、1870年から当時の最先端技術であった鉄道工学を学ぶために土木工学科の正規生となったのだが、同学科に割り当てられた科目番号が1番(Course I)であったことからも開学当初のMIT学内におけるその地位が窺われる。明治維新後の廃藩置県などの余波に見舞われながらも、本間は順調にMITで学生生活を送り続け、1874(明治7)年には日本人のみならず外国籍の学生としても初めて同校で理学士の学位を得て卒業した。帰国後の本間は明治政府の鉄道局だけでなく、民間の鉄道会社でも技師や重役として活躍し、文字通り鉄道人としての人生を歩んでいった。

そして本間がMIT在学中の1872年には、同郷の團琢磨もボストンに到着した。前年の廃藩置県で福岡藩が消滅したにもかかわらず、名目上は長溥の世嗣で福岡藩最後の藩主となった黒田長知の付き添いという形で金子堅太郎と共に長溥により送り込まれてきたのだった。本間が卒業した翌年に團は飛び級で正規の2年生としてMITに入学した。本間がすでに鉄道工学を学んでいたため、團はそれに被らないようにあえて鉱山工学科を選び、1878年に卒業する。帰国後の1884年に工部省に入省し福岡県三池炭鉱に技師として送られた團は、三池が三井財閥に払い下げられた際に同社に三池炭鉱の責任者として迎えられた。その後三井合名会社の理事長にまで登り詰め、最後に1932(昭和7)年の血盟団事件で凶弾に倒れたその人生は、日本の近代化を色々な意味で象徴するものであったといえるだろう。

史料に現れる留学環境の変化

本間と團に関してはMITで卒業論文が保存されているだけでなく、大学アーカイブ(MIT Libraries Distinctive Collections)にそれぞれの名前を冠した関係文書が収蔵されている。本間関係文書は主に在学中に本間が提出した課題や、マサチューセッツ滞在中に交わした書簡などから構成されており、特に当時ボストン近郊で留学していた日本人留学生の間の交流の様子などが垣間見える大変貴重な史料である。他方で團琢磨関係文書は基本的に卒業後の團とMITの上層部や同窓会関係者との間のやり取りが中心となっており、その中には1921(大正10)年に團がMITを訪れた際に全校集会で行った演説の記録なども含まれている。いずれも團が著名な卒業生としてMIT側から重要視され続けていたことを示すものである。

このようにMITで保管されている本間・團の両者まつわる史料は歴史的価値の高いものではあるが、いずれも当時のMITでの学生生活、特に課外活動や同級生との交流などについてはあまり触れていない。これは何よりも当時のMITがまだ黎明期にあり、大学自体の規模が小さく、キャンパス・ライフといえるものがほとんどなかったことを物語っている。本間の卒業時のMITは、正規生・特別生・大学院生を含めて全体で303人しか在籍しておらず、校舎もボストン市内のボイルストン通りに面した1つの建物を所有していただけで、学生寮もなかった。それに加えて本間と團は、幕末から維新直後にかけての動乱期に留学していたこともあり、日本人留学生との交流の痕跡のほうが目につきやすい。また團の卒業後の回想や没後の正式な伝記の中ではMITの恩師であったRobert H. Richards教授による指導風景など、勉強に関する記録が目立つ。本間や團にとって、当時のMIT学内では留学生活を楽しむ機会も余裕もあまり豊富ではなかったようだ。

本間が卒業してからちょうど10年後の秋には、いよいよ福澤捨次郎がMITで学生生活を開始している。この頃のMITはいまだにキャンパスといえるような環境は整えられていなかったが、捨次郎が卒業した1888年の時点で在校生が719人にまで増加し、77名が理学士として卒業している。本間を含めて1874年に卒業したのが18名であったことと比較すると、この時期のMITが着実に成長していった様子が窺われる。そして学生数の増加は学生活動を全般的に活発化させ、捨次郎のMIT体験を本間や團のものとは根本的に異なるものにしていったように思われる。それが一番よく見て取れるのが、捨次郎がMITに到着する直前、もしくは在学中に創刊された2つのMITの学生による出版物『Technique』と『The Tech』の登場である。

