登場者プロフィール
藤崎 一郎(ふじさき いちろう)
一般社団法人日米協会会長元駐米大使特選塾員普通部から慶應義塾に学ぶ。外交官試験に合格し、1969年慶應義塾大学経済学部を中退して外務省入省。北米局長、外務審議官等を経て駐米大使。現在日米協会会長。元慶應義塾大学特別招聘教授。
藤崎 一郎(ふじさき いちろう)
一般社団法人日米協会会長元駐米大使特選塾員普通部から慶應義塾に学ぶ。外交官試験に合格し、1969年慶應義塾大学経済学部を中退して外務省入省。北米局長、外務審議官等を経て駐米大使。現在日米協会会長。元慶應義塾大学特別招聘教授。
巽 孝之(たつみ たかゆき)
名誉教授ニューヨーク学院(高等部)学院長1987年コーネル大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。1997年慶應義塾大学文学部英米文学専攻教授。2021年名誉教授。専門はアメリカ文学思想史・批評理論。22年より慶應義塾ニューヨーク学院長(第10代)
巽 孝之(たつみ たかゆき)
名誉教授ニューヨーク学院(高等部)学院長1987年コーネル大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。1997年慶應義塾大学文学部英米文学専攻教授。2021年名誉教授。専門はアメリカ文学思想史・批評理論。22年より慶應義塾ニューヨーク学院長(第10代)
渡辺 靖(わたなべ やすし)
環境情報学部 教授1997年ハーバード大学Ph.D.(社会人類学)。パリ政治学院客員教授等を経て2005年より現職。専門は現代米国論。パブリックディプロマシー論。25年アメリカ芸術科学アカデミー(AAAS)国際名誉会員に選出。
渡辺 靖(わたなべ やすし)
環境情報学部 教授1997年ハーバード大学Ph.D.(社会人類学)。パリ政治学院客員教授等を経て2005年より現職。専門は現代米国論。パブリックディプロマシー論。25年アメリカ芸術科学アカデミー(AAAS)国際名誉会員に選出。
大久保 健晴(おおくぼ たけはる)
法学部 教授研究所・センター 福澤研究センター所長塾員(1995政)。2000年東京都立大学社会科学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。博士(政治学)。明治大学准教授等を経て19年慶應義塾大学法学部教授。専門は東洋政治思想史、比較政治思想。
大久保 健晴(おおくぼ たけはる)
法学部 教授研究所・センター 福澤研究センター所長塾員(1995政)。2000年東京都立大学社会科学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。博士(政治学)。明治大学准教授等を経て19年慶應義塾大学法学部教授。専門は東洋政治思想史、比較政治思想。
小川原 正道(司会)(おがわら まさみち)
法学部 教授塾員(1999政、2001法修、03法博)。博士(法学)。08年慶應義塾大学法学部准教授、13年より現職。専門は日本政治思想史。14年マサチューセッツ工科大学(MIT)歴史学科客員研究員。
小川原 正道(司会)(おがわら まさみち)
法学部 教授塾員(1999政、2001法修、03法博)。博士(法学)。08年慶應義塾大学法学部准教授、13年より現職。専門は日本政治思想史。14年マサチューセッツ工科大学(MIT)歴史学科客員研究員。
画像:慶應義塾福澤研究センター提供
福澤諭吉のニューヨーク体験
周知のように、アメリカは本年の7月4日で建国250年を迎えます。
福澤諭吉は最初の海外渡航が1860(万延元)年で、咸臨丸で西海岸サンフランシスコを体験しました。そして『西洋事情』(初編、1866年)の中で独立宣言を日本ではじめて翻訳する。またトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を読むことなどを通して、デモクラシーやリベラリズム、あるいは独立、自治といった理念をアメリカから学んだことは広く知られています。慶應義塾との関係でも、大学部設置にあたってハーバード大学等から3人の教師を招聘するなど、アメリカとの縁が長く深く続いてきました。
今回の特集では、福澤が見たアメリカ、学んだアメリカを中心に皆様と討議することで、現在のアメリカ、そしてまた日本、慶應義塾との関係のあり方を考えるきっかけにしたいと思っています。
まず福澤諭吉のアメリカ体験から始めたいと思います。福澤は2度、渡米していますが、最初が1860年のサンフランシスコ、2度目が1867年、ニューヨークおよびワシントンDCなどの東海岸です。
1860年の西海岸は、南北戦争前で、1848年にカルフォルニアがアメリカ領になってから間もない時期ですが、この時期のアメリカを体験したことの意味、また南北戦争(1861~65)直後の東海岸を体験したことの意味をうかがえればと思います。巽さんからいかがでしょうか。
私は2022年から慶應義塾ニューヨーク学院に務めておりますが、福澤先生について考えることがむしろ増えました。今は「トライカルチャー(Triculture)──日・米・慶應」を中心に、福澤精神を生徒たちに浸透させることを試みております。
1860年、福澤先生はサンフランシスコでジョン万次郎などと一緒にウェブスターの辞書を買われている。これは後に翻訳の天才として賞讃される福澤先生の歩みを考えると、大変重要なことだったと思います。
その後、南北戦争後に再渡米されますが、大陸横断鉄道開通の2年前なので大陸横断はできなかった。カリフォルニアからパナマまで海路で行き、アスピンウォールから定期船に乗ってニューヨーク入りしています。日本からサンフランシスコ到達まで約1カ月、サンフランシスコからパナマ経由、カリブ海経由でニューヨークに到達するまで約1カ月という大変な行程でした。
