慶應義塾

三宅 理一:谷口吉郎・吉生父子と金沢の歴史的環境

公開日:2026.05.07

執筆者プロフィール

  • 三宅 理一(みやけ りいち)

    その他 : 谷口吉郎・吉生記念金沢建築館館長

    特選塾員

    三宅 理一(みやけ りいち)

    その他 : 谷口吉郎・吉生記念金沢建築館館長

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画像:《谷口吉郎・吉生記念金沢建築館》全景、設計:谷口吉生、撮影:北嶋俊治

金沢という土地柄

金沢の文化を一言で表すとすれば、藩政時代の伝統と21世紀の最先端の文化がほどよく混じり合った町といえるだろうか。古い側を象徴するものが金沢城に隣接した兼六園だとすれば、現代文化の代表はその近傍に建てられた《金沢21世紀美術館》(2004年)である。一方は前田家によって生み出された技巧の限りを尽くした大名庭園、他方は世界のトップランナーに数えられる建築家ユニットSANAAによって構想された現代美術館、ともに年間200万人を超す来訪者をかかえる。観光の立場からすればそれぞれが稼ぎ頭である。とくに後者の場合、規模の小さな現代美術館であるにもかかわらず異常に大きな集客数で、その効果は地方都市を美術館が救ったことで知られるスペインのビルバオ現代美術館を凌ぐとさえいわれる。むろん、展示の内容や質も遜色ない。

同じ現代建築として人々を惹きつけるのは、兼六園からほど近いところにある《鈴木大拙館》(2011年)である。金沢出身の仏教学者たる鈴木大拙を讃えるために大拙の故地につくられた展示施設であるが、博物館の類とはいっても規模の上では延床面積600平方メートルあまり、本当に小さい。住宅の延長である。平屋ゆえに周囲の住宅に隠れ、遠くからは識別できない。しかしこの大拙館が年間8万人近くの人を集め、その3割が外国人来訪者であるというのは驚きである。しかも皆、滞在時間が長い。

《鈴木大拙館》の設計者は谷口吉生である。金沢出身の建築家谷口吉郎の長男として生まれ、それゆえに金沢に対する想いはおのずから大きい。その谷口が満身の力を込めて設計に取り組んだのがこの館で、大拙に対する尊敬の念を禅という主題を通して最大限に表した建築といってもよい。それまで美術館建築の領域で次々に話題作を発表してきた谷口が、この館をもって自身の新しい心境を示したともいわれ、生来の精緻さに加えてインスピレーションと驚きがつまった建築となった。

図1《鈴木大拙館》思索空間と水鏡の庭、設計:谷口吉生、撮影:北嶋俊治

歴史都市金沢はこのように新しいクリエーションの動きが連綿と続いており、その意味では現在を生きる都市である。歴史遺産の観点でも創造性の意味でも国内外からの評価は高く、近年はユネスコ創造都市に指定され、世界のモデルケースとまでいわれている。ただ、それはあくまでも今日の見方であって、長い歴史の中ではひとつの断面にすぎない。一朝一夕にこのような都市像が達成されることはなく、何世紀にも及ぶ膨大な蓄積と巧みな舵取りがなければ、この種の文化性を下敷きとする都市のエッセンスは達成できない。都市を動かす側としては、金沢という歴史風土をきちんと見極め、その価値とそこに集まる人々のクリエイティブなマインドを見抜き利用する眼力と実行力が必要なのである。

城下町として

歴史を振り返ってみよう。加賀百万石といわれ、国内最大の規模を誇った加賀前田藩は、幕府との軋轢を避けるため城郭といえども軍事の表現を極力避け、玉泉院などのすぐれた庭園を造作することで徹底して優美な空間をつくりあげていった。文化のパトロンの役割もきちんと果たし、小堀遠州や千仙叟宗室(せんのせんそうそうしつ)などの茶人を招き、また工芸を奨励する。その最たるものが、色彩豊かな九谷焼であり金沢箔と呼ばれる金箔細工であった。谷口家は藩政期から続く九谷焼の窯元であり、その美意識が谷口親子の建築観を支えたといっても言い過ぎではないだろう。