MITで選ばれ続けた捨次郎

Technique』は捨次郎が2年生だった1885年に創刊されたMITのイヤーブック、つまり日本でいうところの卒業アルバムに近い出版物で、各学年や学科、スポーツ、クラブ活動、社交クラブ(fraternity)などの名簿を1冊の本にまとめたものだった。当時のMITでは3年生の学生が編集を担当し、秋学期終盤の12月ごろに学内で販売されていた。当然捨次郎についても1885年版から1887年版にかけて、所属学年の一員として氏名、出身地、そしてボストンでの住所が記録されている。しかしそれだけではない。1886年版の内表紙には捨次郎の名前が8人の編集者の1人として堂々と記されており、また1886年・87年版では会計担当の学年委員を2年連続で務めていたことがわかる。またそれ以外にもTheta Xiという今でもアメリカの多くの大学で活動している男子大学生社交クラブのMIT支部のメンバーであったことや、4年生時にはMITで活動を開始した直後の大学生協の書記を務めていたことも『Technique』は伝えている。

『Technique』1886年版の内表紙

このように捨次郎はかなり活発に課外活動に参加していたようだが、それらが当時のMITの学生たちに持っていた意味合いについては、1881年に創刊されたMITの学生新聞『The Tech』がより詳しく伝えてくれている。基本的に隔週で刊行されていた同紙の紙面には在学中の捨次郎が度々登場するが、その多くは上記の諸委員会などに選出されたことを伝える記事である。特に重要だったのが学年委員会であり、これは当時各学年に設置された正式な自治組織で、所属学生だけでなく大学全体の関心事に関する議論や活動を取りまとめていた。また『The Tech』は『Technique』や生協などが当時の学生の間の自発的な活動によって成立していた様子を伝えている。これに関連して興味深いのが1886年12月16日付の紙面に掲載された記事で、ここでは上記のような活動のリーダーとして選ばれる学生の条件を列挙し、「能力・積極性・名声・時間と労力を注ぐ意欲」が特に重要であるとしている。これは捨次郎に対する同級生たちからの評価にも当てはまったのではないだろうか。

それを別の角度から物語っているのが日本人としての捨次郎に対する同級生の眼差しである。『The Tech』は捨次郎が所属学年主催のイベントで度々日本文化を紹介していたことを報じており、例えば1885年12月に開催された会ではその目玉として日本語について講演していたようだ。また、その中で披露した漢詩が特に喝采を浴び、アンコールでもう一首読んだとも伝えている。そして卒業間近の1888年4月6日に開かれた学年委員会主催の最後のディナーでは、祝杯をあげる対象として委員会長や学年所属のアスリートなど、特別に指名された7名に捨次郎も含まれ、「"Our Japanese Representative," S. Fukuzawa」、つまり「我らの日本人代表」として讃えられている。この表現は捨次郎が同級生に対して日本人を代表していたと同時に、同級生全体の代表としても認められていたことを表していたのではないだろうか。

帰国後の捨次郎とMIT生活の名残り

留学に際して福澤諭吉は長男の一太郎の数学力や引っ込み思案な性格について心配していた反面、捨次郎に対してはその学力を評価し、助言はしたものの具体的な専攻や留学先については本人に任せていたようだ。しかし捨次郎が実際にこれほどまで活発な留学生活を送ることを諭吉も本人も予想し得たのだろうか。

帰国後の捨次郎はMITでの専攻を活かす形で山陽鉄道会社で2年間勤務した後、諭吉が創業した時事新報社で1896年から1926年までの30年間社長として活躍した。そしてここでも捨次郎はアメリカの新聞業界などから得たヒントをもとに、様々な企画を考案しながら辣腕を振るうことになる。MIT卒業後の人生の大半を新聞社の経営に費やしたその経歴は、ある意味で土木工学以上にMITでの留学体験を反映したものであったのではないだろうか。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。