福澤先生とニューヨークには、いろいろな面白い話題が出てきます。福澤先生は、いわゆるロウアー・マンハッタンのメトロポリタンホテルにお泊りになった。そして、一番大事なことは、福澤先生がロウアー・マンハッタンの中心にあったアップルトン書店で、フランシス・ウェーランドの『経済学綱要』(The Elements of Political Economy)をお求めになったことです。まさにその本が戊辰戦争の最中の5月15日に滔々と講述し続けた経済書です。
ちなみにフランシス・ウェーランドはブラウン大学の学長でもあった、聖職者です。現在、慶應義塾大学国際センターが提携しているアイビー・リーグ校はブラウン大学とダートマス大学、ペンシルベニア大学の3つですが、非常に長い縁が続いているわけですね。
福澤先生はニューヨークで膨大な書籍を買われた。これは一説によると、ダンボール12箱分ぐらいを買ったということで、買い過ぎだと後から責め立てられたらしい。
こんなエピソードもあります。ニューヨーク滞在中、せっかく横浜の両替屋でしつらえてもらった手形、いわゆる為替がうまく交換できなかった。手形は原本と写しの2枚あればいいはずが、3枚よこせと言われて、銀行の窓口で非常に揉めたということです。
この為替でトラブったことから、後々、福澤先生ご自身が提唱して1880年に外国為替業務を専門とする横浜正金銀行(戦後の東京銀行、現在の三菱UFJ銀行の原型)の設立に関わったのだという説を私は支持したいと思っています。このニューヨークでの苦い経験ゆえ、世界に通用する日本初の国際的な為替専門の銀行をつくるべきであるという決意に至ったのではないか。ニューヨークでは様々な収穫の一方で、苦い経験もあり、それが福澤先生の以後の活躍を支える1つの礎になったのではないかと思うのです。
福澤がアメリカで見たものとは
大変貴重なエピソードを有り難うございます。『福翁自伝』で語られている有名なエピソードとしては、最初の渡米時にワシントンの子孫を辿ろうとしたらアメリカ人はあまり関心がなかったという話がありますね。そして2度目の渡米時にはアンドリュー・ジョンソン大統領と謁見をしている。渡辺さん、当時の大統領制や社会の状況についていかがでしょうか。
福澤が訪れた1860年のカルフォルニア州は自由州で南部のような奴隷制社会そのものではなかった。ただ、それでも先住民族やメキシコ系の住民、中国系の移民、それからもちろん黒人をめぐる人種的な偏見や排除は存在していたので、自由の理念を見る一方で、人種的不平等が同居する国だという印象はあったかと思います。
特にサンフランシスコはアメリカの西漸、つまり西部開拓と太平洋進出の最前線であり、ペリー来航も言ってみればアメリカが太平洋国家として変貌していく、そのプロセスに日本が巻き込まれていく出来事でもあったわけです。その意味で福澤のアメリカ体験というのは、もちろん民主主義の理想を学ぶ経験であると同時に、国際社会の厳しさや社会の矛盾を実感する経験だったのではないかと思います。
それゆえに、日本に自由や平等を紹介するだけではなく、日本が独立を保つためには一人一人が自立して、学問と実業によって社会を強くしなければいけないと感じたのではないか。
その頃のアメリカは農業国家から産業資本主義国家へと大きく様変わりする「金ぴか時代(Gilded Age)」の入り口です。そこで福澤が見たのは、おそらく共和制や民主主義という政治制度だけではなくて、富の拡大や技術革新、起業家精神、都市の成長ということもあったはずで、そこにはもちろん格差や労働問題もあった。そういう社会の流動性や実学、商業精神、自治といったものは、古い身分秩序に縛られたヨーロッパ社会とはまた違った新しい文明の姿と映ったのではないかと思います。
ただ、繰り返しになりますが、その新しさは、先住民の排除や差別、格差といった矛盾も抱えた新しさだったと思います。福澤にとってのアメリカとは自由と独立を掲げながらも多くの矛盾を抱えた、しかし非常に活力のある社会であり、その経験が、日本においても個人の自立とか実学とか、教育、それから民間の力が必要だという発想につながっていったのではないかと思っています。
幕末日本のアメリカ観
福澤のアメリカ認識が、ヨーロッパとの対比という中で認識されていたという部分は大変重要ではないかと思います。1860年と67年の間、62年に、福澤は文久遣欧使節の一員としてヨーロッパに渡っている。特にオランダでは、蘭学者として第2の故郷に帰ってきたようだという回想を残していますね。福澤のヨーロッパ体験とアメリカ体験を比較した時、どのような特徴があるでしょうか。
まず前史として、徳川日本におけるアメリカ観の変遷から触れたいと思います。
興味深い文書として、蘭学者の大槻玄沢が1807(文化4)年に執筆した『捕影問答』(前編)があります。このなかで大槻は、最近、ヨーロッパで唯一の通商国であるオランダとの交流において、「ネヲヨルク」(ニューヨーク)などと記したアメリカ船が長崎に入り込んでいて、おかしい、と指摘します。
その背景には、18世紀後半以降のヨーロッパの動乱が存在しました。アメリカの独立宣言(1776年)を契機に、環大西洋で革命の機運が高まる中、第4次英蘭戦争(1780年)を経験したネーデルラント連邦共和国は、フランス革命の余波によって崩壊します(1795年)。1799年にはオランダ東インド会社も解体しました。その後、オランダはバターフ共和国、ホラント王国と姿を変え、1810年にはフランスへと併合されました。この状態は、13年のライプツィヒの戦いによるナポレオンの敗北まで続きます。
こうしたヨーロッパの動乱期にも、長崎での交易は継続されました。その際、自国の船を送れなくなったオランダは、アメリカ船を雇い入れて長崎での貿易を行っていたのです。
『捕影問答』に示されるように、大槻玄沢は長崎に入港する外国船に関する情報から、西洋世界で未曾有の出来事が起きていると鋭く洞察しました。
ただし全ての国際情報に精通していたわけではありません。大槻は次のように推測します。アメリカはイギリスの植民地であるから、イギリスが長崎貿易に入り込んでいるのではないか、と。すなわち19世紀初頭の徳川日本では、アメリカはいまだイギリスの植民地であると考えられていたのです。
