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柳愛林:福澤諭吉とトクヴィル『アメリカのデモクラシー』──祖国の課題を解く鍵は、アメリカにあり

公開日:2026.07.06

執筆者プロフィール

  • 柳愛林(リュエリン)

    九州大学法学研究院准教授

    柳愛林(リュエリン)

    九州大学法学研究院准教授

画像:慶應義塾福澤研究センター提供

『アメリカのデモクラシー』の受容

1831年4月2日、当時25歳だった青年司法官のアレクシ・ド・トクヴィル(1805-59)は、フランス北部のノルマンディーから出発し、アメリカに向かう。友人のギュスターヴ・ド・ボーモンがこの旅に同行した。2人の渡航の口実はアメリカの刑務所制度を視察することであった。しかし、トクヴィルが関心を持っていたのはアメリカ社会全般であり、東部を中心に各地を精力的に回り、有力者との面談などを通じてアメリカへの理解を深める。そして、帰国後、アメリカで観察し発見したことをまとめて出版したのが『アメリカのデモクラシー』第1巻であった。1835年1月のことで、福澤諭吉が生まれた、その年、その月である。

『アメリカのデモクラシー』第1巻はヘンリー・リーブ(1813-95)によってすぐに英訳され、大西洋の両岸で広く読まれることになる。そして、約46年後の明治14(1881)年には、肥塚龍(こいづかりゅう)がこのリーブの英訳から重訳・完訳した第1巻を『自由原論』と題して出版する。しかし、福澤諭吉はこの和訳を待たずして『アメリカのデモクラシー』と出会い、自らの議論を展開する上で参考にしている。

福澤が読んだ『アメリカのデモクラシー』は、よく知られている通り、1873年に出版された、ニューヨークのバーンズ社版のThe Republic of the United States of America, and Its Political Institutionsである。リーブの英訳ではあるが、アメリカの法律家・政治家ジョン・キャンフィールド・スペンサーが序文を書き、注釈をつけたアメリカ版であった。手沢本から、福澤が第1巻に該当する部分を読み終えたのは明治10(1877)年7月25日であると推測される。また、西南戦争のさなかにトクヴィルの著作を読みながらメモを取っていたことが、『福澤諭吉全集』第7巻に収録された「覚書」からも確認できる。

ただし、福澤は自ら読んだ『アメリカのデモクラシー』だけではなく、小幡篤次郎を介して、読了以前からトクヴィルの思想に接していた。福澤の協力者であった小幡は明治6年にトクヴィルが言論・出版の自由について述べた1章を抄訳し『上木自由之論』を出版する。そして、明治8年6月『民間雑誌』第11号の「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」にも『アメリカのデモクラシー』の一部を引用している。さらには、明治9年の年末に刊行された『家庭叢談』の第23・29・34号にも小幡による『アメリカのデモクラシー』の訳文が掲載されており、福澤諭吉の名前で発表された『分権論』には小幡の訳文がそのまま引用されている。

明治9年末の茶話と『分権論』の成立

『分権論』の題言は次のように始まる。「此書1編は、我社友随時会席の茶話を記したるものにて左(さ)まで珍しきことに非ず」。そして最後には「本編の著者は唯茶話の筆記者と認む可きのみ」とし、「明治9年11月」の日付が書かれている。明治9年11月はいわゆる士族反乱が相次いで起こっていた時期であった。明治7年佐賀の乱、明治9年10月の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱。これらの反乱は福澤や小幡の出身地である中津に近い地域で起こったもので、地元から伝わってくる反乱のニュースが茶話の話題になったに違いない。茶話では士族反乱の原因は何かから始まり、将来の反乱を防止する方法まで議論されたことは想像に難くない。その中で、原書を読むことができなかった人々のために、当時小幡が自宅で開いていた講話会で、テクストとして用いられていた『アメリカのデモクラシー』も自然に引き合いに出されたことだろう。

福澤の筆により整理された『分権論』が正式に出版されたのは明治10年11月である。題言に記された日付から1年もの時が経っていた。その内容から出版条例に抵触する恐れがあるため正式に出版することが困難であり、また西南戦争も起こったことで、出版が遅れたのであろう。しかし、正式な出版が遅れただけで、写本は流布されていた。明治9年12月20日付で、中津の山口広江に送った書簡で、正式出版を遅らせて写本を作成する旨が記されており、明治10年1月28日の植木枝盛の日記には「福澤諭吉分権論を写す」とも記録されている。

権力の偏重と士族反乱

士族たちはなぜ反乱を起こしたのか。世の人々が言うように、窮迫した現状に不満を持つ「不平士族」が、道理も名分も忘れて、改進の政府に武力で反抗しようとしたのだろうか。福澤の考えでは、問題はこれほど単純ではない。「士族固有の気力」をいまだに「新たな時代に相応しいエネルギー」に変えられなかった士族たちが主導したのが、士族反乱である。そして、気力をすでに変えたにもかかわらず、それを発揮できる地位を獲得できなかったいわゆる「民権家」が、意図はしなかったものの「暗にその後ろ楯」となって反乱をそそのかしたのである。

