執筆者プロフィール
小倉 孝誠(おぐら こうせい)
名誉教授小倉 孝誠(おぐら こうせい)
名誉教授
科学とテクノロジーは人間の生き方やものの考え方、そして社会のあり方につねに影響を及ぼしてきた。とりわけ近代に入ってからその進歩はめざましく、加速度的に人間生活に作用してくる。文学と文化史の研究者であり、大学の教師だった(過去形にするのは去る3月で大学を退職したから)私にとって、テクノロジーの恩恵をもっとも強く感じたのはパソコンの登場と普及である。
物心ついた頃からパソコンに接してきた現代の若い世代には、それが存在しなかった時代を想像することさえ難しいだろう。かつては手書きだった原稿が、パソコン(それ以前のワープロも含めて)の普及によって、キーボードで文字を入力し、修正し、体裁を整えた後にプリントして確認したうえで(人によってはプリントさえしない)、編集者にデータを送付するという様式に変わった。手書き原稿の煩瑣と、それに要する時間と労力を知っている世代から見れば、まさに隔世の感がある。
デジタル化の恩恵
私にとってもうひとつの利点は、デジタル化された古い書物や文献をウェブ上で容易に読めるようになったことだ。私の専門領域であるフランス文学に関して言えば、日本のどこにも所蔵されていない文献は、かつては最終的にパリのフランス国立図書館に直接赴いて、その場で閲覧するしかなかった。外部への貸出はもちろん行われない。
しかし20世紀末以降、古い時代の文献のデジタル化が急速に進み、たとえば私の専門領域であるフランス19世紀(日本で言えば幕末から明治初期)の書物、新聞、雑誌もその例外ではない。フランス国立図書館のサイトにアクセスすれば、それらを即座に、無料で閲覧できるのだから、研究者にとっての恩恵は計り知れない。同時に、物理的に文献を参照できなかったという、かつてのような言い訳は通らないということにもなる。
デジタル技術の文学研究への貢献はほかにもある。私はエミール・ゾラ(1840―1902)という作家を長年研究してきた。ゾラは小説執筆に際して、多様な資料を作成したことで知られる。作品の構想、章の構成、作中人物のプロフィール、さらには作品の舞台となる社会空間(たとえば中央市場、デパート、炭鉱、鉄道)について調査・取材した記録、などだ。その内容は、19世紀後半のフランス社会についてのまさに社会人類学な資料と呼べるような密度を呈している。
それらの手書き資料は例外を除いて、20世紀末まで、フランスの特定の図書館に行かなければ読めなかった。しかし現在では、その多くがデジタル化され、図書館やゾラ研究センターのウェブサイトで公開されているから、誰でも参照できる。このような事情はフランスに限らず、他の多くの国でも同様だろう。
近年になって登場した生成AIもまた、ひとつのテクノロジーであり、われわれの生活全般に深く浸透しつつある。教育、医療、スポーツから、防衛、軍事など国家政策に関わる重大事案にいたるまで、その影響は甚大である。企業活動にしても、生成AIをどこまで有効に使いこなせるかが問われる時代が遠くないのかもしれない。
新しいテクノロジーが実用化されると、当初はさまざまな問題を提起するものだが、生成AIがもたらす善悪含めての影響はとりわけ大きい。だからこそ『三田評論』は今回のような特集を企画したのだろう。
生成AIをめぐる昨今の話題
デジタル化された書物をパソコンの画面で読んで、理解し、活用するのは、あくまで人間の個人的な営みだった。生成AIはその作業までも人間に代わって担える。基本的な情報は人間が生成AIに提供するが、その後のかなり知的な作業まで生成AIができるようになった。それがかつてのテクノロジーとの決定的な違いであり、だからこそ世界中でその活用をめぐって危機感が共有され、議論が沸騰しているのだ。新聞、雑誌、テレビなどのメディアで、生成AIが話題になる頻度が高いのは、偶然ではない。
たとえば雑誌『現代思想』の2026年1月号は「現代思想のフューチャー・デザイン」という特集を組んだ。そこには科学や社会科学だけでなく、文学や哲学などの人文学においても生成AIのインパクトがすでに出始めており、将来的にはもっと強くなるだろうという議論を展開する論考が掲載されている。いわゆるデジタル人文学の可能性をめぐる議論である。
またつい最近では、総合雑誌『世界』2026年5月号が、企画のひとつとして「生成AI化する日常」と題する小特集を掲載している。岡野原大輔「ゆさぶられる〈知の重心〉」によれば、とりわけ大規模言語モデル(LLM)は要約、翻訳、質疑応答などで利用されており、それが活用される場面は今後ますます増えるだろうという。しかも、単にテキストを生成するだけでなく、2024年後半以降は、みずから推論する能力も向上しているらしい。
教師にとって、教育や研究の場で、生成AIをどのように使うか、そして生徒や学生にどこまで使用を認めるかは重大な問題になった。とくに当初から教師を悩ませてきたのは、学生のレポート作成において、生成AIの使用を許可するのかどうか、許可するとしてどの範囲までなら認めるのか、という問題である。これは大学によって、また同じ大学でも学問分野によって、さらには教員によって対応が異なるだろう。
文学研究とは何か?