その後、長崎のオランダ商館長が提供する情報やオランダ経由の最新の世界地理書を通じて、アメリカ合衆国はイギリスとの独立戦争に勝利した、という認識が次第に普及しました。
1830年代後半に記された渡辺崋山や高野長英の作品では、アメリカは「賢才を推て官長」とする大統領制に基づいた「会議共治」の政治体制であると指摘されています。そしてペリー来航(1853年)後になると、儒者の横井小楠などは、イギリスやロシアの政治とともにアメリカの大統領制をあげ、それらは古代中国の理想的な「三代の治教」に「符合」すると唱えました。
その一方で、後期水戸学を代表する学者・会沢正志斎は『新論』のなかで、世界地図と人間の身体を類比させ、次のように説きました。「神州」日本が世界の「首」に位置するに対して、ヨーロッパ諸国は足の付け根「股径」にあたる。ではアメリカはどこにあるかというと、アメリカは「その背後」、すなわち背中である、と。
もちろん、これは日本中心主義の現れなのですが、アメリカはヨーロッパの奥にある、という地理感覚は、当時の日本に広く流通した世界認識だったのではないかと思われます。
つまり、重要なのは次の点です。現代の私たちにとって、アメリカは、日本から太平洋を渡った東側に位置します。しかし、徳川日本の人々にとってアメリカは、ユーラシア大陸を西に進んだ、ヨーロッパのさらに先に位置あると意識されました(実際、ペリーの艦隊は、アフリカの喜望峰を渡り、インドや中国を経て日本に来ました)。
アメリカを日本の東側に位置付けるか、それとも西側のヨーロッパのさらに先に位置付けるか。これは単なる地理認識の次元を超えて、近代日本の文明観や世界秩序像を考える上で、きわめて肝要です。というのも、その後、徳川末期から明治期において、多くの留学生がイギリスやドイツ、フランスといったヨーロッパ諸国に渡り、そこで獲得した学識を基礎に、近代国家建設に取り組んだからです。彼らにとってアメリカは、ヨーロッパの奥にある〈新興〉国でした。
このように世界史的な視座から考えてみますと、咸臨丸に乗って東側に進み、太平洋を渡った福澤諭吉のアメリカ訪問は、近世・近代日本において、きわめて大きな歴史的意義を有したことがわかります。
これに関連して、巽さん、江戸が人口100万人に達していたのに対して、福澤が咸臨丸で到着した当時のサンフランシスコの人口は、6万人程度であったとのことですね。
福澤先生が訪問した当時の南北戦争前後のアメリカは、北米の東半分が中心で、まだ州として確立しているものは3分の2程度しかないわけです。カリフォルニアが準州territoryから州stateに昇格したのも1850年で、それを含めて37州。まだインディアンが力をふるっていたし、荒野が広がり開拓されていない地も多くありました。
それにもかかわらずモンロー・ドクトリン(1823年)によって、西半球は東半球には手出ししないから、東半球も西半球には手出ししないでくれ、と独立の精神は旺盛だった。
余裕あるアメリカへの視線
藤崎さんは普通部から慶應義塾で福澤精神を学ばれた上でアメリカとの外交の現場をとり仕切ってこられたわけですが、ご自身のアメリカ体験に照らしながら福澤のアメリカ体験を考えた場合、共感できる点などありますでしょうか。
1800年代の中頃にヨーロッパと日本から、まだ20代の思想家や小説家が勃興期のアメリカに行き、いろいろと観察しました。その1人のトクヴィルは1831年にフランスから25歳で渡り35年に『アメリカのデモクラシー』(第1巻)を書きました。
ディケンズがその10年後、1842年に29歳で英国から行って、『アメリカ紀行』を書いています。この前、チャールズ国王がアメリカ議会で演説した時、「250年というのはイギリスではついこの間と言っています」と、笑いを取っていました。ディケンズも、ニューイングランドの街や都市は、われわれの村みたいなものだ、という書き方をしています。ヨーロッパから行った欧州の20代の青年たちは、アメリカはまだ勃興しつつあるところだ、と見たのでしょう。
一方、久米邦武の『米欧回覧実記』では、岩倉使節団(1871~73)がワシントンに行った時の表現は、「ミナ白石ヲ以テ築成シ、巍巍(ぎぎ)トシテ数千尺ノ地二起コリ広大壮麗ナリ」。すごい建物が並んでいると圧倒されるわけです。
ところが福澤は違う。福澤がサンフランシスコに行ったのが1860年、27歳、2度目が34歳です。福澤は2度目の訪米でニューヨーク、ワシントンに行ったとき『福翁自伝』に、「ワシントンに落ち着いて、とりあえず国務卿に会うて」とサラッと書いているんですね。
この差が非常に印象的でした。ある意味で、肩の力を抜いているとも逆に突っ張っているとも見えますが、全然恐れ入った感じではないんですね。例えばメッキ法とか砂糖の製造法を一生懸命アメリカ人が教えてくれるけど、自分たちは、そんなことはちゃんと知っていたと。何が面白かったかというと、男女が座敷の間を跳び回って踊るのがおかしくて、笑いを我慢するのが大変だったとか、全然すごいという感じを持っていないのがいかにも福澤らしいと思うんです。
私は福澤が訪れた100年後の1960年に初めてアメリカに行ったのですが、戦争で負けて10数年しか経っていない日本から行き、どちらかというと久米邦武的なイメージを受けましたので、福澤のこの受け止め方はすごいなと余計に感じました。
「独立宣言」を翻訳した意義
敗戦後の日本にとってアメリカは非常に巨大な存在だったわけですが、大久保さんからご指摘があったように、幕末の日本では、アメリカは随分遠いというか、まだこれから勃興してくるような国であったようです。そういう国を福澤自身が体験していくと同時に、読書や翻訳を通して理解していくということもあったかと思います。
今、藤崎さんから紹介がありました、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を福澤が英訳版で読むのが、1877(明治10)年になります。そういう読書を通してアメリカの理解もだんだん成熟していったのではないかと思うのですが、そのあたりはどう思われますでしょうか。