金沢のもつこのような精神性は都市空間と関係しあっている。町のいたるところにある庭園そして茶室は、これらの文化を実践し後世に伝える役割を果たしてきた。武家だけでなく町人もこうした文化の恩恵に与っており、その広がりは明治維新を乗り越えて明治から昭和の初めに到るまで、金沢に染み付いた文化の香りとでもいうべき役割を果たした。陶磁、漆、友禅など工芸を生業とする店舗が街並みのあちこちに散らばり、そのブランドは全国に波及し、欧州各地で開かれた万国博にも出展された。谷口吉生の祖父吉次郎はフランスやベルギーに赴き、金沢ブランドを世界に広める役割を果たしている。

街の風情といえば、明治に入っても金沢は藩政期の街並みをそのまま継承して、日本の城下町のもっとも典型的な都市空間を保っていた。城下町の基本として城郭とそれを取り囲む堀、そして外縁部の惣構えと、同心円状に街並みが形成され、さらに南の山麓から城郭に到る尾根線(石引道)が伸びているので、起承転結のある都市空間であった。中心にある金沢城は明治初年の廃城令に際しても存城とされ、解体払下げの危機を乗り越えたかのように見えたが、残念ながらそこに駐屯していた陸軍歩兵第7聯隊の失火で明治14(1881)年に藩政時代の極みともいえる二の丸御殿が焼失してしまった。金沢人にとってこの御殿の損失は悔やんでも悔やみきれない出来事で、長らく再建の議論が続いてきたが、今日になって木造で当時のままに再現した復原工事が始まり、市民の期待を集めている。

その一方で、寺院群や町家群は適度の建て替えのメカニズムを経ながら、昭和の初めを迎えている。当時といえば、高層ビルという概念はまだ浸透しておらず、坦坦と広がる町家の家並みが眼に心地よく、堀や濠が街並みを取り囲んで建築、樹林、水系がほどよい調和を見せていた。都市づくりをめぐる混乱はむしろ第2次大戦後になってからである。国内の主要都市の7割方が空襲で破壊される中、金沢は空襲被害に遭遇せず、その点では幸運であった。城下町でいえば松江、弘前など数少ない事例である。戦争で壊された日本の主要都市は戦後の復興期から高度成長期に到る20年ほどの間にコンクリートの中層・高層ビル群に置き換わり、それが経済発展のしるしとされた。そうなると、金沢の古い街並みはむしろ阻害要因に映り、調和とか保全といった発想は退けられ、繁華街の片町などで建て替えが始まる。その状況に警鐘をならしたのが谷口吉郎その人であり、それに共鳴した多くの文化人、そして市役所や財界のトップマネージャーたちがその意見に従った。

歴史的環境をめぐって

「金沢診断」と呼ばれる金沢の歴史的環境の保全活動は、歴史的都市空間の消滅に対して危機感を募らせた谷口吉郎が1967年に呼びかけ人となって今泉篤男(京都国立近代美術館館長)、関野克(東京大学教授)など文化政策や遺産保護の碩学を金沢に集め、金沢の街並みを診断したことに始まる。その結果として、抜本的な保全策を当時の徳田與吉郎市長に提案し、市側もそれに応えて「伝統環境保存条例」(1968年)を策定し、さまざまなアクションプランを発動する。

1960年代当時、世界中で歴史的町並みが開発行為によって浸食されていく事例が目立つようになり、いかにそれを守るかが大きな課題となっていた。そのため、フランスのマルロー法(1962年)や英国の「シビック・アメニティ法」(1967年)など欧州各国で都市保存の法制化が進んでいた。日本でも鎌倉の歴史地区内での宅地造成問題から発して文化人たちが立ち上がり、奈良や京都も含めた「古都保存法」(1966年)が制定されたが、地方都市の歴史環境問題をすくい上げるための法的手段にはまだ隔たりがあった。

「金沢診断」はその意味で全国に先駆けて地方自治体のイニシアティブで歴史的環境を守ることになり、ただ過去を振り返るだけでなく都市全体の未来ビジョンを描きながら歴史に対峙するという姿勢をはっきりと打ち出した。国の一元的な法律ではなく、自分たちで街を守るという視点が明らかとなり、地元経済界もそのための方策を全面的に支援する。金沢人としてのプライドがそうさせたのだろう。明らかに他の町とは異なっていた。その反面、時代錯誤的だともいわれ、東京方面からは「1周遅れのトップランナー」との陰口をたたかれた。それでもこのポリシーを貫き、「金沢診断」以来の処方箋を持続的に実施に移してきたことが今日の成功につながる。