もし政府がこの士族反乱を、士族の気力が消滅するまで完全に鎮圧するなら、気力を失った人々は「無気無力」に陥るだろう。また、「日本国」の利益と自分の利益とを関連づける地位も手立ても持たなくなった士族が「売国児」になる可能性も十分あるため将来の日本の独立さえ脅かす結果を招きかねない。国土の一部に起きている反乱とその収拾が、将来に望ましくない結果をもたらすのを未然に防ぐにはどうすべきか。

反乱を起こした士族が「士族固有の気力」を変えられなかった理由、そして一部の士族が気力を変えたにもかかわらず不満を抱くに至ったそもそもの理由は、いずれもすべての権力が中央政府に集中していたことにある。「全国の権勢を一首府に合集して、首府はすなわち日本にして、日本はすなわち首府になりて存するの有り様」が、反乱の背景にあった。

解決の鍵としての「治権の分与」

では、どうすればよいのか。福澤の処方は、反乱を武力で鎮め、士族の気力を根絶やしにすることではない。問題が権力の一極集中にある以上、正すべきは中央への偏重そのものである。そこで福澤が説いたのが「治権の分与」であった。福澤はまず、「国権」を区別せず、ただ「集権」か「分権」かを唱える論者たちを批判する。そのうえで国家の権力を、国全体の方向を定める「政権」と、地域の実務を担う「治権」とに分け、前者を中央に集中させ、後者を地方へと分け与えることを求める。地方に実質的な治権が委ねられれば、行き場を失っていた士族の気力は、郷里の自治と経営という回路を得る。中央にのみ向けられていたエネルギーは、地域を支えるエネルギーへと転じうるのである。

しかも治権の分与は、各人の利害を郷里に、郷里を通じて「日本国」へと結びつける。この議論を展開するうえで福澤が参照しているのが、小幡によるトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の訳であり、「政権」「治権」という訳語も小幡のものをそのまま用いている。トクヴィルがアメリカに見た「政治の集権」(政権の集中)と「行政の分権」(治権の分与)をモデルとするならば、「無気無力」への転落も、「売国児」への離反も、こうして同時に防がれよう。中央集権がもたらした病を、福澤は権力の再配置によって癒そうとした。

中央政府への権力の集中と、それに伴う人材の集中は、明治7年1月の『学問のすゝめ』4編「学者の職分を論ず」以来、そして明治9年3月に出版された『学者安心論』においても福澤が批判してきた「権力の偏重」と深く関わっている。経済も学術もすべてが中央政府の統制下に置かれるのは望ましくない。もっとも、明治9年3月の時点で福澤が考えていたのは、権力を政府に集中させるのではなく民間へ分散させることであった。だが士族反乱以後は、その延長線上で、さらに地域へと権力の一部を分配すべきだと主張するようになる。

トクヴィルは、革命後に中央集権化が進んだことで「無気力」に陥ったフランス人民の姿を嘆いた。一方、彼が観察したアメリカの人民は「活力に満ちた生活」を営んでいた。その活力は、「行政の分権」に支えられた「自治」から生まれるものであった。トクヴィルがフランスの課題を見据えてアメリカに見出した制度的構想を、福澤は日本の課題を解くために参考にしたのである。

平等が解き放つ「怨望」

福澤は、制度の構想において『アメリカのデモクラシー』を参考にしただけではない。「デモクラシー」が人々にもたらす卑しい感情をめぐっても、トクヴィルの議論と共鳴している。

「門閥専制」の世であった徳川の時代には、人々は身分の別を当然のものとして受け止めていた。だが明治の世はそうではない。門閥は制度上廃され、武士のあいだでとりわけ厳しかった身分の別も消える。そのため、かつては手の届かなかった地位にも、誰もが就くことができるようになった。福澤は『分権論』で、こうした状況の変化を、「鉄門」から「硝子(ガラス)の戸」への「引き替え」になぞらえている。「古(いにしえ)はこの楽園に鉄門を構えて、何らの術を用ゆるもそのうちを窺い得ざりしもの、今日はこの鉄門を廃して硝子の戸に引き替え、よく園内の景況を観るべしといえどもなおこれに入るを得ず」。

維新以前には身分という障壁があり、鉄門で隔てられていた地位が、いまや硝子越しに見え、自分にも手が届くように思える。しかし、限られた地位に全員が就くことはできない。形の上では平等になりながらも、就きうる地位は相変わらず限られているために、そこに到達できなかった人々は、硝子の戸の内側にいる人々を「怨望」し「嫉妬」することになる。トクヴィルが観察したアメリカの富裕な市民が、外では謙遜と素朴を装いながら、塀で四方を囲った自宅の内側を華麗にしつらえ、同類の富者しか招き入れないのも、人々の「怨望」や「嫉妬」を買わないよう、いわば内に「鉄門」を設けているともいえよう。