トマス・ジェファソン草稿の独立宣言の福澤先生による本邦初訳(1866年)は、実はニューヨークに来られるよりも前なのです。
この独立宣言を福澤先生が訳されたことの意義は、後になって非常に増してきたのではないかと思っています。福澤先生の考え方の根本というのは、もちろん1つにはジェファソンであり、それからその親分格のベンジャミン・フランクリン。そこまではエビデンスがあり、ルーツが辿れますが、特にエビデンスがないけれど確実と思われるのが、19世紀アメリカを代表するラルフ・ウォルドー・エマソンです。
フランクリンやジェファソンといった建国の父の時代からエマソンの時代までは半世紀以上あり、エマソンは19世紀ロマン派の超越主義思想家です。そして、どう考えても「独立自尊」という考え方の根本にはエマソンのエッセイ「自己依存」(Self-Reliance)があったでしょう。1841年発表ですから、当然、福澤先生が読んでいてもおかしくない。それに先立つエマソンの「アメリカの学者」(The American Scholar)は1837年の講演原稿ですが、アメリカの知的独立宣言とも言われ、その内容は『学問のすゝめ』そのものですから。
慶應義塾の「独立自尊」の定訳は、Independence and Self-Respectですが、ニューヨーク学院では私の独断で、Moral Independence and Self-Relianceにアレンジしています。エマソンからの影響は明らかであろうと。
ジェファソンからエマソンへという歩みが大事なのは、キリスト教正統の三位一体を否定する啓蒙主義的なユニテリアニズムからロマン派的なトランセンデンタリズム(超越主義)へという思想的な批判的発展があるからで、エマソン自身も最初はユニテリアン牧師として出発しました。
そして、1880年代に長男福澤一太郎がアメリカに留学し、その時に慶應にハーバード系の人脈を送り込む仕掛け人でもあるアーサー・メイ・ナップと偶然出会い、ユニテリアンに開眼したことは非常に大きい。
福澤先生が独立宣言を訳したことの意義が、一太郎経由でユニテリアニズムを知ってご本人も実感されたのではないか。慶應義塾はひょっとしたらユニテリアンの学校になっていたかもしれない、とも言われています。独立宣言を訳され、そしておそらくはエマソンを読まれて、それが「独立自尊」の礎になったのではないでしょうか。
福澤先生は基本的に一切の宗教を否定する立場であったにもかかわらずユニテリアンだけは例外的に認めました。ユニテリアンというのは、聖書における超自然的な現象を一切否定し、イエス・キリストを神ではなくヒューマナイズする思想ですね。ジェファソン自身が、ユニテリアニズムの大元であるジョゼフ・プリーストリーの弟子を任じていました。福澤先生も、人間を基本に置くなら、キリスト教的な発想も悪くない、と思ったのでしょう。
その結果、ご自分が独立宣言を訳したことは正しかったのだと、確信されたのではないでしょうか。
慶應義塾は大学部設置にあたって、ナップを介してハーバードから教師を招聘します。福澤は教師招聘だけではなく、日本人留学生に奨学金を与えて送り出すことも期待していたようですが、背景には一太郎のナップとの出会い、またユニテリアンへの接近があった。これが慶應義塾にとって非常に大きな意味を持ったのだと思います。巽さんがおっしゃる通り、1890年の大学部設置にあたって福澤は、Japanese branch of Harvard University(ハーバード大学日本分校)をつくりたいと言っているくらいです。
慶應義塾において初めて外国人教師を雇ったのが1870年代で、クリストファー・カロザースというアメリカ人宣教師です。彼が通っていたWashington & Jefferson Collegeという、まさにジェファソンの名を冠したリベラルアーツ・カレッジをモデルにしてカロザースは義塾を改革し、リベラル・アーツの学校にしていったということが『慶應義塾50年史』などに書かれています。
「私学」としての受け止め方
70年代の神学校がもとになっているリベラルアーツ・カレッジや、90年代のハーバード大学などのアメリカにおける位置付けについて渡辺さんはいかがお考えでしょうか。
トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で指摘したことはいろいろありますが、1つは、いくら立派な憲法や制度を作っても民主主義は可能ではないのだということ。それを支える様々な中間的な制度や市民社会の中で涵養される精神といったものが必要で、トクヴィルはそれを地方自治や結社、新聞、教会、学校に求めていったわけです。福澤先生は体系的にトクヴィルを理解されたわけではないですが、そこは共通の接点としてあるのだろうと思います。
大学というものを考えた時に、ハーバード大学などはアメリカ建国前からあり、かたや日本は、基本的には明治維新以降、官学中心で進められてきた近代化でした。慶應義塾におけるアメリカ教育受容の意義というのは、その官学中心の近代化とは違い、民間からの知的近代化を進めていったものでしょう。だからハーバードを含め、アメリカ教育の受容というものは、福澤の独立自尊、実学の実践そのものだったのだろうと思います。
当時は、ハーバードも今に比べればはるかに小さい大学でしたが、牧師を養成するという学校の成り立ちから、様々な説得術としていろいろなことを学ぶリベラル・アーツの伝統もありました。その一方で、アメリカらしい実学への関心も高かった。それから自治、寄付文化といった、同窓ネットワークのようなものがあったと思います。
慶應はもちろんそれをそのまま模倣したわけではありませんが、日本型の私学として、それを受け止め直してきた。アメリカの制度そのものを輸入したというよりは、ある種の知的な刺激として、日本の中で翻訳していったということなのかと思います。