以上は、生成AIをめぐる昨今の状況と、それがもたらす影響に関する一般的な話である。私はAIに関する専門的な知識や経験に乏しいから、それが未来の人間生活にどのように波及するか予想することもできない。生成AIは人文知の領域でも、これから無視しがたい影響を及ぼす可能性がある。ただしテクノロジーだけが先行しても、研究の本質がすぐに変化するわけではない。
大学を退職し、教育現場の現在から離れ、フランスの文学と文化史の研究を続けている私は、AIをほとんど使ったことがないし、現時点でその必要性をあまり感じていない。現代の常識からすればまったく退嬰的ということになるかもしれないが、以下ではその理由をごく主観的に述べてみたい。
文学研究とは何か?
基本的に、作品を読むことからすべてが始まる。そして作家の生涯と経歴について必要な知識を得て、さらにはその作家が生きた時代と社会に関しても十分な情報を具えていなければならない。作品としては詩、小説、戯曲、評論、自伝、エッセーが主なジャンルだが、作家によっては膨大な量の手紙や、手記や、日記を残している。そうした資料あるいはテキストも、無視することはできない。どの国や地域の、どの時代の、どのような作家に興味をいだくかは、究極的には研究者の趣味、さらには人間観や世界観の問題に帰着するだろう。その段階で、生成AIが関与する余地はない。
作品論であれば、その作品をできるかぎり深く読み込んで、新たな主題や次元を見出すこと。作家論であれば、従来のイメージを刷新するような作家像を提示すること。あるいは、より広い文学史的な視点から、比較的長い時間のスパンでひとつの文学運動の意義を再考したり、時代を貫く新たな主題を発見したりすること――ざっくり言えば、それが文学研究である。
そして、それができるかどうかが研究者の資質と能力ということで、それはおそらく生成AIが、少なくとも現時点では代替できない。文学研究は、小説や詩や戯曲を書くこととは異なるが、それと同じように想像力と創造性が求められる。研究主題までも生成AIに見つけさせようとするのは、文学研究者としては怠惰の誹りを免れないし、研究倫理に反するのではないだろうか。
唯一の正解はない
文学研究において、唯一の正解はない。あるのはさまざまな解釈である。クイズを解くように正しい答を発見するという姿勢は、およそ文学研究とは対極的な姿勢にほかならない。言葉の芸術である文学作品には曖昧さや不確定性が付着し、作家の個人的な幻想や固定観念がまとわりつく。そうした曖昧さや幻想もまた、作品の魅力や価値を構成するのである。
生成AIは要約が得意だ、と言われる。長い文章やテキストを短時間に要約してくれるのは、場合によってはありがたいだろう。ただし、ここでも文学研究は事情が少し異なる。小説や戯曲なら、物語の大筋を要約できるだろうが、詩はそれができない。またAIによる要約は、豊かな物語の世界を、AIが重要と判断した少数の要素に還元することだが、文学作品を読んでどこに関心をいだき、どこに価値と意義を認めるかは読者の、そして研究者の主観的判断の問題である。AIによる要約は、特殊で個別的な文学世界を、平均的で単純な要素に矮小化するということだから、文学研究の本質と相容れない。文学研究は、要約できない複雑な世界を相手にしているのだ。
冒頭で述べたように、デジタル技術が文学研究にもたらす便宜は小さくない。しかしその便宜と、作品やテキストを前にして思考する営みとは別次元の問題であろう。便利さ、それが可能にするコストや時間の節約と、文学研究の本質、その基本的手続きを混同してはならないと思う。
以上は、生成AIと親和性の乏しい旧世代の意見にすぎない。私が想像だにしない技術が、将来的に生まれてくるのだろう。その時こそ、文学研究の重大な転機である。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。