もっとも、嫉妬は一様ではない。硝子の戸の内にいる人々と同じ地位へ登ろうとする向上心の支えにもなりうる。だが他方には、そこへ届かぬことを諦め、相手を自分のいる低みへ引きずり下ろそうとする「卑屈」な心もある。トクヴィルが平等への情熱を2つに分けたのも、この区別にほかならない。万人がともに高みを目指す「雄々しく正当な情熱」と、弱き者が強き者を自らの水準へ引き下ろそうとする「平等への卑しい好み(depraved taste for equality)」と。小幡は、この後者を、さきに触れた明治8年6月の「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」のなかで「平均を求るの卑屈心」と訳し、トクヴィルの議論を踏まえて均等相続論を展開する。性別や生まれの順という「偶然」による差別は、この卑屈な感情を生み、社会の道徳をも衰退させる。

明治7年12月に出版された『学問のすゝめ』13編で福澤が「怨望」と呼んだのは、まさにこの感情である。怨望とは「働の陰なるもの」、すなわち自らを高めようとせず、他人の境遇に照らして不平を抱き、その不平を、自分を益することによってではなく他人を損なうことによって晴らそうとする心の働きを指す。他人の幸福と己の不幸とを比べ、自分の境遇を引き上げる代わりに相手を引きずり下ろして「彼我の平均」を得ようとする。福澤にとって、これこそ最も卑しい悪徳であった。

その原因を、福澤はただ「窮」の一事に求める。ただしこの窮は貧窮ではない。人の言路を塞ぎ、その営みを妨げ、「人類天然の働を窮せしむる」こと、すなわち前進の回路が閉ざされることである。だからこそ怨望は、禍福が偶然に委ねられる地位をめぐって最も激しく流行する。そして福澤によれば、この怨望が最も激しく流行したのは、大名屋敷に仕える「御殿女中」のあいだであった。勉強も怠惰も賞罰に結びつかず、諫めてもなお叱られる。努力が境遇を変えられず、禍福がただ主人の寵愛という偶然に委ねられるこの閉じた世界こそ、怨望の温床であった。注目すべきは、それが身分の差からではなく、むしろ一様な平らさのなかから生まれる感情だという点である。トクヴィルがアメリカに見出した「諸条件の平等」というデモクラシーもまた、この危うさを抱えていた。平等が進むほど、わずかな差がかえって耐えがたくなり、人は他者を引き下ろそうとする衝動に駆られる。生まれによる身分を廃し、いままさに平等へと踏み出した明治日本。望ましいのは、互いを低みで均す平等なのか、それとも、各人が己を高めうる自由に支えられた平等なのか。もちろん、福澤が目指したのは、トクヴィルも指摘していたように、「自由」と「自治」から成り立つ政治的デモクラシーと結びついた平等であっただろう。

平等の潮の中で、祖国のために

アメリカを訪れたトクヴィルをもっとも驚かせたのは、「諸条件の平等」であった。福澤諭吉もまた、トクヴィルとほぼ同じ年頃の1860年に、初めてアメリカの地を踏んでいる。そのとき、福澤が不思議に思ったことがある。アメリカ初代大統領ワシントンの子孫が今どうしているのかが気になり、人々に尋ねてみたのだが、相手は答えも知らず、まるで関心を示さなかった。ワシントンといえば、アメリカにとって源頼朝や徳川家康にあたる人物であるはずなのに。アメリカ人は、日本人は電気のことなど「夢にも知らない」はずだと思い、福澤を案内してくれた。だが福澤にはすでに電気の知識があり、驚くにはあたらなかった。むしろ彼が不思議に思ったのは、こうした「社会上の事」であった。ワシントンの逸話が映し出す「社会上の事」とは、トクヴィルを驚かせた「諸条件の平等」の一面であろう。アメリカ人がワシントンの末裔に関心を払わないのは、けっして薄情だからではない。ワシントンは偉大でも、アメリカはその栄光が血筋をたどって子孫へと受け継がれていく「門閥」の世ではないからである。人は生まれによって高くも低くも定められず、誰もが等しい地点から人生を始める。初代大統領の子孫であろうと、その例外ではない。

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の序文で、「諸条件の平等」としてのデモクラシーは、人の力では押しとどめがたい、摂理にも似た歴史の大勢だと説いた。革命を経たフランスがそうであり、維新を経た明治日本もまた、その逆らえない流れのただ中にあった。トクヴィルは、平等化が進むデモクラシーの内に潜む危うさ、つまり集権のもとで無気力に陥る人民、「平等への卑しい好み」の拡散、そして多数の専制を見据え、その解決の鍵をアメリカの自治と自由に求めた。

福澤諭吉もまた、身分が崩れ、平等へと踏み出す明治の社会変動のなかで、トクヴィルとよく似た問題意識を抱いていた。そして彼は、トクヴィルの議論と出会い、それを日本の課題へと組み替えていく。もちろんトクヴィルの問いは、ただ受け取られたのではなく、日本のために、福澤の手で作り変えられたのである。

『アメリカのデモクラシー』第1巻が世に出た1835年1月、福澤諭吉もまた、この世に生まれた。同じ月に生まれた書物と人とは、四半世紀の時を隔てて、太平洋の対岸で巡り合う。そして福澤は、その書が描いた世界を、別の岸辺のために組み直した。平等という避けがたい潮のなかで、それをいかにして自由と両立させるか。それこそ、トクヴィルが投げかけ、福澤が引き受けた問いであった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。