慶應の大学部1期生で、後に大蔵大臣や日本銀行総裁になる池田成彬が、事実上初の義塾派遣留学生という形でハーバード大学(ハーバード・カレッジ)に留学します。そこで衝撃を受けたのが寄付文化だったということです。同時に池田は、本当はイギリスに行きたかったけれど、慶應とハーバードとの関係や経済的な問題もあり、ニューイングランドに留まらざるを得なかったようです。
アメリカを媒介に西洋思想を吸収
先ほど大久保さんから、幕末から明治初期の日本におけるアメリカの世界的な位置付けの話がありましたが、この頃でもやはり留学先の第1選択肢は英独仏であり、アメリカ東部の名門大学でさえ、お金がない人の選択であったような気もします。
先ほど巽さんのご発言のなかで登場しましたエマソンと近代日本との関係で有名なのは、福澤とともに明六社で活躍した中村正直です。中村は、サミュエル・スマイルズのSelf-Helpを『西国立志編』として翻訳出版したことで知られます。同書は『学問のすゝめ』と並ぶ明治の三書と称されますが、中村自身、儒学を背景としながらキリスト教に接近しました。
当時のアメリカは、キリスト教神学の新たな可能性にみちた大地でした。同じく明六社を牽引した森有礼は1867年にアメリカに渡り、神秘主義の宗教家トマス・レイク・ハリスのコロニーで生活しました。
このことは、福澤諭吉の学問形成を考える上でも重要な意味を持ちます。
これは松沢弘陽先生のご研究(『福澤諭吉の思想的格闘』)に詳しいのですが、福澤は『西洋事情』において、18世紀イギリスの法学者ウィリアム・ブラックストンやスコットランド啓蒙思想の流れを汲むジョン・ヒル・バートンの著作などを通じて、西洋法学や政治学の基礎に、自然法や自然権理論があることを学びます。しかし同時代、19世紀中葉のヨーロッパでは、もはや自然法論は過去の遺物となり、イギリスにおいてもジョン・スチュアート・ミルらによって、キリスト教道徳に対する鋭い批判が展開されました。
ここからが重要なのですが、このような思想状況のなか、福澤は1872(明治5)年公刊の『学問のすゝめ』を通じて、アメリカの医師、聖職者でありブラウン大学で学長をつとめたフランシス・ウェーランドの『道徳科学綱要』(The Elements of Moral Science)に取り組みました。ウェーランドの同書では、スコットランドの常識哲学に依拠した自然神学的な道徳論、政治社会論が展開されています。
その後、1875(明治8)年に出版される『文明論之概略』になると、福澤はミルやヘンリー・バックル、フランソワ・ギゾーなど19世紀ヨーロッパの大著に挑んでいきます。
すなわち注目すべきは、福澤がウェーランドを通じて自然神学の色彩を有するアメリカの道徳哲学から政治社会論を学んでおり、それが同時代ヨーロッパの先端的な文明論と格闘するための貴重な基礎となったことです。
こうした学問経験が、西洋の法概念であるrightのうちに道徳性を見出し、「通義」や「権理通義」と訳したような、福澤の学問思想の深みを創り出していると考えます。
ある種のクッションという形でアメリカが媒介する形でヨーロッパ思想に福澤が接近していくということですね。
民間外交としての慶應義塾の交流
さて、慶應義塾とアメリカとの関係は、福澤没後も続いていきます。例えば1930年代には藤原銀次郎がMIT(Massachusetts Institute of Technology)やスタンフォードを訪問して工学教育に感銘を受け、藤原工業大学(Fujiwara Institute of Technology)をつくり、それが慶應に寄付されて慶應義塾大学工学部となります。戦後も、慶應のビジネス・スクールがハーバード・ビジネス・スクールのケースメソッドを採り入れ、そして1990年にはニューヨーク学院(高等部)がつくられました。
こういった歴史は、ある意味では民間外交の1つでもあるように思います。現在藤崎さんが会長を務めていらっしゃる日米協会は1917(大正6)年に設立され、民間外交を継承してきましたが、初代会長はハーバード・ロースクールを卒業した金子堅太郎でした。こういった学術的な日米の交流を、どのように評価されていますか。
その前に2、3点、よろしいですか。先ほどヨーロッパかアメリカかという議論がありましたが、私はおそらく、旧弊を廃し、権威に盲従せず、新しいことにチャレンジしていたアメリカと福澤のケミストリー、相性が非常によかったのではないかと思うのです。だからこそ、長男の一太郎と次男の捨次郎をアメリカに留学させました。一太郎はコーネルで農業や経済を勉強し、捨次郎はMITで土木工学を学ぶ。オックスブリッジで歴史や哲学を学ばせるのではなく、実学をやらせてその知識を慶應義塾の中で生かすことを考えたのは、いかにも福澤先生らしい発想ではないかと思います。
もう1つ、先ほど渡辺さんからお話のあった官学と私学ということですが、確かに英米は国立ではなく私立主導です。福澤の「教育の経済」(1887年)を見ますと、「無理に貧者を引上げて上等の教を授け、目下に資本金を費して他年また其人物の始末に苦しむが如きは我輩の取らざる所なり」と、はっきりと貧者は無理なことはするなと書いている。
他方、今のアメリカ社会はハーバードなどは学費だけで年間900万円、寮費などを入れると1500万円かかるような社会をつくってしまった。もう普通の人は、よほどスカラシップが上手くとれない限りはそこで学ぶことができない。それが今のアメリカ社会の格差を助長し不安定が生じています。
日本の場合、官学が充実していますし、私学もそんなに学費は高くない。例えば慶應の学費も東大の倍ぐらいでしかないですし、そこで社会が安定しているという面もあることは、1つ評価すべきではないかと思います。
ご質問にあった民間外交ということで言えば、学術を含め民間の交流は極めて大事なことだと私も思います。日米協会は100年以上の歴史があり、初代会長金子堅太郎の名を冠した賞もつくり、草の根で交流した方に差し上げております。
それ以外にも、アメリカの大学院で日本研究をしている学生に対する支援、あるいは日米の若い人同士のディスカッションを支援したり、いろいろな形で、若いアメリカ人と日本人をつないでいくことをやっています。
Independent Schoolの矜持