あまり知られていないことであるが、1960年代に建築系のジャーナリズムや大学の間で湧きあがった歴史的環境への取り組みとして「デザイン・サーヴェイ」なる街並み調査が挙げられる。文化財調査のような個別建造物の調査ではなく街並み全体に網をかけて全棟調査を行うので、相当の手間がかかるが、街並みを群として認識する上ではきわめて有効である。その始まりは金沢にあった。建築史家で民家研究を続けてきた伊藤ていじが牽引役になり、1965年に米国のオレゴン大学のチームを金沢に招聘し、犀川に面する幸町でサーヴェイを実施した。米国研修中に見聞した都市調査に刺激を受け、その主体であった大学チームをわざわざ日本に呼んだのである。

この結果が日本の建築雑誌に掲載され、大きな反響を呼んだ。それをきっかけとして、倉敷、篠山、伊根、妻籠と全国各地の町や集落でサーヴェイが行われるようになる。傑出した価値をもつ建造物(文化財)ではなく、その土地固有の歴史的な集合体として建築群を知るという意味で建築教育にも大いに貢献した。「ヴァナキュラー」という概念が定着したのもこの頃であり、金沢はその宝庫でもあった。

谷口吉郎の貢献

谷口吉郎は金沢生まれ、旧制四高を卒業する。昭和3(1928)年に東京大学工学部建築学科を卒業するが、その頃流行っていた分離派などの装飾性に反発し、工場建築のもつ即物性・合理性を自身の設計指針とするようになった。1930年代後半に渡欧し、シンケルなどドイツ新古典主義をまのあたりにして古典性に対する憧憬にも似た気持ちを抱くようになる。

しかし、第2次大戦という未曾有の悲劇を経験した後、村人たちと一緒に馬籠に完成させた《藤村記念堂》(1947年)や大戦に対する贖罪の意味を込めた《千鳥ヶ淵戦没者墓苑》(1959年)など、人間性に対する深い洞察の上にきめ細やかな建築を志向するようになった。その一方で《東京国立博物館東洋館》(1968年)や《東京国立近代美術館》(1869年)などのナショナル・プロジェクトの設計者に指名され、また《東宮御所》(1960年)や《迎賓館和風別館》(1974年)など国家の中枢となる建築にも参画している。まぎれもなく戦後の建築界の大御所であるが、丹下健三などル・コルビュジエなどに通じるモダニズムとは一線を画していた。

丹下健三とその門下が都市の新陳代謝(メタボリズム)を唱え、東京のメガロポリス化をはかった「東京計画」(1960年)などを通して拡張する都市に見合った未来志向の建築を提案していくのに対し、谷口は都市の中にしっかりと基盤を築き、地から生まれ出ずるような建築を志向していた。その結果として、都市はおのずから歴史に規定され、その集積があって初めて人々の集い暮らす空間ができると想いをめぐらすようになっていた。だからこそ国内各地で進んでいた拙速な開発行為に心を痛め、みずからが責任をもつかたちで古き良き空間を守ろうとした。「金沢診断」と前後して《博物館明治村》の開設(1965年)に尽力したのもその表れである。四高の同級生で名鉄副社長であった土川元夫が彼の考えに共鳴し名鉄がその事業に参画することになった。ここでも金沢ネットワークが生きている。自分たちが生きた時代の記憶、そしてその先人たちの偉業を空間として未来に伝えなければならない。現地保存ができないのならせめて移築によってそれらを守り、維持していかなければならない。建築博物館の思想がここに芽生えている。

谷口吉郎のアイコニックな建築空間というとかつての《ホテル・オークラ》が想い起こされる。東京虎ノ門の高台にある旧大倉邸の敷地を利用し最高級ホテルとして昭和37(1962)年にオープンした。建築それ自体は外務省庁舎を設計した小坂秀雄によるが、メインロビーなど主要な内部空間を手がけた。天井を高くとった大空間に和風の美ということで雪見障子と麻の葉紋の組子、天井からいくつものランタンが組み合わさって下がる「オークラ・ランタン」などえりすぐられたデザインがこのホールを彩る。

茶室を好んだ吉郎であるが、ここでは西洋建築のスケールに和風を引き伸ばし、公共スペースとして生き生きとした空間に仕立て上げる。ドイツで学んだ古典の世界と金沢由来の和風空間の統合という意味で、建築史上に残る傑作である。2016年に始まったホテル・オークラの建て替え(2019年)にともなって、このロビーは息子吉生の手によって同一のものが同ホテル内に複製され、父の作品へのオマージュとなっている。