巽さん、ここでニューヨーク学院の設立の理念や、その後の歴史的な展開を踏まえて、アメリカにある一貫校としてのニューヨーク学院の特色をご紹介いただけますか。
私自身は大学で38年間、教壇に立っていた間、研究と教育には没頭していたものの管理職の経験は皆無だったわけですが、こちらに来て一番驚いたのは、ニューヨーク学院がNYSAIS(New York State Association of Independent Schools、ニューヨーク州私学連盟、「ナイサイス」と発音)という組織の10年おきの査察に合格しなければアメリカの高校としての資格を失うことです。私は2022年の2月にニューヨーク学院に着任早々、来月3月にはNYSAISの査察がありますと言われてびっくりしました。
1990年に設立されたニューヨーク学院が初めてNYSAISの査察に合格するのは、10年以上を経た2001年。第3代学院長を務めた井上輝夫先生の時代です。これが大事なのは、日米双方の学校として通用する二重資格の特権を得られたからです。
このNYSAISという組織は、原語にある通り、自立した私学の精神を尊重します。戦後すぐ成立し、今はニューヨーク州の200以上の高校が属しています。毎秋、モホンクのホテルで2泊3日の学校長会議があるのですが、そこに毎年出て感じたのは、この組織の基本が国家の規制や法律の制約を受けず介入も許さず、あくまで自立した私学の精神を尊重するということです。つまり、福澤思想そのものなんですね。
もし福澤先生が生きていて、NYSAISのことを知ったら、「これは俺が作った組織じゃないか」とおっしゃるかも(笑)。『瘠我慢の説』の「立国は私なり、公に非ざるなり」という発想の根本にも通じますから。
福澤先生の「私」というのは、お上とか国家権力に決して惑わされないということ。その場合の基礎になるのがやはり財政基盤です。福澤先生は金の亡者みたいに言われることもありますが、本来、私学はIndependentでないといけない。そしてお国を信用してはいけないという点から、財政基盤を重視されたわけですね。
アメリカがもともと持っていた独立精神が、福澤先生の独立自尊や『学問のすゝめ』『瘠我慢の説』の底流にあるのではないでしょうか。それほどにNYSAISの思想と福澤先生の思想とは、あまりにも合致しています。
国からの干渉などを受けないんだという精神がアメリカは強いとのことです。しかし、現在トランプ政権は私学に対しても資金的な圧力をかけて、自分たちの言うことを聞かなければいかんぞと強くやっている。
しかし、それに対し国民から強い反発が出てこないのは、格差社会が進み、ハーバードやコロンビアというような大学に進むのは自分たちとは違う金持ちだという、国民の中に妬み嫉みがあるのかと思うのです。政府が圧力を加えることはおかしいではないかという議論がもっと出てもいいはずですが、あまり出ないのはどうしてでしょうか。
トランプの支持基盤が、いわゆるアパラチアのプアホワイトであるというのはよく言われることです。一方で、これは渡辺さんのご専門ですが、もう福澤先生が来た時のアメリカには「ボストン・ブラーミン」というような貴族的富裕階級が生まれてしまっている。慶應義塾のハーバードからのお雇い外国人教授の一人、トーマス・サージェント・ペリーという英米文学者はペリー提督の甥の息子ですが、彼も典型的なボストン・ブラーミンの末裔で、三田では1898年から3年間、教鞭を執っています。
ハーバードはトランプに弾圧されて訴訟になりますが、一応、ハーバード側が勝訴しましたね。その点はまだ日本に比べて、アメリカの司法はある程度機能しているかなとは思いますが、エリート校であるのは間違いなく、確かにとてつもなく学費が高い。
それを言い出すとニューヨーク学院自体も例外ではないのですが、しかしこうした問題を解決することも、やはり福澤のIndependenceの思想の中に入っているのではないかと思います。
慶應の一貫教育が目指すべきもの
藤崎さんは外交の現場で職業外交官として日米外交を切り盛りしておられる中で、東大卒が圧倒的に多い中で慶應出身であることの、逆に福澤精神がご自身のキャリアで生きたというようなことはありますか。
外務省では突然、対応しなければいけない事態が頻繁に起こるので、大学がどこだとか、学校の成績がどうということではなく、瞬発力、いわば一種の運動神経で環境の変化に対応していく能力が必要とされます。そしてこの人は仕事を一緒にできる人か、任せて大丈夫かということが評価のポイントになります。今の駐米大使の山田重夫さんも慶應志木高から法学部に進んで外務省に入られた方ですし、意外なことのようですが世間でいうような学閥はないと思います。
私は正直申しまして、慶應は一貫教育の利点をもう少し利用すべきだと思います。この前、慶應女子高の生徒が司法試験に通ったというニュースがありました。このように大学受験がない慶應のような環境を生かし将来につながる勉強をしたのはすばらしいと思います。今や国際語になっている英語に集中してもっと力を入れるべきです。受験のない環境だと目先のことにかまけてしまいがちですが、将来につながる目標を持つよう指導することで幅広い人材を育てられるのではないかと思います。
私は普通部の時に1年生の2学期から2年生のまるまる、父の仕事の関係でアメリカに行きました。当時の慶應は、1年半も抜けていたにもかかわらず、簡単な試験をしただけでそのまま原級復帰をさせてくれました。今は違うようなので、そういうものを復活させてほしい。私は一貫教育の良さというのは、その間に自分の人生に長期的に資することを自ら学ぶ自由があることだと思います。そうでなければ、高校受験や大学受験がないことの意味がないという気がします。
福澤諭吉の思想は独立自尊であり、自分の意見を何の権威も恐れずに言っていくということで、これはこれからの時代、ますます重要になっていきます。個人崇拝や精神主義とほど遠い福澤先生自身の思想は福澤精神という呼称になじまないと思うので私はあえて福澤精神と言わないのですが、安易に群れず、大勢に順応せず、発言していくという福澤諭吉の考え方、生き方を、学び伝えていくことは大事だと思っています。
パクス・アメリカーナ後の付き合い方
アメリカと福澤諭吉および慶應義塾との関係において、それを現在と未来にどのようにつくっていくべきか。先ほど、トランプ政権下でアメリカのエリート大学が非常に厳しい処置を受けているというお話がありました。今、慶應は、アイビーではダートマス、ブラウン、ペンシルベニアと提携関係がありますが、アメリカの高等教育機関と慶應義塾がどのような関わり方をしていくことがお互いの発展につながるでしょうか。
今まではやはりパクス・アメリカーナという、20世紀がアメリカの世紀だったことはとても大きかったと思います。それゆえに、アメリカの大学に対する注目が増していったことは否定できないと思います。
パクス(pax)といった場合、単に軍事力や経済力だけではなく、いわゆるソフトパワーがとても重要です。アメリカは確かに第2次世界大戦後、世界のGDPの50%近くを占め、今はそれが25%ぐらいですが大きな国です。それほど大きな国で、しかも基本的に内向きで、自国第一的な歴史が常にありましたが、1945年から80年間ほどは、他にそういう国がなかったこともあり、アメリカが世界秩序を積極的に牽引していきました。
そういうアメリカの開放的な制度や、あるいは外に自由で開かれた世界をつくっていくという志は、もちろんいろいろな矛盾はありましたし、ダブルスタンダードもあるかと思いますが、それがあったからこそ、多くの学生や移民がアメリカに渡ったのでしょう。
Fortune 500の創業者の半分近くが移民の一世か二世によってつくり上げられたというのはとても示唆的です。過去80年というのはアメリカの歴史の中ではやや例外的な時期でもあり、今、それに対する揺り戻しがきている部分はあるのだと思います。
そしてアメリカの大学というのは、アカデミック・キャピタリズムという言い方がありますが、資本主義や市場と上手く連携しながら発展してきた。しかしここに来て、その矛盾もいろいろなところに出てきている。先ほどから話に出ている授業料の高騰、それが結果的に親の収入が子どもの体験格差につながり、入学できる学生が限られるというある種のエリート主義ということが出てきて、それに一般的なアメリカ人は違和感を覚え、正当性を失いつつあるなど、いろいろ問題があると思います。
これまでは、ある程度アメリカの大学をモデルにしてやってこられた部分はあると思いますが、様々な矛盾も出てきている中、あまり真似をする必要はないと思います。ある種、選択的にアメリカに学ぶべきところは学び、そうでないところは日本独自の、あるいは他の国からの教訓を糧に上手く編集していく態度が必要なのではないか。
それはたぶん、福澤先生がアメリカを受容したやり方と基本的には同じなのではないか。アメリカに対して憧れはあってもすべてを模倣しようとは思わずに、日本の中でそれをどのように生かしていくかということを常に考えていたわけです。そういう意味では、まさに福澤先生がアメリカを理解した方法で、これからの慶應義塾も考えていけばいいのではないかと思います。
福澤訳「独立宣言」が照射するもの
大久保さん、福澤研究センターで福澤研究および慶應義塾史、そして近代日本研究を推進していく立場から、アメリカ独立250周年という節目をどう捉えられますか。
渡辺さんの貴重なご指摘に引き付けますと、パクス・アメリカーナの時代が終焉を迎えた今こそ、もう1度原点に立ち戻って、『西洋事情』に収められた福澤諭吉による独立宣言の翻訳「亜米利加13州独立の檄文(げきぶん)」を読み直す意義がある、と私は考えます。
注目したいのは次の2点です。第1に、冒頭の「天の人を生ずるは億兆皆同一轍にて、これに附与するに動かすべからざるの通義を以てす」は、先にも触れた、普遍的な人間の権利「通義」(Rights)を定めた有名な一節です。
250年経った現在、国際社会ではアメリカをはじめとした大国が介入する戦争が続き、多くの無辜の民が犠牲になっています。他方、日常生活においてはAIの発展により人間とマシンとの境界が揺らぎ、貧富の格差もますます拡大しています。「人権」とは何か、今こそ改めて問い直す必要があるでしょう。
第2に興味深いのが、福澤の誤訳と思われる一文です。独立宣言には、「国王は、われらの内に内乱をそそのかし、その戦争作法が年齢、性別、その他一切を問わない破壊であるところの、慈悲を知らぬインディアンの野蛮人を辺境地帯の住民に対して投入しようとしてきた」という一節があります。
これは、アメリカ合衆国の建国の父たちのうちに潜む、先住民への差別意識を表出した一文です。
福澤はここを、「英国王、我諸州に内乱を起さしめて、我州内の人民を印度(インド)の野人と同様に御(ぎょ)せんと欲すれども、印度人殺伐不仁の戦とこれを同日に論ずべけんや」と訳しました。
すなわち福澤はおそらく、アメリカ先住民であるインディアンと、イギリスのインド統治を混同して解釈しています。福澤はこの時点では、植民地統治への関心はあったものの、先住民族の問題について、十全には理解していなかったのかもしれません。
しかしその後、『文明論之概略』になると異なります。そこでは、イギリスの残虐なインド統治とともに、ヨーロッパ列強によるアメリカ支配に触れ、「今の亜米利加(アメリカ)は、元(も)と誰の国なるや。その国の主人たるインヂヤンは、白人のために逐(お)われて、主客処(ところ)を異にしたるにあらずや」と指摘するに至ります。
そして福澤は、まさに世界中に植民地帝国が広がっている現今の国際情勢のなかで、日本はこれにどう対峙すべきか、という問題を提示しました。
21世紀の現代において、ポストコロニアルはきわめて重要な思想課題です。もちろん植民地主義は、西洋世界だけの問題ではありません。それはまた、近現代日本の歩みへの反省をも促すものです。
当然ながら、ポストコロニアルの問題は、第1の論点として指摘した、アメリカ独立宣言の冒頭の一文に示される普遍的な人権「通義」の観念とも深く連関します。