谷口吉生と金沢

谷口吉生は東京に生まれ、東京で育った。金沢との縁はそう深くなかった。戦時中に金沢の実家に疎開したが、病弱な体質だったせいか、寒く湿っぽい土地柄とあまり良い印象を抱いていない。しかも、若い頃の彼は、父親の存在が大き過ぎたせいか、大学は建築学科のない慶應に進み、専攻も機械工学と建築とは距離を置いていた。しかし、海外経験が必要と周囲に言い含められ、米国のハーバード大学に留学したことが彼の人生を変えた。

米国東海岸で建築を初歩から学ぶ。彼にとっての建築の原点はここにあり、日本でのしがらみから自由という意味で父親の建築を客観的に眺めることができるようになった。帰国後は丹下事務所で働き、持ち前の英語力を発揮して丹下の海外プロジェクトの補佐をするとともに、磯崎新や槇文彦といった若手と仕事をする機会をもつ。とくに槇文彦はハーバードで教鞭をとっていたので、近しい関係となり、その後は家族ぐるみの付き合いとまでなった。

自身の事務所開設は昭和50(1975)年であるが、それから3年、昭和53(1978)年は谷口家にとって思い出深い年となった。父吉郎からの提案で父子共同で計画を進めてきた《金沢市立玉川図書館》がこの年、竣工する。父は旧専売公社の煉瓦倉庫を近世史料館に改装し、吉生はその隣に新たな市民向けの図書館棟を設計する。金沢には藩政時代の史資料が膨大に残されており、吉郎にとってはその収蔵閲覧のスペースをつくることが金沢人たる自身の使命と考えていた。

この年、吉郎は金沢市の名誉市民第1号に選ばれている。吉生が設計を進めていた《資生堂アートハウス》もこの年に竣工し、日本での最高位の建築賞たる日本建築学会賞を2年後に受賞する。これによってそれまで父親の陰に隠れていた吉生の存在が一気に表に出ることになる。また金沢との縁も深まった。

奇しくもこの年、吉生はふとしたことから知り合ったファッション・コーディネーターの久美と結婚する。久美の父親も金沢出身で、吉郎はたいそう喜んだという。翌年、吉郎はこの世を去るが、この結婚こそが息子から父への最高のはなむけであったに違いない。

その後の谷口吉生の活躍は論を俟たない。風景を建築に取り込んだ《土門拳写真美術館》(1983年)が美術界で絶賛され、丸亀の《猪熊弦一郎美術館》(1991年)以降はトレードマークとなる門型のファサードを用いて独自の美術館のタイポロジーを展開する。東京国立博物館では父の《東洋館》(1968年)に対するオマージュとして《法隆寺宝物館》(1999年)を完成させ、さらに《ニューヨーク近代美術館》(MOMA、2004年)でニューヨークの繁華街の中に整った気品ある空間を現出させたとして世界の耳目を集めることになる。華やかさを求めず、ひたすら静謐で淀みのない建築空間を追求したことで、美術館建築の新たな境地を切り開いた。

このように多くの美術館や公共建築を手がけながら、吉生の金沢での作品は《玉川図書館》を含めて3件に限られる。とはいえ、《鈴木大拙館》は規模は小さいものの他では得がたい印象を訪れた人に与える。時の山出保市長から「展示物はない、禅の思想を建築にしてほしい」と半ば無理難題を突き付けられ、考えに考え抜いた挙句の解が、水庭と方丈を組み合せ、風や水のかすかな動きを感じ取る微妙で繊細な風景式の建築であり、竜安寺石庭や西芳寺などと較べても遜色がない。

そんな仕事の合間に金沢への恩返しは何かを考え、寺町にあった実家の土地とコレクションを金沢市に寄付することを決断した。市はそれに応えて谷口父子の名を冠した建築博物館の設置を決定する。設計は吉生が行った。日本では東京湯島の国立近現代建築資料館に次いで2件目の建築博物館であり、国ではなく地方自治体のイニシアティブでできあがったところに大きな意味がある。膨大な数の建築史料、美術工芸品が収められ、未来に向けていかに活用するかを検討中である。

《谷口吉郎・吉生記念金沢建築館》(2019年)が生み出された背景には以上のような長いストーリーが横たわっている。歴史文化をつむぎ、建築を大切にすること。一つひとつがさりげない行為の積み重ねであるが、その集積の上に今日があることを知っていただきたい。

図2《谷口吉郎・吉生記念金沢建築館》全景、設計:谷口吉生、撮影:北嶋俊治

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。