大学生はもとより、一貫教育校の高校生や中学生の皆さんには、この機会に、是非ともアメリカ独立宣言の英語原文と、福澤諭吉の翻訳文とを読みくらべ、訳語の細部まで、詳しく比較検討していただきたいと思います。そこからは、この250年の間の人類史の歩みと、現代世界が抱える政治課題が浮かび上がるはずです。
アメリカの拠点としてのNY学院
巽さんは以前から、日・米・慶應の三重文化を提唱しておられます。これまでの議論を踏まえて、現在とこれからの文化をどうつくっていくべきだとお考えでしょうか。
こちらに来て今年で5年目になりますが、その間、全米に60校ほどある日本人学校の多くを表敬訪問してきました。文科省の肝入りで校長が派遣される学校が多いのですが、中には西大和学園カリフォルニア校やニューヨーク育英学園のような私学もあります。そのうち補習校は土曜日のみですが、かといって日本の塾や予備校とは違い、毎週土曜日に、英語のほうが日本語よりも得意だという子に、日本語を忘れさせないようにする教育を一貫して施しています。
それは実はニューヨーク学院と変わりません。前述したニューヨーク州私学連盟(NYSAIS)の校長会議で仲良くなるのは、大体フレンチスクール、ジャーマンスクール、イタリアンスクールの校長たちなんですが、いずれもバイリンガル教育が共通点ですね。バイリンガル教育というのは、英語は重視するのだけれど、母国語も決して忘れてはいけないという教育です。
そこに、われわれはもう1つ、慶應スピリットというものを入れている。日米慶應のトライカルチャーを学院の新しい理念として掲げ、慶應の文化も1つの言語体系と看做しています。文化というものは、1つだけでは成立せず、様々な相互影響があって成立していますから。
実は、石川忠雄塾長がニューヨーク学院を1980年代に構想し、二瓶恭光初代学院長のもとで90年に発足した時にはKeio High school of New Yorkという英語名だったのがいつのまにかKeio Academy of New Yorkに変わっている。それは1つには、9年生から12年生までの4年制であることなど、日本の高校にはそのまま移し替えられない部分があるからです。
そしてもう1つ、1996年の春に、私が文学部説明会のため学院を初訪問した時の杉浦章介第2代学院長によると、「アカデミー」には、ゆくゆくは研究拠点にする構想も思い込められている、ということでした。それは、私が定年退職後であるにもかかわらず学院長職を引き受けた理由の1つでもあります。未来の研究所構想というのが、魅力的でした。実際にそれが実現するまでにはずいぶん歳月を要し、学院創設36周年を迎えた今年6月の理事会でようやく、学院内部に慶應義塾トライカルチャー教育研究所(The Keio Institute for Tricultural
Education)を設立することが承認されました。
実際に今、私が理事を務めるニューヨーク日本歴史デジタル博物館では「福澤諭吉とニューヨーク」という企画を進めていますが、完成した暁には福澤研究センター、ニューヨーク学院と連携して記念シンポジウムを行う話もあります。ゆくゆくは、トライカルチャー教育研究所は、内外の福澤研究者や日米研究者が滞在し研修も可能なインターフェイスになるといいと思っています。
ニューヨーク学院長を務めていると、ニューヨーク三田会をはじめとする全米各州の塾員の方々が頻繁に訪問されることもあり、学院が北米における慶應義塾の1つの拠点にもなっていることを実感します。そういうことを考えると、教育機関であるとともに、半ば研究機関としての性格を兼ね備えていけば、やがては日本を代表する学術教育拠点として、今後100年分ぐらいの将来構想は成り立つのではないか。それは日米の教育・研究にも資するところが大きいのではないかと考えています。
慶應とアメリカと日本の関係性を作っていく実践の中で、研究機関同士の連携にも期待しております。
1つ付け加えますと近年、福澤研究センターを中心に私はMITとのつながりを作る活動をしています。私自身がMITに留学していたということもありますが、MITは人文科学面でも慶應との密接な関係を作っていくことに前向きで、今年の1月にもMITの学生たちを慶應に迎えてイベントを開催し、歴史学科との共同研究も進めています。
昨年もMITに行きましたが、今後、アメリカとの関係という意味では、慶應とMITとの関係を人文社会系も含めて強化していくことで、お互いの発展に資するものになればいいなと思っています。
現実主義でアメリカに向き合う
最後に藤崎さんから一言お願いできればと思います。
私が申し上げたいのは2点です。1つは、今の国際情勢はトランプ政権のもとで、大きく動いている。そういう時にカナダのカーニー首相は、ルールに基づく国際秩序という時代は終わった。したがって、ミドルパワーが結束しなければいけないという演説を今年ダボスで行い、注目を集めました。
しかしこれはカナダだから言えることで、隣りにロシア、中国、北朝鮮がある日本は、やはりアメリカに安全を保障してもらわなければやっていけない。福澤的な現実主義の考え方に立った時、日本はアメリカの今のやり方がおかしいといって距離を置くわけにいかない、というのが1点です。
もう1つは、アメリカがこれからもずっとアメリカファーストでいくのかというと、私は経済のバイ・アメリカン的なもの、あるいは自由貿易協定に対する距離感はあまり変わらないだろうと思いますが、国際機関やNATOとの関係は、トランプ1.0からバイデンでガラッと変わったように、ドンロー主義は、変わる可能性はあると思います。
日本は、国際情勢の変化に対し、国の基本はしっかり踏まえながら上手く対応してきたし、今後も十分そのようにできると思います。
本日は、皆様の活発な議論によって、アメリカと福澤諭吉、慶應義塾のこれからを考える上で、豊かな視座が与えられたように感じます。大変有り難うございました。
(2026年5月26日、オンラインにより収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。